論文
ディズニー・アニメーションとフェミニズムの受容/専有
―『ムーラン』における女戦士の表象をめぐって―

3 『ムーラン』におけるフェミニズムの専有

「専有」(appropriation)とは,「正当な権利も許可もなく私用に供すること,盗用すること」と,辞書には記されている。『ムーラン』のヒロインの英雄ぶりは,フェミニズムの成果に見えて,フェミニズムの盗用であり,歪曲でさえあり,フェミニズムの目標から逸脱した反フェミニズムでさえあるということを,ここで述べたい。

斉藤環は,『ムーラン』の製作には,日本の宮崎駿製作の1996年の『もののけ姫』の影響があったのではないかと,准測している((c)136)。『ライオン・キング』が手塚治虫の『ジャングル大帝レオ』の盗作であると虫プロから提訴されたことがあったが,そういう影響関係は十分にありえる。なぜならば,いくら1980年代末期以降のディズニー・アニメのヒロインがフェミニズム風味が加味された造型をされているとはいえ,『ムーラン』のヒロインは,唐突に過激に女性版英雄主義を前面に出している。前作の1995年『ポカホンタス』と1998年『ムーラン』の間にある差は,「自らの意志を持って行動する女性」から「救国の美少女戦士」までの跳躍なのである。この間に,山の樹々を切り倒して鉄製作の燃料とするタタラ衆や,タタラ衆の権益をかすめ取りたい領主から,森と森の生き物を守るために戦う野生の少女サン=「もののけ姫」を置く妥当性は,かなり説得力がある。

クラリッサ・ピンコラ・エステス(Clarissa Pinkola Estes)やリチャード・J・レイン(Richard J. Lane)などの研究が示すように,もちろん,西洋にも女神信仰から派生する女戦士の伝説はある。弓を使用するのに不便だからという理由で片方の乳房を切り取ったとされるアマゾネスを始めとして,アーサー王伝説と絡ませて,キリスト教以前のケルトの女神信仰や母系制を守る女たちを描いたマリオン・ジマー・ブラッドレイ(Marion Zimmer Bradley)のThe Mist of Avalonシリーズのようなベスト・セラーさえ生まれてきた。こうした点も,ムーランというヒロインが,単純に『もののけ姫』に刺激されて造型されたのではないかと,推測される理由なのである。なぜならば,西洋の女戦士は,家父長制維持のために戦う「父の娘」では決してなかったから。『ムーラン』の女戦士の造型が,西洋の女戦士の伝統の現代における復活や継承を意図したエキゾチズムを加味したフェミニズム表象のリサイクルとは,全く考えられないのである。

『ムーラン』における「戦う少女」の表象の内実を,もう少し考察してみよう。前章で,ムーランというヒロインがフェミニズムを達成しているとは言えないこと,およびその理由は女戦士の機能が家父長制への貢献であるということが言及された。家父長制組織が弱体化してその機能が果たせないということは,そのシステムに従属し支配されることで保護もされる立場の人間(女と子ども)への責任と義務を果たせないということである。その責めと補償は,当然その家父長制組織の担い手であり利益享受者である男が負うべきものであるが,『ムーラン』の場合,その補償を女であり子どもであるヒロインが果たすのである。自ら負う義務も無ければ,それを達成することで(支配側からの是認という褒美以外の)利益を享受するわけでもない責任を果たすということは,搾取されるということと同義である。つまり,『ムーラン』とは,自らの力を搾取され,それを望み,それに達成感を感じるように自己犠牲を内面化して,すさまじい戦場の暴力に身をさらされることを選んだヒロインを讃えるアニメなのだ。「弱い疲れたお父さん」を家庭レヴェルでも軍隊レヴェルでも国家レヴェルにおいても助け守り,その成果と名誉は,その「駄目なお父さん」に奉じる娘のアニメなのだ。つまり,男のすべきことを,そんな義務もないのに,男の換わりにやり遂げて,なおかつ女として遇されることに甘んじる女を讃えるアニメなのだ。したがって,このアニメは,親フェミニズムに見えて男性中心主義であるどころか,実際のところは,あからさまに伝統的性差別ではない疑似フェミニズム様相を呈していることによって,より一層危険なのである。

いわば,ムーランは,指導的フェミニズム批評家イレーヌ・ショーウオールター(Elaine Showalter)のことばを借りれば,ディズニー・アニメ版「ミランダ」であろう。ミランダとは,言うまでもなくシェークスピアの『あらし』(Tempest)の聡明なヒロインだが,彼女は従来の女性作家や女性詩人にとって,女性の限界や束縛から自由な女の典型として考えられてきた。しかし,ミランダは母を知らず,もっぱら父のプロスペローから高度な学問的訓練を受けて,通常の女性の生き方について何も知らないので,父の生き方,男性の価値観を内面化している。このような「父の娘」で,父の期待に沿うべく努力,研鑚することによって,男性社会に認められる業績を残す女性は,一般に「名誉男性」と呼ばれる。この「名誉男性」は,男性社会のルールに通じ,またそれらを支持しているので,男性社会を脅かすことがなく,男性社会から「準会員」として承認される。ショーウオールターは,こうした「ミランダ女性」のフェミニズム的問題を『姉妹の選択』(Sister's Choice)において指摘した(29)。確かに,こうした少数の「名誉男性」の存在は,必ずしも女性全体の解放にはつながらないし,社会のフェミニズム度を高めるわけではなく,かえって女性差別を固定しやすい。なぜならば,こうした女性を「名誉会員」とか「特例」として承認することは,男性社会にとって,女性差別をしていないことの証明となりうるから。男性社会にとっては,女に対する広範囲な公正さを実施するより,少数の女を特別扱いする方がはるかに容易であるし,分断して支配するという支配の原則にもかなっているから。「こうすれば差別なんかしないから,くやしかったら,こうすればいい」と示威しているのである。しかしすべての女が「ムーラン」になれないし,なる必要もない。すべての男が英雄にはなれないし,なる必要もないように。女だけが英雄にならなければ「名誉男性」として承認されないことの,不当さや法外さはすさまじい。

ただし,問題はムーランが英雄的ヒロインだからではない。このアニメの危険性のひとつは,一見,女の可能性や力や勇気を賞賛しているかに見えて,弱った家父長制の強化にさらに過大に法外に女の力を盗用し利用している物語内容の構図にある。こういう英雄的ヒロインが採用され描かれる時代は,女の力を認める時代ではなくて,女の力の搾取が,もっと必要とされる時代なのではないか。「弱って疲れた駄目なお父さん」が,頼りない息子では役に立たないので,娘に媚びをうって娘に助けてもらって身の安全を図ろうとする時代なのではないか。最近のアメリカ映画にも,女性で初めて海軍のエリート特殊部隊Navy Sealsに参入する女性兵士を描いた1997年の『G・I・ジェイン』(G.I.Jane)や,湾岸戦争の戦闘で死んだアメリカ初の女性兵士として叙勲されたが,実は戦場で男の部下に裏切られ見殺しにされた女性将校を描く1996年の『戦火の勇気』(Courage Under Fire)のような,一種のムーラン現象がある。1979年の『エイリアン』(Alien)や1984年の『ターミネーター』(Terminator)を皮切りに,「戦う女」はアメリカ映画に登場し,ついにはリアルな現実の軍隊と戦争を背景に称揚され,ディズニー・アニメにまで登場したのである。女が「銃後の守り」につくことが期待された過去の時代と,並みの男以上に暴力にさらされ戦うことが空想上でさえ期待される時代とでは,結論として女の機能が男性中心体制への奉仕にすぎないのならば,後者の時代のほうが,女にとってより一層悪質であろう。

『ムーラン』の提示するもうひとつの問題は,こうした「戦う女」の表象は,フェミニズム運動の成果に見えて,実はフェミニズムにとっては諸刃の剣であるということである。すなはち,フェミニズムとは何であるかという根源的な問いが暗にここでなされている。このような「スーパーウーマン」「国家の娘」「過労キャリアウーマン」を生産することが,フェミニズムの目標だったのだろうか?女の可能性を広げ解放することは,女としての労働に加えて,並みの男以上の労働と活動を強いられることだったのか?フェミニズムは,男性性の否定的側面である暴力や攻撃性というパワーを女も手にするのが男女平等だと考える思想ではない。

フェミニズムという思想は,水田珠枝の研究が示すように,「各人は外的権威に拘束されることのない自立した存在であり,こうした個人を主体にあたらしい社会は形成されるべきだという槻念」から成る西洋近代の人間解放思想の「人間」に女が含まれていないことへの反省から生まれた((a)18)。したがって,初期のフェミニズムは,近代人として「先に」誕生した男と同じ権利と機会と待遇を要求する点において,「男なみになりたい」思想であった。主体性を持つ個人の充実と自己実現が目的となる点で,一種のエリート主義でもある。現代の大衆通俗文化メディアに登場するフェミニズム表象が,こうした古典的リベラル・フェミニズムに先祖帰りしてしまう傾向は,「男」を基本形にして人物造型を考える伝統的思考習慣の根強さの例証でもある。フェミニズムを実践しているつもりが,単に「女装の男」をしていたという危険は,そのことによって無自覚に男性中心社会の補強をしてしまっているという危険は,フェミニストの言動に常について回る。フェミニズム表象の形成にも,同じ危険はつきものだ。

しかし,伝統的な,かつ現行の性差別社会に全く汚染されていない女性表象を作ることは不可能である。文化や歴史の外部に立つことはできないのだから,完全に脱歴史的な女は表現できない。どんな革新的な女性像でも,ジェンダー拘束の文化の残滓をひきずらざるをえない。ムーランという女戦士の表象に,どんな危険がつきまとっても,少なくとも表層上は女の可能性や女の力の豊かさが全開した形が,ディズニー・アニメという最も保守的な大衆通俗文化メディアに採用されたことの意義は,肯定したい。その意味で,筆者は『ムーラン』は,デイズニー・アニメ史上,最高の傑作だと考えている。