Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第16回 人間が関与するものはみな仮想現実のゲーム  [10/05/2008]


Oh yes, Comrade, chess is an escape---an escape from reality. It is an “out,” a kind of “make-work” for a man of higher than average intelligence who was afraid to live, but could not leave his mind unemployed and devoted it to a placebo---thus surrendering to others the living world he had rejected as too hard to understand.

Please do not take this to mean that I object to games as such: games are an important part of man’s life, they provide a necessary rest, and chess may do so for men who live under the constant pressure of purposeful work. Besides, some games--- such as sports contests, for instance---offer us an opportunity to see certain human skills developed to a level of perfection. But what would you think of a world champion runner who, in real life, moved about in a wheelchair? Or of a champion high jumper who crawled about on all fours? You, the chess professionals, are taken as exponents of the most precious of human skills: intellectual power---yet that power deserts you beyond the confines of the sixty-four squares of a chessboard, leaving you confused, anxious, and helplessly unfocused. Because, you see, the chessboard is not a training ground, but a substitute for reality. (“An Open Letter to Boris Spassky” in Philosophy : Who Needs It)


(同志よ、そうなのです、チェスは逃避です。現実からの逃避です。それは、「逃げ道」です。「する必要はないけど、時間つぶしでやっておく、あつらえ仕事」の類です。平均以上に知性のある人間にとっての気休めなのです。彼らは生きることが恐いのだけれども、自分の頭脳を使用しないですましておくことはできないので、思考を気休めに専念させるのです。そうやって、あまりに過酷なので理解できないものとして自らが拒絶してしまった生(なま)の生き生きとした世界を、彼らは他人に委ねてしまうわけです。

だからといって、私がゲームに反対しているとお考えにならないでください。ゲームは人間生活の重要な要素です。ゲームというものは必要な休息を与えてくれるものです。目的ある仕事という絶え間のない圧迫のもとに生きている人々にとっては、チェスは安らぎです。そのうえ、ゲームの中には、スポーツの競技のように、完璧の域に達するまでに発達した人間の技能を見る機会を私たちに与えてくれるものもあります。しかし、世界チャンピオンになれるくらいに早く走ることができるのに、実人生においては、車椅子で動き回る人間について、あなたはどうお思いになりますか?もしくは、棒高跳びのチャンピオンになれる人間が四肢で這いずり回っているとしたら、どうお思いになりますか?あなたのような、プロのチェス選手の方々は、人間の能力の中でも最も貴重な能力を代表しておられます。つまり、知力ですね。にも関わらず、その貴重な能力を、あなた方が真の意味で駆使することはなく、64のマスの目で成るチェス盤という狭い世界の向こうに、能力の方があなた方を捨てているのです。あなた方は混乱状態の不安なままに、救いようがないほど思考の焦点が定まらないまま放置されているのです。なぜならば、チェス盤は訓練場ではなく、現実の代用でしかないからです。あなたは、すでによくおわかりになっていらっしゃると思いますが。)


★ソ連のチェスの名手であり、1969年から72年までの世界チェス・チャンピオンであったボリス・スパスキー(Boris Spassky:1937-)とアメリカのチェスの名手ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer:1943-2008)の対戦が1974年に行われました。この対戦は、直接に戦うことがなかった冷戦期のアメリカとソ連の「実戦」として評判を呼びました。勝ったのは、アメリカのフィッシャーでした。

★アイン・ランドは、チェスが好きなわけではなかったのですが、二人の対戦をテレビ放送で見ました。その後に、ランドは「公開書簡」をボリス・スパスキーに書きました。スパスキーの故郷は、ランドと同じサンクト・ペテルブルク(ソ連時代はレニングラード)でしたから、ランドは彼に親しみを感じたのかもしれません。上記の引用文は、その一部です。

★(将棋でもそうですが)対戦相手の手にしろ、自分の手にしろ、何手何手も先を読みながら、予測を裏切って繰り出してくる対戦相手の手に応じて臨機応変に作戦を修正していくのですから、頭がほんとに良くないとチェスはできないな〜〜とアイン・ランドは感心しました。

★同時に、ランドは、チェスの名手の頭の良さというものは、「彼らが扱っている(ゲーム内の)現実の形而上的絶対性」(the metaphysical absolutism of the reality with which they deal )によって可能にされると気がきました。チェスがソ連で特に人気のあるゲームであるのは、それが、規則が恣意的に変わるのが日常であるデタラメ不合理不公平なソ連の現実からの逃避=「規則が機能している仮想現実」であるからだと推測しました。

★ゲームはゲームですから、その規則が定める範囲を逸脱しません。反則には必ずペナルティが課せられます。チェスならば、白が先手、黒が後手です。プレイヤーは、交互に盤上にある自分の駒を1回ずつ動かします。パスをすることはできません。 自分の駒の動ける範囲に相手の駒があれば、それを取ることができます。相手の駒を取った自分の駒は、取られた駒のあったマスへ移動します。取られた駒は盤上から取りのぞきます。

★チェスの駒は、ルーク(戦車)とビショップ(僧侶)とクィーン(女王)とナイト(騎士)とポーン(歩兵)とキング(王)の6種類だけです。ルークは縦横いくらでも進めます。ビショップは斜め方向にいくらでも進めます。クィーンはルークとビショップを合わせた動きで、縦横斜めにいくらでも進めます。ナイトは進行方向が八方向です。しかも、6種類の駒のうち唯一、他の駒を飛び越して移動することができます。戦士だから大いに戦う。ポーンの動きは歩兵だから縛りが大きいけれども、臨機応変さが要求されます。ポーンは前方向へ1マスだけ進めます。こつこつと前進あるのみです。最初の位置からの移動のみ、2マス進むこともできます。斜め直前に相手の駒があれば、その駒をとりながらその駒があった位置に進めます。キングは、縦横斜めに1個だけ進めます。王様は、軽々しく動かない。

★相手のキングに、自分の駒を効かせて取ろうとする手を「チェック」と呼びます。 キングが絶対に逃げられないように追い詰めたチェックが「チェックメイト」です。カッコいいですね。相手のキングをチェックメイトすることが、このゲームの目標です。

★チェスというゲームは、卓越した知力が駆使されなければ終わらないような複雑な戦いであっても、あくまでも上記の規則の枠内だけでなされます。チェスのようなゲームは、「こういうことは絶対にしない」という共通認識が徹底している人間どうしの戦いに似ています。「仁義ある戦い」です。「フェア・プレイ」です。しかし、現実の人間社会は「ルール無視の戦い&仁義なき戦い」です。

★ソ連をゲームにたとえれば、ころころ規則が変わり、かつブルジョア向け規則とプロレタリアート向け規則と共産党員向け規則と共産党幹部向け規則と独裁者向け規則があるという5重基準です。反則やり放題でも、ペナルティは共産党員と幹部と独裁者には課せられません。複数の頭で打つ手を考える集団主義のチームワークが称揚されるので、混乱が生じ易く、意思の疎通が不徹底で、責任主体が明確でなく、ついには誰も考えなくなり、ゲームの目標が忘れられます。せっかく、みんな仲よく清く貧しく正しく美しくなるゲームを始めたつもりが、ゲーム開始前よりひどい状態になりました。

★2008年10月初旬恐慌前夜の資本主義国家に例えれば、ある証券会社や銀行は破産にまかせるが、別の証券会社や銀行には公的資金(税金)を投入して倒産させないようにして急に社会主義国家になるということであります。個人の負債は、あくまでも個人が支出を制して返済するか破産宣言するしかないですが、国の借金は国債を外国(属国)に買わせて償還しないとか、預金封鎖してそのすきに通貨切り下げて国民の資産を収奪して借金減額をもくろむが、省庁官庁の整理統合や既得権益撲滅や議員数削減によって歳出を制することは金輪際しないということです。早いとこ自己破産宣言したほうがいいんじゃないの〜〜

★確かに、アイン・ランドが指摘するように、知性が高ければ高い人々ほど、まっとうな感性がある人々ほど、現実にはびこるルール不在やルール破りに疲弊して、現実の改善に絶望的となり、ゲームという「規則ある仁義ある仮想現実」の中に閉じこもる傾向があるのかもしれません。しかし、だから何?しょせんは、仮想現実ではありませんか。そんなお遊びに夢中になっていられるのは、やっぱり頭の使い方を間違えています。その類のことにしか使えない程度の頭の良さというのは、脂肪にしかならない栄養素みたいなものです。

★「こういう頭の良さって無意味だな。オトナの頭の良さではないな。いつまでも遊んでいるガキの頭の良さだな。高等暇つぶしだな。自分が高等暇つぶしをしているという自覚もないし、そういう自分に恥ずかしさを感じないという点が、ガキなんだよな」と思わせる頭の良さって、確かにあります。

★まあ、「(人文系)学問」とか「趣味」とか「芸術」とか、総じて「文化」と呼ばれるものは、気休め、暇つぶし、不急不要のあつらえ仕事、現実逃避ではあります。それほどに、生身の現実に直面することには脳も胆力も体力も必要なのかもしれません。

★いわゆる「世慣れた人々」「世渡りがうまい人々」「世知に長けている人々」は、脳や胆力や体力に秀でているわけではありません。マトリックスに適応しているだけです。マトリックスは、彼らや彼女たちに自然化内面化されている前提、環境ですから、マトリックスそのものを意識してマトリックスの外部を想像してみることなどありません。そういう生のありようを「世界内存在」と言います。階級問わず、老若男女問わず、人種国籍問わず、「世界内存在」は圧倒的な多数派をしめるでしょう。

★マトリックスだとわかってはいるが、そのマトリックスをどうにもできないと思う人々は、「ゲーム」に逃避するのでしょう。「文化」というオママゴトに閉じこもるのでしょう。マトリックスの中にマトリックスを作って、ついには、文字通りの「母胎」matrixに閉じこもるまで引きこもるのでしょうか。生まれてこないほうが良かったと思いながら。

★実は、マトリックスであるからこそ救いがあるのですが。マトリックスならば、どこかが破れています。縫い口があります。そこから綻びます。突破口があります。暗い産道の向こうに出口があります。人間社会というのは、すべてが人為的に人工的に構築されたマトリックスだからこそ、変化もするのです。

★規則という概念は、規則のない世界を前提としているからこそ、生まれました。前提として、ありのままの世界はグチャグチャでドロドロです。掟とかルールとか法とか立ち上げて、グチャグチャでドロドロな世界と並行する仮想現実を立ち上げて組織化して固めてきたのは、人間です。現実から私たちは疎外されています。現実は、私たちのことなど知りません。グチャグチャでドロドロなんだから。

★離人症という病気があります。その軽い症状は、あるとき突然に、現実が溶けてグニャグニャしたものに感じられて、その状態が数秒から数分続くというものです。自分というものが存在することはかすかに意識できますが、自分の肉体の周りのすべてが、グチャグチャでドロドロでグニャグニャに溶けて、別次元に紛れ込んだような感じになります。周りの事物のすべてが形態も色も音も匂いも失いますが、自分を取り囲んでいる何か得体の知れないものがあるということだけがわかります。その症状のさなかにいる人間は、はたからすれば、ただただ静止してボンヤリとしているだけに見えますが、そのとき彼や彼女は「仮想現実が構築される前の、いっさいが概念化されていない生の現実」に触れているのです。私は、18歳くらいまで、この症状に時々襲われました。ジャック・ラカンの精神分析用語で言えば、「象徴界」から「現実界」に、うっかり遡及してしまったということでしょうか。

★それはさておき、アイン・ランドのチェス論にかこつけて、何を私が言いたいかといえば、現実から逃避するといっても、その現実だって、ゲームと同じ仮想現実だということです。規則整備途上、もしくは規則遵守不徹底な大ゲームだということです。

★「どうなるんですかね〜〜この国は」なんて言いながら、私たちは書いたメイルが送信先に届くのを疑わないし、宅急便が届くのを疑わないし、購入したサイズ23と刻印された靴のサイズは23だと疑いません。無意識のうちに、ちゃんとゲームの規則が守られて実行されていることを信じています。なぜ、信じているのでしょうか?まあ、ゲームの規則が、「だいたいおおむねそこそこ」機能しているからです。(仮想)現実という大ゲームが、「だいたいおおむねそこそこ」成立しているからです。長い歴史を通じて、そういう(仮想)現実を「だいたいおおむねそこそこ」形成し維持してきた人間の力を、ちゃんと認めましょう。

★どうせ、同じゲームならば、64のマス目の中で駒を動かすのではなく、もっともっと巨大なゲームに、私は参入したいです。観戦するだけにすませざるをえないとしても、チェスの試合観戦よりは、こっちの方がはるかに面白そうです。規則整備の途上にあるからこそ、もしくは規則遵守不徹底であるからこそ、この巨大なゲームは、どんな展開をするかわからないので退屈しません。私は、このゲームの中で1マスしか前進できないポーン(歩兵)でしかありませんが、ゲーム全体を、ちゃんと見つめているポーンでいたい。たとえポーンであっても、ポーンがポーンの役割を果たさないとゲームは成立しません。同志よ、そうでしょう?