アキラのランド節

依存症 [12/20/2001]


アルコール依存症とか、買い物依存症とか、ニコチン依存症とかあるが、ああいうものは直るのでしょうか?精神分析的に理由はつくらしいのですが、理由がわかったからといって、治るものなのでしょうか?実は、私も依存症です。これがどれほど後悔しても、治らない。自分でどうしたらいいか、わかりません。苦しいです。しかし、治らない。「もう治らない!」と、「これが私という人間の真実だ!」と、「病気を抱えて生きていくのが人生である!」と、断固として決然として雄々しく潔く認め、気にしないでいられるときもあるのですが、なにか、それにしては、本当に馬鹿げた依存症です。心底、「私って駄目な人間だなあ・・」と地下鉄やトイレの中で頭をうなだれています。この依存症は、海外にいても、国内でも、アメリカだろうが、カナダだろうが、英国だろうが、大阪だろうが、名古屋だろうが、東京だろうが、発症しっぱなしです。こんなしょーもないことを、あえて書くのは、この依存症について書けば、少しは私の黒い暗い重い悩みが軽減されるかと期待するからです。自己治癒から書きます。ついでに治らないか・・・精神分析では、「語ること」が治療になるらしいではないですか。いっそ、この依存している対象そのものを扱うことを商売にしようかと思ったこともあるのですが、どうも違う。そういうことではないのですね。同病の方、おられるでしょうか。出費も大変です。何とかならないでしょうか。

私は、「袋物」、つまり鞄、スーツケース、バッグ類に耽溺しております。素材は問いません。皮でもナイロンでも布地でも、構いません。電車でも地下鉄でもバッグ類ばかり見ています。学生が遅刻して教室に入ってくると、無意識にチェックしているのはバッグです。国立大学あたりだと、1970年代に流行っていたナイロンのショルダーバッグみたいなものを肩から提げている学生が未だに生息しているらしい(どこに売っているんだ?)のですが、私の勤務先だと、学生はお洒落なので眺めるのは楽しいです。特に、学期末試験監督は楽しみです。男子学生のヴィトンなど、なかなかいいものですよ。カンニングを監視するふりをしながら、見ているのは通路に置かれた鞄やバッグ。いい年して、学生みたいな、スポーツ店に売っているようなナイロンのリュックを背負っている中年男女は、アメリカの大学の学生の真似しているつもりでしょうが、みっともないからやめてください。多分、そういう人物は、国立大学の教師か、その女房だと思います。最近、リュックを背負って集団で歩いている年配の方々が増えましたが、郷土文学碑めぐりしている田舎ならいざしらず、街中の電車の中や地下街では迷惑ですので、できるだけラッシュ時は、あたりを徘徊しないでください。そういう傍若無人なことしていると、年金が下りない世代から、蹴飛ばされますよ。おばあさまの方々、映画館で上映中におしゃべりするのはやめてください。公立図書館を占拠するのは、よしとしますから。

私の浪費は、このバッグ類に尽きます。繁華街に出かけたら何か買ってしまう、それは必ずバッグ類です。旅行に行こうが、学会に行こうが、買ってしまうのはバッグ類です。海外の博物館や美術館の売店で買ってしまうものは、そこのキャンバス地のバッグです。海外の大学の生協(と言うのか?)で買ってしまうのは、あのダサダサの買い物袋みたいな奴です。通販の雑誌が送られると、何を見るかといえば、バッグです。男性のビジネスバッグとか、ショルダーにも目がありません。私が使うんです。自分では重くて持てそうもないようなハードなもの大好きです。近所のスーパーや、大阪難波の道頓堀あたりで4800円のバッグも気に入れば買いますし、ブランドもののバッグにも大いに関心があります。しかし、関心があるのは、バッグだけ。それも優雅系のグッチやエルメス、フェラガモ、エトロ、バリーではなく、ハンティング・ワールドやグルカやハートマンやTUMIなどの旅行、ビジネス系のがっちりしたものが好きです。ヴィトンも好きです。あのモノグラムは、もとが日本の紋章なんだから、日本人はあれが好きになるDNAを持っているのだ。ダミエは、箱根の寄木細工だ。目下の憧れは、Rimoaのジェラルミンかアルミか材質は知らないが、そういう類のスーツケース。まことにスマートでクールです。ニューヨークには、やたら鞄店が多い。私は、あのRimoaをショー・ウインドウに顔くっつけて見ておりましたです。店には入りません。入れば、買うに決まっている。そういう性格である。先のこと考えないのである。あれをガラガラ引いて、世界中の空港ターミナルを散歩する。必ず、する。使用中のサムソナイト、早くぶっこわれてくれ。

押入れには、数度使っただけのバッグや鞄類がぎっしり詰め込まれています。しっかり型崩れしていて、いつどこで買ったのかおぼえてもいません。バザーに出そうとか、フリー・マーケットに出そうとか思っていても、面倒で忘れてしまいます。有名ブランド以外は、いまどき、差し上げても誰も喜ばないでしょう。いかにも女性らしいエレガントなバッグなど買っても、だいたい私の職場は、そんなもの持って行けるムードのないところだし、私はエレガントな格好などしないし、エレガントな場所にも縁がない人間なので、結局使いようがないですね、そういう優雅系は。セリーヌのボディバッグなど、もう撫でているだけで幸福感がありますが。レザーというのは、要するに「肌」ですからね、撫でていると気持ちいいです。皮の艶や柔らかさには、うっとりします。むふふ・・・けけけ・・・と微笑が浮かびます。でもナイロンのあのキッチュな「てり」も捨てがたいですね。

しかし、私の同僚や友人は、私がバッグフェチであり、「バッグ買い物依存症」であるとは気づいていない。いつも同じようなノン・ブランドばかり使っているから。私の業界には、ブランド物のバッグなど持つ女は馬鹿だ、と言う空気があります。まあ、教育サーヴィス労働者らしい慎ましさ、貧乏くささというものは、プロレタリアートの品位として、この業界では評価されます。だから、使わないのではないのですよ。使う前から、どうでもいいというか、飽きているんですね。買ってから数日すれば、忘れております。価格から言えば、上限150000円までの範囲内でしかないといっても、数が重なれば、出費は馬鹿にならない。当然だ。冗談じゃないよ。支払うのは私で、誰にも迷惑かけてないのだから、晴れ晴れと大らかに笑っていればいいんだけどね・・・ただ、あまりの自分の愚劣さに、心臓が痛くなるのです。昨日は、帰り道に入った喫茶店が、障害者自立支援組織だとかで、障害者の方が作ったとかいうキルティングの赤い布袋が売っていたので、800円で買ってしまった。可愛い袋である。しかし、あんなガキの給食袋か上履き袋か、塾かお稽古袋みたいなもの、何に使うのか。一昨日は、卒業したゼミ生とのReunion兼ねた忘年会の集合場所に早く着きすぎて、難波の高島屋のハンティング・ワールドにうっかり入ってしまった。悪魔のささやきであった。名古屋の自宅に配送してもらったその鞄とバッグが、今日届いた。憂鬱である。どこに隠すべきか。まずいぞ。私は、どうして、こうなったのでしょうか。何らかのトラウマでしょうか。抑圧でしょうか。今秋こそ、心を入れ替えようと、あらかた捨てたのですよ。押入れの整理をしたのです。絶対に立ち直ろうと思ったのです。しかし、また発症しているのです。すでにして押入れ(クローゼットと言うらしいが、今は)に乱雑の徴候が・・・Ayn Randへの私の情熱ですら、この病気は治せないというのか。じゃあ、誰にも治せないよ。「中村うさぎ」も、治らないだろう。