アキラのランド節

最高のホラーは [12/02/2001]


私のゼミは「英語塾」です。高校や予備校みたいに、じっくり英文解釈訓練しています。それぞれの単語の第一強勢の置き場所を確認しながら、発音して読み上げてという原始的なことやっています。普通の日本人が、母国語と格闘するのは、英文和訳のときぐらいしかない。こういう訓練を若いときにしないと、生涯まともな英語の本を読むということができなくなる。偏差値の高い大学あたりにいる学生だと、こういうことは受験勉強あたりで、みっちりやっているのだろうけれども、私の勤務先に来る学生は、ごく普通に高校生活やクラブ活動を楽しみ、もともとが血液中の勤勉濃度が低い。のんびりしている。私自身が、そういう高校生だったので、よくわかるのだ、彼らの感覚は。だけど、文学部に来た以上は、英語くらいは勉強しないと!どうでもいい英米文学系の科目など私に割り当てるな。そりゃ、私の講義は面白いに決まっている。でも、英語塾をしっかりやらせろ、私に。その方が、学生のためになる。というわけで、読むなら「恐いお話」がよいだろうと、読む気になるだろうと、私のゼミのテーマは、「アメリカン・ホラー」なのであります。読み進めやすいのには、ポルノ小説もありましょうが、あそこに出てくる単語は日常使えません。thighとかlabiaなんて単語、どこで使うんだ。

しかし、ああいうホラーというのは、本当のホラーを隠蔽するための似非ホラーですね。通常のホラーに登場する幽霊とか悪霊とか呪いとか、全然恐くないよね。たとえば、不成仏霊というのは、生きているときに中途半端な生き方しかしなかったから、死後もウロウロしているわけですね。徹底的に生きれば、死ぬときに納得するだろう。勝とうが負けようが、納得して死ぬだろう。そういう人間は死んだら、死後の世界があるとしたら、その新しい世界に果敢に進んでいくだろう。ウロウロさ迷いながら、人間に悪戯する霊などがいるとしても、そういう連中はそういう程度のものだから、恐れるようなものではない。幽霊など相手にしているほど暇ではないよ、まともな大人は。そう言えば、ニューヨークの日系の某不動産会社の方は霊能者で、幽霊が見えるとか言っていましたな。アメリカの幽霊は、勝手にそこらにいるだけで人間に関心がないそうですが、日本の幽霊は何やかやと依存心が強くて人間にすがりたがるんだそうです。日本では幽霊まで甘ったれてるぜ。よく守護霊が、亡くなった近親者とか言う説もあるけれども、凡人が死んで天才になるわけもないから、凡人が凡人を守護してどうするんだ?と思う。守護しているつもりで邪魔しているという、愛しているつもりで去勢しているという、「情だけはやたら深いが、すこぶる頭の悪い母親」みたいなもので、迷惑な話ではないか。たとえば、私に関して言えば、自分の一族観測しても、優秀なやつなどひとりもいない。遺伝子そのものの質が相当に悪いに違いない。だから、守護霊に親族関係者は迷惑だ。馬鹿に守られても、足をひっぱられるだけだ。「墓参りぐらいはするし、先祖代々関係してきた寺に毎月布施を出すぐらいはするから、邪魔するんじゃないよ、私を!」と、仏壇の位牌に言う清清しい朝が今日も来た。何を言っているんだか。

私が本当に恐くて観て落ち込んだホラー映画は、『未来世紀ブラジル』と『1984』(もちろん、George Orwellの原作の映画化)だ。あれは恐い。心臓が押しつぶされるような恐怖感を感じて以来、二度と観ることができない。どちらも、全体主義国家体制の中で自由を奪われ、精神的に窒息死する個人の悲劇が描かれている。『未来世紀ブラジル』の中で、主人公の幻想に現れる抑圧者のイメージは、なぜか日本の戦国時代の鎧兜をつけた大きな大きな武士だ・・・・なんで??ひょっとして、日本を全体主義国家と示唆しているのか?確かに、日本のあの「定食」セットは全体主義的だな。アメリカは、サンドイッチひとつ頼むにも、トマト一切れ、チーズ一切れにいたるまで、自分で指示して選ばなければいけないが、確かに、日本人は自分で選ぶのを面倒くさく感じるようになるようにガキの頃から訓練している趣はあるな。しかし!こんなHP立ち上げて、好きに書けるのも自由あればこそ。「馬鹿ばかりじゃないか、ここは。ここにいると馬鹿が伝染するから、よそに行こう」と勤務先を変えるのも、所属学会や市民団体を辞めるのも、転居するのも、移民するのも、自由あればこそ。誰にも言えない秘密かかえて生きるのも、自由あればこそ。ブスが美容整形手術して人生をリセットできるのも自由あればこそ。こういう社会にしようや、役人なんていなくても機能できるんだから、公務員は、税金で雇う人間は、軍人と警察官と外交官と政治家だけにしようや、こいつらが無能ならばすぐに解雇して別のを雇おうとか、国民と政府の関係で、政府の仕事が多くなると、政府の権限や力が大きくなって、結局個人が抑圧されるから、政府は小さい方がいい、とかヤイノヤイノ言えるのも自由あればこそ。守るのも、壊すのも、再生するのも、やり直すのも、アイデア出せるのも、それを試行錯誤できるのも、すべて自由あればこそ。選択できる自由あればこそ。とどまろうが、逃げようが、自由あればこそ。自由がなくなるのが一番恐い。一番ホラー。

で、もっと恐いのは、その自由が面倒で、選択に伴う、自由に伴う変化とリスクが嫌で億劫で、つまり「生きながら死んでいたい人々」なのだ。これが今の大方の日本人よ。生きていることを愛せない、徹底的に生きていることを味わえない日本人なら、お望みどおり死ねばいい。滅びろ。さっさと死ね。ゾンビーに用はない。ほんとうに生きていたい日本人だけが生きればいい。12月1日に生まれた、内親王、未来の日本の女性天皇は、そういう日本人であって欲しいですね。