アキラのランド節

国策としてのブンガク産業?(その1) [02/25/2002]


くたびれきって何もできない日は、映画を見る。レンタル・ビデオ屋で5本借りてきて、週末はそのうち3本を見た。最初に観たSecret Society(『恋のハッケヨイ』)という映画は、英国は北部ヨークシャーのデブ女たちが「相撲」の秘密結社を作って、相撲の秘密訓練に励み、「横浜から来た日本の相撲取りの男たち」と試合して勝つという、わけのわからない映画。なんなんだ、あの映画は?しかし、登場するデブ女たちには、「崇高の美」の輝きがありました。ひょっとしてフェミニズム映画なのかもなあ?

次に観たNurse Betty(『ベティ・サイズモア』)は、すでにしてアメリカの大学院のFilm Studiesのコースあたりで、ジェンダーやらクイア理論やらバーチャル・リアリティの観点やら、メディアと大衆やら、ロード・ムービーのアメリカ性とかの観点から、論文がいっぱい書かれたに違いない、絶対そうに違いない批評的問題群満載の秀作です。American Beautyなんかよりも、ずっとずっと洗練された喜劇でもある。主演女優が、素敵に可愛らしくて古風なようでいて今風な清潔感があります。金髪碧眼白人女って、やはり綺麗だよね。あの女優さんのドイツ系の名前がややこしくて覚えられない。改名してほしいよ。

最後に観たのがThe Gift(『ギフト』)。アメリカ深南部の小さな町で、夫の死後、自分の超能力を生かして身の上相談兼占いで生計を立てて、三人の息子を育てている未亡人が、殺人事件に巻きこまれるオカルト・サスペンス映画。『エリザベス』では、「こんな鈍くさい女に大英帝国の女王が務まるのか?」と思わせたケイト・ブランシェットの、神経質そうでメランコリックな痩身の美貌が、この映画では、生活感と透明感という矛盾した二要素を発揮していて、実にいいです。何よりもいいのが、舞台となるアメリカ深南部Deep Southの雰囲気が、映画に濃厚にたちこめていること。この映画は、アメリカ南部ゴシック文学の素養を豊かに持つ人が作ったに違いない。ウイリアム・フォークナー(William Faulkner)や トルーマン・カポーティー(Truman Capote)や テネシー・ウイリアムズ(Tennessee Williams)や、 フラナリー・オコーナー(Flannery O'Connor)の小説の世界と同じ匂いがしたな、あの映画には。だから、私はすっかり感傷的な気分になってしまった。珍しいことである。それは、どういう気分だったのか?それは「愛してる、ほんと!今でも愛してる!でも、あんたと、いっしょにいると前に進めないの。ごめんね!あんたいい男なんだけど、あんたといると駄目になっちゃう!あんた、私に優しかったよね。ありがとう。でも、やっぱり私行くね!」と叫んで、ハンサムな恋人と別れて荒野をめざす気分に似ていた(ただし、そういう思い出は私にはない)。それは、はっきり言えば、私がかつて入信していた「ブンガク真理教」への感傷=愛惜=未練だったのであります。

20代後半と30代まるまる、私はアメリカ文学の中でも「南部文学」という領域に「何となく」入れ込んでおりました。南部というのは、あの南北戦争でボコボコに負けた南部です。『風とともに去りぬ』の南部でして、公民権運動の発端となったバスボイコット事件(同額のバス代は払うのに、白人がバスに乗ってきて、空いた座席がないならば、座っていた黒人は座席を白人に譲らねばならなかったアラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークという黒人女性が立たなかった。それで彼女は警察に引き渡されたが、それに抗議してバスボイコット運動が黒人たちに起きて、とうとうバス会社は差別をやめた。やった、やった。)が起きた南部です。映画『イージーライダー』で、バイクで自由に旅している若者ふたりを銃殺したred neckの南部です。ヒラリー・クリントンが、アーカンソーの知事選挙に出る亭主を勝たせるために、髪をブロンドに染めて、眼鏡をコンタクトにして、それまでのキャリア・ウーマン的機能的シンプルなファッションから、ドラッグ・クイーン風味を加味した女っぽいゴージャス系のファッションに転換させられた、あの南部です。アメリカの中のAnother Countryであります。はっきり言って、アメリカの中の後進圏です。ダサ〜〜イ南部です。あの母音を奇妙に伸ばす(特に女性)、変てこな英語の南部です。

この、いまだに東部あたりからは馬鹿にされている南部アメリカの文学がもてはやされた一時期が、第二次世界大戦後にありました。40年代とか50年代の話です。「後進国アメリカが先進国英国から知的にも独立した現象のひとつ」ということになっている19世紀半ばの「アメリカ文学のルネサンス」というブームにならって、それは「南部文学のルネサンス」と呼ばれました。南部文学の大御所、ノーベル文学賞受賞者のウイリアム・フォークナーは、来日したときに「南部は南北戦争で北部に負けた。太平洋戦争で負けた日本人には南部が理解できるはずだ」とか、何とか言ったらしいが、思いっきり乱暴に言うと、アメリカ南部小説って、「負け犬」の話ばかりなの。敗残者が立ち直れなくて、リヴェンジする気力もなくて、アホ繰り返しながら死ぬまで漂っているという話が主流なの。そのアホぶりの中に真の人間存在の輝きがあるっていうことになっているの。フォークナーは、南北戦争前には栄華を誇った名家旧家の家運衰退の相を、ひたすら書いた。私の好きだったテネシー・ウイリアムズは「零落して娼婦まがいになった不運な南部の元お嬢さん」とか「貧乏なのにお嬢さんみたいに育てられて、発想の転換ができなくて落ちこぼれているオールド・ミス」とか、「まともな生活力がなくて、ジゴロか男娼やるしかない美男」とかの話を書いていた。

おかしい。今思うと不思議だ。なんで、私はこういう話ばかり読んでいたのだろうか???なんで、こんな類の話に関する論文を書いていたのか?考えてみれば、馬鹿みたいな話ばかりではないか。没落した名家の愚劣で無能な甘えきった人間たち(特に男ね)のお馬鹿な悲惨さを、これでもか、これでもかと書いたフォークナーは、日本のアメリカ文学研究者でも一番優秀な人間たちが研究することになっている作家であります。そういう研究者を、フォークナリアン(Faulknerian)と呼ぶのであります。「こんなしょうもない人間たちばかり書いていて、嫌にならなかったなんて、この作家って病気じゃない?」なんて、この人々を前にして絶対に言ってはいけないのであります。同じく、アメリカ演劇研究者の前で、「ウイリアムズの劇に出てくる人間って、単に怠惰で無能なだけではないの?こういうのは可哀相なのではなくて、図々しいだけではないの?」とは、言ってはいけないのであります。文学的感性の貧困さを軽蔑されます。例の『欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire)ね、義弟に強姦されて精神病院に放り込まれたあのヒロインは可哀相だけれども、だいたい妹の家になんか転がり込むなよ、他人の家に居候して、やいのやいの言っている厚かましい神経があるならば、まだ売春婦やって自立する方がいいんじゃないの?単に見栄はって体裁かまっているだけではないの、このヒロインは?と言ってはいけないのね。日本では、この劇のヒロインを、入浴をすませたシーンを、70歳過ぎた杉村春子がバスタオル巻いて肌さらしてやっておりましたが、そういう点において、この大女優さんは、このヒロイン演じるのにぴったりの女性でありましたね。

彼らの作品は、一種のホラーとして非常に有効だとは、私も思います。あれだけ、気色の悪い甘えのお化けみたいな人間たち(特に男ね。どこか確かに日本の地方の男に似てるわ)がわんさか出てくると、「ああ、こんなふうにならなくて、よかったなあ。怖いよ〜〜ほんとうに、今の私って幸せ!」とかいう気分にはなる。「石川啄木」っていうのも、そういう意味で一種のホラー作家だよね。「うわあ、人間って、これほど厚かましくなれるんだなあ。金貸していつも助けてくれる友だちの悪口言っているよ〜〜こんな男の女房じゃなくて、娘じゃなくて、母親じゃなくて、よかったなあ〜〜花なんか買ってこないで働け!この馬鹿!」と思わせるではないですか、この「悲運の歌人」は。まあ、要するに、ワイド・ショーでしょうもない事件の報道見て騒ぐようなものです。「怖いよね〜〜この世の中って怖いよね〜〜変な人多いよね〜〜」とブツクサ言いながら、カップラーメン食っているようなもので、「真の恐怖に直面しないように、小さな恐怖で世界に対する大きな恐怖を癒す」効果は、ありますね。

しかし、この第二次世界大戦後の、アメリカにおける南部文学礼賛ブームは、どうも、冷戦期のアメリカの国策のひとつだったようでありますよ。冷戦開始から冷戦強化期の40年代半ばから50年代のアメリカ文学の文壇は、このもろ政治の時代に、危機の時代に、ひたすら「普遍的な人間存在の闇」とかなんとか書くのが、真の文学であり、政治などという「浮世の空騒ぎ」ではなくて、「永遠の相のもとにある問題」を記述するのが文学なのだ、というコンセンサスをでっちあげさせられたらしいのだ。でっちあげに加担したというべきか。あああ・・・「ブルータス、お前もか」の気分だったな、それがわかったときは。日本の近代史のからくりを、副島隆彦氏の『属国・日本論』(五月書房・1997)よって知らされたときは、かなりがっかりしたよ。だって、日本近代の礎を作った明治の元勲たちはロスチャイルド系のヨーロッパの政商に操作されていたらしいのだもの。そうだよなあ・・・いくら頭良くても土佐の田舎侍の坂本龍馬に「株式会社」なんて発想できたはずないよなあ・・・そりゃそうよねえ・・・「なんか変だなあ?」の背後には、やはり政治があるんだな。結局、私も冷戦期のアメリカの国策(日本の国策でもあるか)に騙された人間のひとりなんだな・・・続きは、また書きます。