Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第12回 「愛」なるものを直視する  [09/07/2008]


Love and friendship are profoundly personal, selfish values: love is an expression and assertion of self-esteem, a response to one’s own values in the person of another. One gains a profoundly personal, selfish joy from the mere existence of the person one loves. It is one’s own personal, selfish happiness that one seeks, earns and derives from love. A “selfless,” “disinterested” love is a contradiction in terms: it means that one is different to that which one values. Concern for the welfare of those one loves is a rational part of one’s selfish interests.( “The Ethics of Emergencies” in The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism)


(愛と友情は非常に個人的、利己的な価値である。愛は、自尊心の表現であり肯定である。他人の人格の中に自らが価値あると認めるものが在ることへの応答である。人間は、自分が愛する人間がただ存在するだけで深い私的な利己的な喜びを得る。人間が求め、苦労して獲得し、愛から引き出すのは、私的な利己的な幸福である。「無私な」愛とか「利益を考えない」愛というのは、言葉の上で矛盾している。それは、自分が価値を置いているものに対して無関心であると言っているのと等しい。人間が愛する人々の幸福に関心があるのは、人間の利己的な利益の合理的一部である。)

★「アイン・ランド大嫌い派」なる人々がいると仮定して、なんで嫌いかと言えば、その理由のひとつは、「愛」とか「友情」とかについて、引用文が示すようなことを、はっきり言うからでしょう。ランドは、「愛」とか「友情」とかの内実を、肯定的な言葉だからといって、曖昧模糊なままにはしません。神秘化もしませんし、砂糖もまぶしません。

★曖昧模糊なままにしておかないと、sugarcoatedしないと、存続しないものならば、ぶち壊していいし、どうあがいても、ぶち壊れるものはぶち壊れるのだから、暴いてぶち壊して構わないのです。言葉に出さずとも、人に言わずとも、心の中ではぶち壊していいのです。そういう行為を、「脱神秘化」と言います。

★もちろん、曖昧模糊なままにしておくしかないこともあります。わからないことが世の中には多いです。解明証明分析されるまでは、曖昧模糊なままにしておくしかないことは多いです。宇宙の仕組みとか、地球のこととか、神の問題とか霊的な関係のこととか、人間の中にある開発されていない力とか、早くわかりたいものですよね。

★でも、愛情とか友情の内実は、ランドが書いたとおりだと、私は思います。どんな人間に好意を持つか、どんな人間に愛情を感じるかといえば、私の場合は、はっきりと、自分の価値観にあっているかどうか、です。もちろん、一般的な意味での善意とか親切心とか関心というものは、誰に対しても持っています。小動物を苛めないとか、植物にちゃんと水をあげるとか、物は手荒に扱わないのと同じく、ヒトも手荒に扱ってはいけません。

★ともあれ、私自身は、私自身が実現していて私自身が我ながらいいな〜〜と思っている何かや、私自身が実現したいと思っている何かを実現している人、実現しようとしている人にしか個人的関心がありません。近寄りもしません。常識的な普通の敬意を払うだけです。ぶっちゃけて言えば、私自身に似ている資質を持つ人にしか愛情は感じないという点において、私は私だけを愛しているのかもしれません。なんか文句ある?

★「無償の愛」なんて存在しないと言うと、すぐに批判する人がいます。愛情に打算を持ち込むのかと短絡的に批判する人がいます。アッタマ悪いよね〜〜不正直だよね〜〜「関係」は、関係する当事者それぞれに得るものがあるからこそ生じるのです。得るものがなければ「関係」は稼動しないのです。前提として報酬のない「関係」など、あり得ないのです。「関係」には「肯定」しかないのです。というか、人と人との私的で個人的な関係が育まれるというのは、何らかの互恵関係があるからです。互いに与え合うものがないならば関係は生まれません。だから、アイン・ランドは、まっとうな人間関係は、みな交易者、商人(trader)の関係だと言ったのです。

★愛しているが報われない、愛したのに報われなかったと、あなたが傷ついているのならば、あなたは、自分自身の価値観とは関係のない人間と、無理につきあっている、もしくは、つきあったのではないでしょうか?自分が何をほんとうに求めているのについて勘違いをしている、もしくは自己把握をしていなかった、のではないでしょうか?もしくは、あなたには価値観がないとか?もしくは、あなたは自分に不正直であるのが常であるとか?ただただラクしたいだけとか?生まれっぱなしのままで、優しく面倒みてもらいたいとか?赤ちゃんじゃないのだから、それはもう無理ですよ。

★ただし、肉親関係は別です。肉親は自分で選べませんから、場合によっては、自分の持つ価値観と大いにずれる他人と関わらざるをえません。『肩をすくめるアトラス』の鉄鋼王ハンク・リアーデンも、肉親と心を分け合うことができないことに悩みました。

★自分で選べない肉親関係の不快さについては、まあ、自分で人間関係を選ぶための修行だと思うしかないです。親は子どもを選べない。子どもは親を選べない。兄弟姉妹も互いに選べない。選べないものは、ほんとに、うっとうしいです。そうだ、生まれた国も時代も選べないな。選べないことに関する葛藤は受け入れるしかありません。選ぶことを選ぶまでは、もう葛藤しないと選ぶまでは、選べないことに翻弄されるしかありません。

★自分が選べない事柄に関する苦労や修行をしておかないと、自分の価値観で何かを選べることのありがたさ、素晴らしさが骨身に染みません。アイン・ランドは祖国を捨てて、契約社会の市民政府のアメリカを選んでアメリカ人になった人ですから、「自分が選択できること」の幸福を祝福し続けました。「宿命」を蹴飛ばして、自分が選んだのだから、自分が選んだものは素晴らしいに決まっているので、アメリカの原理を礼賛し続けました。

★ここだけの話、私は、子どもの頃、原爆が落ちて、親族みんな死んで、自分だけ生き残ればいいなあ〜〜と、ぼんやりと願ったことがあります。とんでもないガキですね。子どもって、とんでもないこと考えるものなのですよ・・・子どもは、親の作った環境の中で生きなければなりませんから、たまたま親と価値観とか美意識が違うと、子ども時代が不快になります。箪笥の置き場所、カーテンの柄ひとつ私は気に入りませんでした。しかし、私がカネを出すわけではないのだから、我慢するしかないのでした。このことと、肉親に対する情とは、あくまでも別問題です。

★ですから、私は成人してからは、とても幸福です!つまり、自分で人間関係を選び、自分の価値観で生きることが(少なくとも個人の生活範囲においては)できるようになってから、とても幸福です!「自分のカネで何とかできるオトナになる」って最高です!

★親離れしない子どもとか、子離れしない親とか、パラサイト・シングルとか問題にされ続けています。親と価値観が同じだから、いつまでも愛し合うことができるというのならば、それはそれで問題ないです。しかし、同居家族間の暴力沙汰とか殺人事件とか後を絶たないということは、愛情関係というものに対する深い勘違いがあるからでしょう。

★「我慢して、そばにいる」のは「愛」ではないです。「強制されたボランティア」です。概念上、矛盾しています。でも、日本人は、こういう「強制ボランティア残酷物語」を「愛」と呼ぶのですねえ・・・ならば、引用文に掲げたアイン・ランドの言葉なんか、まったく理解されないだろうなあ・・・まあ、「我慢して苦しむことこそ人生だ」と思う人は、そのとおりの人生を送るのでしょう。思えば叶うってね!ははは・・・しょうもないこと思うと、そうなっちゃうよ〜〜♪