アキラのランド節

ある発見 [01/16/2002]


『ジュニア・ブラウンの惑星』(The Planet of JuniorBrown, 1971/翻訳は岩波から出ていたけど、今はどうせ絶版でしょ)という児童文学がある。作者は、ヴァジニア・ハミルトン(Virginia Hamilton)というアフリカ系&先住民族系アメリカ人女性。知る人ぞ知るアメリカ児童文学の巨星です。私は、この一作にしか関心はないけどさ。これは、ニューヨークのスラムの廃墟ビルの地下に、孤児のホームレスの少年たちが共同体を作るという話です。この共同体は、「ファミリー」じゃない。この共同体の年長の少年は、みな一律「明日のビリー」(Tomorrow Billy)と呼ばれる。幼い少年たちに食べ物や着る物を持ってきたり、都市でのサバイバル法を教えるのが、年長の少年の役目だ。なぜ、彼らが「明日のビリー」と呼ばれるのかといえば、幼い少年たちが「明日も来てくれる?ビリー?」と別れ際に尋ねるからだ。子どもだもん、心細いから尋ねるよな。サバイバルの方法に「窃盗」とか「万引き」などは含まれない。教師にホームレスであることを知られずに学校に通う方法や、落ちていた財布からは現金以外は絶対に取らないことなどが含まれる。なぜならば、知識がないことや、犯罪に手を染めることは、結局はサバイバルを可能にしないから。みな貧しい少年たちで、その中のひとりの少年の願いは「自分専用の枕」を持つことだったりする(涙)。貧しいスラムの家庭では、ベッドを他の兄弟たちと共有して眠らねばならないし、親の負担になっている自分が嫌で辛くて、彼は家出をした。そのうち、幼い少年たちが「明日も来てくれる?ビリー?」と尋ねないときが来る。それは、幼い少年たちがサバイバルの方法を身につけたからだ。無意識のうちに、自分でなんとかなると思うようになっている。そうなると、翌日からビリーは来ない。このホームレスの共同体は、教育機関であり一時避難所=シェルターであるから、その機能が達成されたら解散される。彼らホームレスの共同体=「惑星」は、単につるんで身を寄せ合っている集団ではないからだ。この少年たちは、親や親戚や世間や学校や、管理ばかりしたがる福祉施設などへの批判や愚痴を言うことがない。言うほどの関心も期待もない。自分たちのサバイバルは、自分たちに責任があるのであり、自分たちの世話ができなかった親の無能さ、非力さは承知しているから。責めても始まらないとわかっているから。世間や社会は、彼らにとって対処しなければならない客観的対象であり、彼らの感情を投影して期待できるものではないとわかっているから。彼らは、ニューヨークの街の裏側で、「絶対的異邦人」のように淡々と警戒を怠らず生き抜いていく。離婚したばかりで情緒不安定になり、13、4歳の息子に過剰に依存する未熟なうつ病の母親を捨てて、この惑星に加入する少年もいる。母親の人生は母親に責任がある。彼の人生は彼に責任があるように。『ジュニア・ブラウンの惑星』という作品は、このように、クールな内容である。どうだ、アメリカの児童文学は面白いでしょう。アメリカならではのハード・ボイルドでしょう。

しかし、この『ジュニア・ブラウンの惑星』という作品は、おそらく、アイン・ランドの『水源』(The Fountainhead)のパロディだな。普通の社会の裏側に別の社会を作るという意味では、『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged)のパロディでもある。主人公のホームレスの共同体のリーダーは、ハワード・ロークやジョン・ゴールトの黒人少年版だな。だいたいが、ヴァジニア・ハミルトンという作家は、家族の葛藤の中で折り合いを見つけて生きて行く子どもの成長物語を得意とするのに、あの作品だけは、奇妙に突出してハード・ボイルドである。証拠はないけれど、私は確信している。この作家は、1936年生まれで、ランドの弟子と同世代だ。ランドの小説をリアル・タイムで読めた世代だ。で、この人は凄い美人で、夫は白人である。つまりアメリカ白人の価値観も理解できる人だ。なんでだって?黒人の内部にもカラーリズム(colorism)といって、肌の濃淡で目に見えない序列があるんだよ。スパイク・リー監督の映画Jungle FeverやSchool Daysを見た?白人に近い容貌であればあるほど雇用市場でも恋愛市場でも有利なの。パウエル国務長官を見よ。コンドリーサ・ライス大統領補佐官も写真写りは悪いけれども、テレビなんかのインタヴューだと白人っぽいマナリズムで肌の色も薄い方だ。顔立ちは、アフリカ系というよりラテン系(ヒスパニック系)だ。黒人の作家でも、美人で肌の色が薄くて白人と結婚していれば、文学産業にも受けがいいということは当然あるよ。で、決して声高に差別告発や黒人性をむきだしにしないで、「普遍的な」ノリで書くと、白人の批評家にも認められやすい。このヴァジニア・ハミルトンという作家は、そういう意味でも、白人中心の文学産業にもなかなかうまく対処してきている。白人のゲームのルールをよくわかっている。ニューヨークの左翼系高等教育機関New School for Social Researchにも在籍していたことがあるから、ランドに関心を持つ条件はあるよ。ランドは徹底した反左翼だし。左翼で黒人では社会的上昇は望めない。そのあたりは、しみじみ理解したのではないか。あれやこれやで、ともかく私は、10年前に読んだこの作家と、アイン・ランドの「交点」を感じた。確たる証拠はないけれどもね。

家庭や地域から落ちこぼれた少年たちが作る共同体というモチーフ自体は、よくある定番だ。常套だ。たとえば、ニューヨークの廃墟ビルの活用からホームレスの再生と都市の再生を図る少年たちが活躍する『合衆国秘密都市』という児童文学もあった。家庭の管理から逃げた子どもたちがギャング化して、ニューヨークのセントラル・パークを隠れ家に昼間は潜み、夜になると大人たちを襲い殺すという『子どもたちの夜』なんていうミステリーもあった。しかし、ハミルトンの『ジュニア・ブラウンの惑星』は、全然違う。ここに描かれる少年たちは、大人が「児童文学」の主人公として期待する役割なんかしない。大人の絶望と退廃を正す「大人の救世主=天使」にもならないし、大人の絶望と退廃の鏡であるような「恐怖の子どもたち=悪魔」にもならない。『ジュニア・ブラウンの惑星』における大人は、少年たちが冷静に観察し対処する現実の相のひとつでしかない。大人を助けるという形の媚びもなければ、大人に反抗するという裏返しの甘えもない。要するにどうでもいいわけ。徹底的に馬鹿にしているとも言えるし、馬鹿にするという否定的なコミットメントさえない。な〜んか、こういう視線というのが、対象を「分析」するというより「観測」するという距離ある視線が、アイン・ランドの小説臭いわけ。ランドの小説の主人公は、自分の苦悩でさえ、何かを眺めるように見つめる。苦難の連続である人生において、自分が陥りがちになる自己憐憫でさえ、遠くから眺めるように把握して、その憐憫を軽蔑する。児童文学だから、『ジュニア・ブラウンの惑星』の主人公は、そこまでの自己客観化能力は与えられていないけれど、なにか似ているんだよね。はっきり言って、ハミルトンの作品にしてはできすぎている。水準の高さでは日本の児童文学の比ではないアメリカ児童文学でさえ、できすぎている。

実は、10年前に、私はこの作品の共同体に少女がいないことの奇妙さを、フェミニズム的に解釈した論文を、日本児童文学会の学会誌に書いた(今は、児童文学系の学会はすべて退会しました。もうそんな暇がない)。1992年に『十五少女漂流記』という邦画が上映されたけれども、この映画はこけたよ。女の子だけの自立した共同体なんて女の子も関心ないし、男の子はもっと関心ない。女の子の自立なんてテーマは、日本では受けないのだ。『ジュニア・ブラウンの惑星』が発表された1970年代初頭のアメリカという文脈の中でも、それは同じことだったろう。アメリカのフェミニズムは、1960年代末期に台頭したが、児童文学は大人の文学より、時代の風潮や思想の変革が、10年は確実に遅れて表現される。また共同体に女が入り込むと、性という厄介な問題もある。カップルが生まれるか、チーママみたいなのが出てきて、ファミリー化して、家父長制的になって、ゲゼルシャフト的な機能集団の機能性が損なわれる。機能集団が、いつしかその集団の維持だけが目的となりゲマインシャフト化するのだ。この作品の発表された1971年アメリカにおいては、「惑星」に少女が不在なのは、しかたなかった、これはフェミニズム的問題だ、というような内容で書いたのだ、私は。現在ならば、この「惑星」に「明日のビリー」と同じく、「明日のマリー」が児童文学に登場しても、決して過激でも非現実的にもならないだろうが・・・というのが、私の論文の趣旨だった。ずっと忘れていた自分が書いた論文の内容を思い出して、あらためて、私はアイン・ランドという作家の凄さを感じた。だって、1940年代や50年代に、なんで、あんな、とんでもないスーパー・ウーマンたちを造形できたのか。惚れ惚れするような女傑たちですよ。伝統的な規制の枠組みに収まらないヒロイン造形というのは、以外に男性作家がやります。英国のトーマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』とか『日陰者ジュード』のヒロインなんかは、とんでもなく過激です。読んだときに、「なんで男が書けたんだ?!」と悔しく思ったくらいだ。女性作家は、自分が女であることで享受してきた鬱屈や不如意などから、また文壇での受容を判断して、なかなか破天荒な女というのは描けなかったりしたものだ。自分を自分の弱さから解放することは難しいからねえ。だから、かえって男の方が、従来のヒロイン像を突き破る女を造形できたりする。しかし、ランドは、あの時代にそれをした。凄いですよ。女であることの劣等意識など皆無だし、「名誉男性」の女みたいに、同性を馬鹿にすることもない。人間全てを馬鹿にするならいざしらず、同性を馬鹿にするというのは、それだけ自分の性のvulnerability(傷つきやすさ)を嫌悪するミソジニー(女性嫌悪)だからね。中途半端に気の強い優等生女に多いよ、こういうのは。でも、ランドはそんな中途半端さも皆無。ほんとうに「いい子ぶりっ子」しない女って、それだけで記念物だよ、現行の文化においては。

ハミルトンもどうせパクるならば、ヒロイン像もパクって、「明日のマリー」を造形してみればよかったのになあ。まあ、児童文学なんてジャンルは非政治的に見えて実はとても政治的で、現行のシステム強化保持装置だからなあ(『ハリー・ポッター』がそうでしょう。しょうもない内容だ。魔法を使って社会改革なんて絶対にしないもんね)、まあ無理だよね。うん。最近、私はいろんな作品に、ランドの影を感じている。人によっては、一番影響された本とか人間とかが、素直に認められないところがあるでしょう。学者でも、一番影響されたものほど、論文でも注に書かなかったりする。あまりに影響されて、自分の思想になってしまったので、もう他人の思想だったと自覚できないのかもしれない。日本人には特に多いよね、こういう無自覚なのは。しかし、こういう現象はアメリカ人にだってあるだろう。さて、ハミルトン女史のサイトにE-mailで質問してみようかな。