『越境するジェンダー研究』〔2010年6月〕
355×500
『越境するジェンダー研究』 (財)東海ジェンダー研究所記念論集編集委員会編 明石書店 2010年6月15日刊  5000円&税
★本書は、名古屋にあります財団法人「東海ジェンダー研究所」が、設立満10年を記念して、2007年に、「ジェンダー平等の今---21世紀の課題」というテーマから、募集した論文を集めたものです。23論文が収録されています。

★ガチガチのアカデミックなフェミニズム系論文集です。読めば必ず勉強になる力作ぞろいの論文ばかりです。

★だいたい、フィクション(小説)なんかいくら読んでも、読書のうちには入りません。ノン・フィクションは読書のうちに入りますが、ジャーナリスティックなものは、資料や調査の裏付けが弱くて、放言に近かったりします。いい加減なものばかり読んでいると、脳が緩みます。たまには、こんなのも読んでみましょう〜〜♪

★私の故郷である名古屋は、意外にも、女性研究者のフェミニズム運動が根強く生き残っている街です。東京や関西ほどに、男性研究者の層が厚くありません。大学のポストをはるかに超える研究者の供給があるわけでもありません。ですから、女性研究者が、その間隙を縫って大学などで職を得て、生き残ることが可能な街です。少なくとも、かつてはそうでした。三番手の土地には、それなりのadvantageというものもあるのですよ。名古屋は、家父長制がぬるい!

★早々と名古屋では、1975年には女性研究者のフェミニスト団体(旧「愛知婦人研究者の会」→現「愛知女性研究者の会」)が結成されました。今でもこの会は健在です。関西や東京の同種類の団体は消えてしまいましたが。

★私は、その会に1985年から2000年まで所属していました。そこで、優れた女性研究者の方々にお会いできたのは幸福なことでした。その方々は、女性研究者として生きようとしていた若かりし頃の私の良きモデルとなってくださいました。

★フェミニズムという思想に出会ったことにより、多くのフェミニストの方々と出会ったことにより、自分が生きたいように生きてOKだ!という知的確信を得ることができました。私がフェミニストになった1970年代は、まだまだ伝統的女性の生き方が推奨された野蛮で無知で偏狭な前近代性が残っていたのですが。そんなもん、今や、消えちまった!!今や、21世紀だ〜〜〜!!!

<目次と論文執筆者名>

女性たちの今---エステル・フリードマン、スサンヌ・ガイユ

家族と労働と福祉と---新井美佐子、中田照子、別所良美、金一虹

人権(平等法)の現在---岩本美砂子、杉本貴代栄、建石真公子、来田京子、 キャロル・コーター

歴史の中のジェンダー---河村貞枝、ヴェラ・マッキー、早川紀代

教育とジェンダー---木本喜美子、武田万里子、藤原直子、増井孝子、川島慶子

フェミニズムの諸相---大越愛子、川橋範子、藤森かよこ、安川悦子
(個別の収録論文題目は省略)

<藤森の論文紹介>

リバータリアン・フェミニストのすすめ

ジェンダー理論の核心を生きるとは、普遍に自己を還元しないこと

藤森かよこ

はじめに

本論の目的は、フェミニズムという思想の正当性の学問的根拠の大きなひとつであるジェンダー理論の再考を通して、フェミニズムの実践をもっとも支持する政治思想であると筆者が考えるリバータリアニズムについて述べることにある。まず、ジェンダー理論の再確認をする。次に、いまだに十分に認識されているとは考えられない、ジェンダー理論のもっとも革命的な知見を指摘する。次に、その知見を生かすことができる体制の政治哲学的土台であるリバータリアニズムについて述べる。最後に、リバータリアン・フェミニストであることを本論が推奨する根拠を述べる。

ジェンダーを再確認する

ジョーン・W・スコット(John Wallach Scott)が名著『性の歴史学』において、「文法においてはジェンダーとは、固有の性質を客観的に述べたものというよりは、諸現象を分類する一つの方法、社会的に合意された識別のシステムというふうに理解されている」(Scott, 1988:2)と述べているように、もともと、ジェンダーとは種類(kind)の意味であった。種類とは何か?世界に存在するおびただしい事物を観察し、事物と事物の間にある何らかの共通点を探し出し、その共通点ごとに分けて、まとめ、それらに名辞を与えることが、種類に分ける、分類するということである。分類の基準はいろいろだが、分類することによって階層や序列をつける。そうすると、おびただしい事物を把握したような気分になり安心できる。分類したからといって、実は何もわからないのかもしれない。しかし、事物の多様で多層なありようを、そのまま、ありのままに受け止めるだけでは、人間は途方にくれる。分類すれば、理解できたような気になれる。混沌に対処したような気になれる。錯覚ではあるのだが、この錯覚が認識というものだ。

その後は、ジェンダーは言語の男性形(masculine)、女性形(feminine)、中世形(neuter)、両性共通形(common)などの文法的性を示す用語になった。世界には数多くの言語があるが、ラテン語(と、ここから派生した言語)やドイツ語やロシア語は、もともと性別などない事物に性別をつけている。海という自然物に性はないが、フランス語では海(mer)は女性名詞で、女性名詞につく女性単数冠詞(la)がつく。万物を、いちいち女か男か中性か両性具有かに分けることは、実に奇妙なことに思える。性別化(sexualize)という生物にしか適用できないはずの分類法を無機物の分類にさえ適用するのは、性別というものが、人間の事物の錦手段として基本的なものであることを示している。それほどに、人間は性別にこだわる。自己認識においても、他者把握においても、性別に依存する傾向が大きい。

だからこそ、一九八〇年代以降は、ジェンダーとは,性器などの肉体的特徴や生殖機能や、X染色体やY染色体によって区別する生物学的性のありようを意味するセックス()に対して、政治的社会的文化的歴史的に生成される性のありようを意味することになった。前述のスコットは、「ジェンダーとは、性差の社会的組織化というこになる。だが、このことは、ジェンダーが女と男の間にある固定的で自然な肉体的差異を反映しているとか、それを実行しているといった意味ではない。そうではなくてジェンダーとは、肉体的差異に意味を付与する知なのである」(Scott.1988:2)と、的確な表現をしている。要するに、ジェンダーとは、事物を分類して、分けられた事物の集団に、恣意的な名前を与えることによって、ある特定の概念を存在せしめて、それを普遍的真理と定め、その行為の起源(もしくは根拠のなさ)については忘れることである。

(pp.434-56に収録された論文の冒頭部分より抜粋)