アキラのランド節

SOPという発想(その1) [12/17/2001]


SOPとは、Standard Operating Procedure(作業標準)の略ですが、この言葉を知ったのは、購読している『大前研一通信』によってだ。簡単に言えば、ホワイトカラー向けの仕事のマニュアルのことだ。日本の企業は、このSOPがないので、人件費の安い国に事務業務を委託できないし、パートを使いこなすこともできなくて、コストがかかるという話だ。その売り上げには大いに私も貢献してきた(?)Amazon.comは、本社はシアトルだが、ネット業務や苦情処理などの事務系作業は、インドでインド人がやっているそうである。そういえば、アメリカン・エクスプレスの請求書や明細書は、オーストラリアから来るよ。前はアメックスの日本支社からだったけれども、数年前からオーストラリア。そういうことだったのか。やっとわかったぞ。コストを下げるために、工場などを発展途上国に持っていくのは日本もやっているが、アメリカは、ホワイトカラー業務も人件費の安い外国に持っていく。それが可能なのは、このSOPができているからであって、英語ができれば、そのマニュアル読んで、その通り作業すればいいのである。たとえばマクドナルドには、店員の作業マニュアルがしっかりあるので、どんな未経験の人間でも、そのとおりやれば、ある水準の労働は達成できる。しかし、事務労働となると、上司が変わると手順がガラリと変えられてしまったり、個人の労働者の資質によって労働内容の質にばらつきがでるし、ましてや外国人に任せられっこないと考えるのが日本なんだそうである。たとえば優秀な労働者が長年の労働体験から蓄積したものが、その企業全体に共有されないのが日本なんだそうである。そのホワイトカラー業務のSOP作成の遅れが、日本の製品のコストが下げられない理由のひとつなんだそうである。しかし、大連などに拠点を置いて、日本語に堪能な中国人を雇って、顧客の苦情処理業務などを委託する日本企業も出てきたそうである。日本円で換算すれば月給3万円ではあるが、その額は中国ではかなりの高給なので、優秀な中国人を雇用できる。いまどきの日本人など雇うより、顧客への対応もいいのだそうである。おおお・・・そこまで来ているのか、日本は、世界は。個人プレーの職人芸なんて、「コツ」とか「秘伝」とかの世界は、遠くなりますね。

で、私はそこで思い出す。8年前ぐらいに、前の勤務先の名古屋の女子大のアメリカでの姉妹大学にFaculty Exchangeで行ったときのことを。アトランタ近郊の町にあるAgnes Scott Collegeという女子大だった。アメリカ南部では昔からの名門女子大だそうで、かつての南部出身の大統領の奥さんは、この女子大出身者が多かったそうである。前の勤務先の女子大の卒業生からは、首相夫人がふたり(池田勇人夫人と海部俊樹夫人)出ているので、姉妹校にふさわしいのだそうである(何となく、馬鹿みたいな話だけれども)。私は、その女子大のゲストハウスに1ヶ月ほど滞在した。そのゲストハウスの一階は同窓会事務局であったので、深夜、私はその部屋にこっそり忍び込んで、そこに保管されていた創立(1987年)以来の「卒業アルバム」を全部見まくった。第二次世界大戦の真っ最中でも、その卒業アルバムには、イヴニング・ドレス姿の盛装した美人たちが、あでやかに華やかに写っていた。戦争の影など全くなかった。黒人やアジア系の顔が、少しでもアルバムに登場するのは、1970年代あたりからであった。アメリカの南部の「お嬢さん」の顔というものを、じっくり見ることができた。Southern Belleの感じがつかめた気がした。いかにも、白人白人した神経質そうな美人の顔だ。

私が、その女子大滞在中にしたのは、授業参観や、図書館での調べものや、日本紹介のレクチャーだ。レクチャーは適当に依頼されたら、やるといういい加減なもの。3回ほどした。宗教学の授業で「日本の神道についてレクチャーしてくれ」と言われたので、「日本の神社は女性の身体をかたどっている。参道は産道であり、字は違うが発音は同じである。鳥居は女性の外生殖器の形を象徴化している。あがめたてまつる本宮は子宮である。日本語ではオミヤと言う。オミヤは子宮の敬称である。」とか、でたらめを話した。美人の黒人の学生が「面白かったよ。このクラスの今までのクラスよりも面白かったよ」と言ってくれた。教育学のクラスでは「日本の教育について話してくれ」と言われたので、日本の学校の「イジメ」について話したら、そこの学生から「幼くして階層化、序列化されるストレスや、受験勉強のストレスで、級友を苛めるぐらいならば、アメリカの子どもは銃をぶっぱなすことでストレスを発散することを選ぶ。その方が、人を苛めるよりも健康的だと思う。」と言った。確かにそうだ。日本では、ガキまで姑息である。ガキまで、公務員か大企業のサラリーマンみたいに、やることが小心である、としみじみ思った。あと「日本の女性研究者について話してくれ」と言われたので、日本の大学における雇用と昇進をめぐる性差別について、しっかりきっかりしゃべってやった。ざまみろ。私は、英語ができない。英語で世間話をするのは苦手だ。英会話などしたくはないというのが本音だが、レクチャー形式だと何とかなるのだ。不思議だ。日本語でも講義なら、人が変わる。いつもは、誰も買い手が見つからない荒地に咲く「しけた」コスモスのような、おとなしい人間であるのに。何を言っているんだか。

話 を、SOPにもどす。そこの女子大には大学院はないのだが、国語(Englishね)の教員養成用の修士課程だけはあって、そこだけは男女共学だった。そのクラスを見学させてもらって、驚いた。教育実習での報告をしあっているのだが、私の貧困なる聞き取り能力でも、その内容の高度なことは、よくわかった。授業の準備から、段取り、実践内容など誰かが発表すると、誰かがそれにコメントを加えることでクラスは進行する。学部のクラスと違って教師はあまり口を出さない。彼女ら彼らには、かなり綿密で専門的な教育マニュアルが共有されていた。報告も、具体的で実践的で、それに対するコメントも具体的だった。「教科教育法とか教育心理学とか教育原理とか教職免許取得用科目などいくら勉強したって、所詮、教師個人の人間力にクラスは依存するんだから、教育学なんて学問はしかたない。そんなもんいらん。教育大学とか教育学部なんて、ろくでもない、つまらん教員生産するだけで、日本から消えても誰も困らんよ。」と私は思っていた。「教育は教師個人の資質に依存するのだから、<あたりはずれ>が大きいよな。才能があって面白い人物は、教師にはならないから、結局、日本の教育は駄目だよな」と、雑に考えていた。「だって、私に恩師なんていないもん。日本で教師になる人材の質に期待してもしかたないから、それが不幸なことだとは思わないもん。私は会えなかっただけの話だもん。私は学校運悪いから。独学の人だもん」とか、思ってきた。だから、その教師の卵たちの真剣さや、議論の密度の濃さに驚いた。まだ22歳や23歳ぐらいの若者たちなのに、教師という職業のプロになるべく、真剣に議論して、その議論の中身は、実際的で実践的なのだ。本気なのだ。しょーもない原則論や抽象的な教育論などしないのだ。あのときは、ただただ圧倒された。アメリカの高校の教師の水準って、相当に高いのかもしれないなあ。ねえ。

考えれば、教育学という学問は、実学も実学、実践されてこそ価値のある分野なのだから、これこそSOPが確立していなければならない。あのアメリカ南部の女子大の教員養成クラスがしていたことは、国語の教授法というSOPを共有し、そのレベルアップを図るための情報収集と実践記録の検討だったのだ。教師という職業が、個人の資質に依存するような恣意的で偶然的なことでは、困るのだ。「あたりはずれ」があるようなものでは困るのだ。寺子屋でやっているのではないからさ。専門職になるということは、その学問の社会における実践・貢献形態である専門職のSOPを身につけるということなのだ。日本の教育学でもこのSOPはある程度できていて、それは教師志願者に共有されるように整理されているのかもしれない。なんとなく、日本の義務教育の教師はpedophilia(小児性愛)傾向は共有されていても、教育学というSOPが共有されているように見えないけれども。どのみち、私は、この分野のことはわからない。私が考えるのは、文学部のSOPについてだ。SOPという観点から考えると、文学部って何をするところなのだろう??何を学生に伝えるところなのだろう??何を実践させるのかに関して共通理解があるのだろうか??もし、いっさい、そういうものがないとして、SOPという発想になじまないのが文学部だとして、ではそういう文学部の機能は何なのだろう?続きは、次号に書きます。もう寝ます。

ところで、前の「ほんとに個人的雑感」を読んでくれた方が、「じゃあ、藤森さん、もう桃山に骨を埋めるのね」と言ったが、なんでそういうことになるの。今の職場を気に入っていて、好きだと、そこに定年までいることになるの?私は、場所に関しては飽きっぽい人間だ。今の職場でも、その点はもう飽きてるよ。好き嫌いとは別の問題だよ、それは。チャンスがあれば、またどこかに行くよ。私は、リセットして、やり直すのが好きなんだ。金さえあれば、住居だって、あちこちに持っていたい人間だ。根本的に落ち着きのない人間よ。定住したくないの。直るもんか、この性格。