アイン・ランド年表
1905 2月2日ロシアのサンクト・ペテルスブルグ(ソ連時代のレニングラード)で生まれる。(私の母方の祖母と同年同月生まれだ。性格似てる.....)本名Alissa Zinovievna Rosenbaum/三人姉妹の長女ユダヤ系中産階級の家庭。幼少の頃より聡明で質問好き。学校時代は少女たちとうまく付き合えず孤独だが、宿題などで学友を助ける。女の子らしい遊びはしなかったので母親は心配する。父親を尊敬し、知性を尊敬した(彼女は、後年もキャリア志向で決して伝統的女性の生き方はしなかったフェミニストのはしりみたいな人なのに、英雄崇拝で男の強さや力、知性を尊敬する。幻想力が強い人だね)。数学が得意。抽象と精神を連結させることに興味を持つ。
1917 百万人のロシア兵が第一次大戦の前線から敗退し、ロシアの街に満ちて、君主制打倒の声をあげる。彼女は実家のアパートのバルコニーからロシア革命の最初の銃撃を目撃する。革命後、父の経営する薬局国営化となる。ボルシェビキより搾取される。家族の暮らしは困窮。クリミアに転居。
1921 内乱終る。ボルシェビキの統制下にはいる。元ブルジョワ家族として共産化したペトログラードに帰るが、半飢餓と恐怖を味わう。ペテログラード大学に歴史専攻で入学。哲学も学ぶ。共産国だから授業料無料で入学できた。はじめての恋人は彼女の情熱が重くてひいてしまう(恋愛においては、このパターンが生涯反復される)。
1924 大学卒業。ハリウッド映画が好きでアメリカに憧れながら、シナリオ学校に入る。
1925 シカゴに移民した親戚との接触で、合衆国行のパスポートを得る。ランドの母親はソ連に見切りをつけて長女を亡命させようとしていた。
1926 2月半ば合衆国NYに入る。ラティヴァ、ベルリン、パリ経由の船。その後帰国せず。両親は第二次世界中のドイツ軍によるレニングラード包囲戦の際に死亡。英語話せず。$50とタイプライターが所持品。名前をAyn Rand(この名はドイツ語ではein Randとなり、「ひと隅」「この世の一角」という意味がある。この名はドイツ人にとっては、極めてユダヤ的な響きを持つそうだ。『文学部をめぐる病』の著者である同僚の高田里惠子氏が教えてくれた。つまり、ランドはアングロサクソン風に改名しながらも、ユダヤ系の出自を主張した名前を考えたらしい!) とする。新聞売り、ウエイトレス、店員などで働く。映画が好きで映画館に通う。英語の勉強もかねる。真夏にハリウッドに向かう。Cecil B. DeMilleにコネをつけてエキストラやスタジオの衣装係から始める。
1929 4月15日俳優のFrank O'Connorと結婚。この人美男だけど大根役者(えてして、こういう寡黙な美男は幻想力(思い込み)の強い女にぴったしではある)。
1931 アメリカ市民国籍取る。1930年代の「赤い十年」時代の始まりに幻滅。
1932 "Red Pawn" 映画のシナリオや We the Living(original title:Air Tight:A Novel of Red Russia)シナリオ書くが時代風潮にあわず認められない。
1934 劇作品Woman on Trialがハリウッドの劇場で上演される。しかし、自分が書いたものがズタズタに変更されているので、ランドは幻滅する。生活費のためには、その屈辱にも耐えなければならない。上演は評判は悪くなかったが、短期間で終る。ニューヨークのブロ−ドウエイから上演の申し出を受ける。題名はPenthouse Legendとされる。ランド夫妻はニュ−ヨ−クに居を移す。映画会社と契約して本を読んで要約してシナリオのネタを提供する仕事で生活費を得る。
1935 またも題名が変更されて、Night of January 16thとしてブロ−ドウエイで上演される。収入を得て、パーク街(NYでは、三番手ぐらいの高級住宅地)のアパートに移る。
1936 283回上演された後にNight of January 16thが閉演される。We the Living出版される。マクミランから。
1937 Anthem出版される。
1942 We the Living映画化される。ただしイタリアで。
1943 12社から断られたのちBobbs-Merrill社よりThe Fountainhead出版される。宣伝もされなかったし、戦時中の物資不足のため絶版もされたが、口コミで売れ続けるので再版される。ワーナーブラザーズから映画化の申し出。そのシナリオ書くために、ニューヨークからハリウッドにもどる。$50000で映画化権売る。ランドと夫は家と牧場をSan Fernando Valley に購入。ここでの生活においては夫のフランクは園芸や養鶏などを楽しみ結婚後初めて生活も安定したのだが、ランドは豪邸とはいえ田舎暮しにだんだん飽き足りなくなってくる。夫婦がどちらも運転が苦手で(ランドは機械類はさっぱりだめだった。数学は好きなのに.....)暮らしが「陸の孤島」的になったのも悪影響だった。
1945 ランドは精力的に他の映画シナリオも書く。彼女のシナリオによるLove Letters やYou Came Alongが上映される。
1947 ランドは40年代後期から50年代を圧巻した「赤狩り」の急先鋒である非米活動調査委員会(HUAC)で、ハリウッド映画界における共産党の浸透について証言する。ソ連の現状とは全く違う美化したソ連を描いた映画を告発する(ここあたりではっきり右翼と認定されるはめとなる)。
1949 The Fountainhead映画化される。ゲイリー・クーパー主演。映画化は成功しなかったが、一応スター映画だったので原作はもっと知られ売れる。しかし、この映画化はひどい。あまりにもひどい。観る価値なし。だいたい、大根のクーパーが、ロークなんてやるな!今、映画化するなら、『パール・ハーバー』のベン・アフレックが私はいいと思います・・・。日本で映画化するならば、山崎まさよし・・・。
1950 愛読者のNathaniel Brandenと(のちに彼の妻となる)Barbaraと交流が始まる。彼らはユダヤ系カナダ人でUCLAの学生だった。夜を徹して語り合うような若い信奉者たちに囲まれる生活が、このあたりから始まって行く(カルトの始まり?)。
1951 夏の始めにナサニエルとバーバラがNYUの大学院進学のためにNYへ居を移す。秋には、ランド夫妻がNYに引っ越ししてくる。夫の内心の不満と反対を無視してランドは田舎の豪邸生活を捨てて、36 East,36th Streetのアパート(2001年現在でもこのアパートはある)。ランドはメガロポリスの生活を愛したのだ。収入のない夫は妻に従わざるをえなかった。
1953 ナサニエルとバーバラ結婚。仲人役をランド夫妻が勤める。新婚夫婦は、35丁目のアパートで暮らすが、ランドの住居のすぐ近く。後年、ランドとランドの弟子たちは、同じアパートのビルに住むのだが、その前兆。
1954 このあたりから、25歳年下のナサニエルと恋愛関係になる(どこか夫のフランクの若い頃に容姿が似ていて、夫よりは知的で哲学等の議論ができる相手。一目惚れだったそうである)。ランドはバーバラと夫を説き伏せて、ナサニエルとの性交渉を含めた関係を承認させる。
1957 Atlas Shrugged出版。ナサニエルとの関係による夫やバーバラとの緊張や衝突というストレスの中でこの小説は執筆された。この小説は、数章書かれるごとに、弟子たち10数人の前でランドによって読み上げられた。ランド夫妻の狭いアパートに集まりながらも、弟子たちは、それを楽しみにしていた。弟子の意見や感想を参考にしながら小説は、書き進められていった。作家と読者の原初的関係の至福も、この小説製作の背後にはあったのだ。
1958 恋人ナサニエルがランドの哲学研究所Nathaniel Branden Institute(NBI)設立。ここを拠点にランドと弟子たちは、講演活動、教育、啓蒙活動をする。14年の年月をかけた小説完成後の疲労と、批評界からの罵倒と無視のために意気消沈していたランドは、この機関のために活性化する。Objectivism運動は全米に広まり、ランド信奉者を急速に増やして行く。
1961 For the New Intellectual:The Philosophy of Ayn Rand.出版される。
1963 Nathaniel Branden Instituteは、米国とカナダの54都市でランド哲学講習のコースを開催する。
1964 ナサニエルがNathaniel Branden Instituteの学生と不倫関係になる。バーバラは知って、ランドとの関係を案じるが、ナサニエルにとってはランドやNBIはすでに生活資源なので、現状維持を図る。The Virtue of Selfishness:A New Concept of Egoismを出版する。
1965 80都市でコースは開催される。グリーンランドやパキスタンでも講習の企画が考えられる。
1967 Capitalism:The Unknown Ideal出版。ランド夫妻や弟子たちが住んでいた120 East 34th St.のビル(このビルは今でもある。入ろうとしたがドアマンに止められた。くそ)にあったNBIは、近くのエンパイア・ステート・ビル内に事務所を移す。NBIの絶頂期。
1968 The New Left:The Ant-Industrial RevolutionとNight of January 16th(劇)出版される。この秋、とうとうナサニエルの情事がランドに露見して、ナサニエルは破門される。NBIは解体していく。Objectivism運動は中心点を喪失。一枚岩であったカルトの崩壊。バーバラもランドのもとを去る。
1972 ソ連から末の妹ノラ夫妻をランドはアメリカに呼ぶが、妹夫妻はアメリカの生活に馴染めず帰国してしまう。ノラは、若いころは女優志願の奔放な女性だった。しかし、45年後には、「アメリカは歯磨き粉でさえ種類がありすぎて、選ぶのが大変だ」とドラッグストアで怒ったり、ちょっとした話でも秘密警察が聞いているのではないかと怯え警戒するような、偏狭で萎縮した人間になっていた。ソ連は、そういう国だったのだ・・・
1975 The Romantic Manifesto出版される。
1979 最愛の夫フランク死亡。晩年のフランクは画家となりランドの本の表紙になる絵を描いたりして、持ち前の芸術センスを活かした。最晩年の痴ほう状態はランドを悩ましたが、この夫は天性の品位の持ち主で、職業的には成功しなかったが、終生ランドの裏方に徹してランドを支えた。
1981 ランドは肺ガンを宣告される。手術は成功し退院するがその後体力、気力ともに回復せず。
1982 2月心臓と肺の不全で入院/3月6日の朝死亡。マンハッタンから急行電車で北上して40分のValhallaにあるKensico Cemetery(夫の隣)に埋葬される。版権や遺稿管理権は、最後までランドのそばについていた弟子のLeonard Peikoffに譲渡され、現在に至る。Philosophy:Who Needs It出版される。
1986 バーバラは、The Passion of Ayn Randを出版。初の本格的赤裸々なランドの評伝(この年表も彼女の評伝を基に作成された)。この伝記はロングセラーとなる。
1989 The Voice of Reason:Essays in Objectivist Thought出版される。
1991 The Ayn Rand Column出版される。新聞のコラムの集大成。自殺(?)直後のマリリン・モンロー擁護論もある。当時のインテリでモンロー支持した女なんて、それだけですごい。大したもんだ。
1995 The Letters of Ayn Rand出版される。
1996 ランドの生涯を描いたA Sense of Lifeがアカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートされる。
1999 The Ayn Rand Reader出版される。ソ連時代に書いたアメリカ映画論であるRussian Writings on Hollywoodが出版される。
2000 The Passion of Ayn Randがテレビ映画化される。ランド再評価の波。
2001 藤森かよこによって、日本アメリカ文学会に日本で初めて文学者ランドが紹介される。藤森は日本アイン・ランド研究会設立(まだ会員ひとり)。秋に桃山学院大学藤森ゼミ2001年卒業生、かつう氏の助力により、「藤森かよこの日本アイン・ランド研究会」のHP立ち上げられる。
2001/9/11 ランドが愛したNYCの高層建築群の代表World Trade Centerテロで崩壊。