アキラのランド節

二種類の女戦士 [03/12/2002]


ほんとは、「国策としてのブンガク産業?(その3)」を書くべきなんだけど、初夏の沖縄から帰って風邪ひいたみたいです。ビタミンC摂取替わりに、別のこと書きます。

私の好きなアニメに、『サクラ大戦』というのがある。ニューヨークのビデオ屋の、ジャパン・アニメーションのコーナーでは、Sakura Warsという題で、英語版で売っていたな。主題歌がいいの。「行くぞ〜〜興国の〜〜帝国歌劇団〜〜〜」というサビが景気が良くて楽しい。一見宝塚みたいな女性歌劇団は、実は帝国防衛を任務とする精鋭部隊であるという設定。時代設定は大正期。ジャパネスク趣味もあって、アメリカでは人気があるらしい。架空のニッポンの大正時代だから、史実とは違う。だから、女性の高級将校が出てくる。制服姿が凛々しい。

今でこそ、自衛隊に女性隊員もいるけれども、日本はあの太平洋戦争で、兵士がいかに払拭していても、女性を兵隊にするという発想はなかった国だ。敵の連合軍には、女性兵士というのは、たとえ後方支援とはいえ、ちゃんと存在した。故・会田雄次氏が書いた『アーロン収容所』(中公文庫、1973年)には、捕虜収容所の日本人捕虜の前では素っ裸でも平気なイギリス人女性兵士が、同じイギリス人の男が現れるとキャーキャー大騒ぎして裸を隠そうとした、ということが書かれてあったっけ。日本人捕虜なんか猿みたいなもので、羞恥心など持つ必要のない存在だったわけです。アメリカの作家William Styronの小説に、自分の前で平気で裸になって着替えし始めた白人女を、怒りと屈辱から殺した黒人の若い男の話があったな。こういう怒り方は、私にはよくわからんけれども。自分が下位に置かれる差別の構造を見ないで、手近な女に怒りをぶつけるってのは、男の常套らしいね。いいよねえ〜〜。私なんか、八つ当たりする相手もいないよ。

しかし、日本でも沖縄だけは、「女性戦士」がいたらしい。先日、沖縄ゼミ旅行に行って、わかった。ゼミのテーマがホラーだから、沖縄のゼミ旅行の名称は、「最大最悪のホラー=戦争の跡地を回る沖縄南部の旅」と勝手につけて、行ってきた。アメリカ軍最初の上陸地点で、悲惨無残な住民自決もあった座間味島まで行く元気はなかったけれど、海軍塹壕跡とか、「ひめゆりの塔」とかを回った。沖縄決戦最後の戦場である摩文仁の丘に行って明るい明るい太平洋を見た。ここは、今は平和祈念公園になっていて、沖縄戦の戦死者全ての方々(軍人、島民、連合軍兵士も含めて)の名前が彫られた壁「平和の礎」がいくつも、いくつも海の波を模した形で建てられている。沖縄守備軍の兵士たちは、出身県別に名前が彫られている。この「平和の礎」(へいわのいしじ、と読む)は、ワシントンにあるベトナム戦争戦死者の名前を彫ったBlack Wallの真似なんだろうな。

沖縄戦では、住民の三分の一が亡くなった。三分の一の住民が死ねば、感覚としては全滅に近く思えたろう、あの当時の沖縄の人々には。私は、事故死者や戦死者の数をリアルなものに感じるために、いつも勤務先の大学の全学生数3500名と教職員数350名の3850名が、崩壊したキャンパスに血だらけで倒れ死んでいるという図をイメージすることにしている。気分が悪くなるまで想像する。そうすれば、その数字が単なる数字でなく心に迫ってくる。仮に、一口に1万名の死者といっても、すさまじいことである。それが何十万名も死んだのだ。その死体の処理は誰がしたのか?自決した高級将校ではないよな。最下級のアメリカ軍兵士か、日本軍兵士の捕虜か、沖縄住民の生存者さ。戦場とは、「死体の処理と腐臭と排泄物の臭い」に尽きるそうだ。映画や漫画では臭いまではしないもんね。亡き父が、死体の臭いは、スイカの皮が腐った臭いと似ていると言っていたな。

沖縄戦では、学生たちと同様に、一般住民も斬り混み隊とかに編成されて「戦死」している(させられている)が、アメリカ兵が死体を検分したときに、女性が軍服を着て死んでいる例も少なくなかったので、驚いたそうだ。ともかく、当時の老人と子どもしかいない地域共同体を支えて沖縄の女性たちの奮戦ぶりは、すごかったそうである。「ひめゆり部隊」に代表される女子学生たちの野戦看護婦、従軍看護婦の活動も、この沖縄の女性の気丈さの延長戦にあったのだな。だいたいが、沖縄というところは、女性がパワフルなところなんだそうである。私の友人の宗教学者は、プリンストン大学で沖縄の土俗宗教と女性のパワーに関するフェミニズム系論文で博士号を取ったのだが、彼女によると、伝統的に沖縄には本土のような女性蔑視がないんだそうである。女の結束も固いんだそうである。

本土には皆無の「女戦士」(巴御前なんて例はあるが、有名なのは例外だからでしょ。)だが、沖縄には存在したのは、沖縄が中国と文化的歴史的に深い関係があったせいかもしれない。中国には、ディズニーのアニメにもなった「花木蘭」(Fa Mu Lan)のような女戦士の例は、15世紀ぐらいまで記録に残っている。戦場に行けない父親や夫にかわって一家の名誉のために、もしくは領地を守って、男装して戦うという例ね。だけど、別口の「女戦士」の系統も中国にはあるみたいだ。最近の映画、Crouching Tiger, Hidden Dragon(『グリーン・ディスティニー』)のカンフーや武芸の達人という女性は、荒唐無稽な話ではないらしいよ。映画『天山回廊』見た?あそこに出てくるウイグル族の盗賊の女首領って、すさまじい女戦士だったでしょう。容赦なんか全くしないで、徹底的に敵を殲滅する悪鬼みたいだった。主人公の男との長々と続く決闘には、度肝を抜かれました。男も女もなく、徹底的に個人の強弱を競い、弱い方が死ぬのだわさ。あれこそ、むきだしのジェンダー・フリーというものだわさ。あの女性像は、私には強烈だった。中国の女はすごい。無茶苦茶にすごい。やはり、息子殺して平気という則天武后や西大后は、だてに生まれていなかったのだ。いくら、映画の中の話でも、日本人はああいう女性像は造形してないぞ。私は、あの映画見て、「あ、所詮わたしは平和な島国の気の弱い優しい女だわあ」と思ったものだ。

1960年代終わり頃に、日本にもアメリカの第二波フェミニズムが入ってきた頃に、私がかなり真剣に恐れていたのは、「男女平等はいいのだけど、徴兵されるのはかなわん」ということだった。私は運動神経は鈍いし、体力はないし、集団生活は嫌いだし、規則正しい生活はできないし、残酷な場面は見れないし、神経質で水洗トイレでないと使えないし、痛みにも疲労にも耐える根性は全くない。頑張らないし、頑張れないし、好きなことしかできない。嫌なことからはすぐ逃げる。うっとうしい奴には近寄らない。共同体よりも自分が大事だ。昔「今度戦争が起きたら家族で死にたい」と言った母親に、「私だけでも絶対に生き残る。」と言ったぐらいで、ましてや日本のためになど死ねるか。だから、徴兵は絶対に困ると恐れていた。こういう性格では、戦場に行く前に軍隊でリンチされて殺されるわ、と。

私の世代は、ガキの頃に水爆実験が始まり、第五福竜丸の遭難事件もあり、キューバ危機もあったし、ベトナム戦争が小学生の時に始まったんで、日本が参戦する第三次世界大戦が起きるかもしれないという不安はいつもあった。リアルに戦争が怖かった。

また、うちの親が無用心で無神経で無頓着なもんだから、広島や長崎の原爆の廃墟の黒こげ死体とか、人間とは思えないぐらいの姿になった全身火傷の被爆者の写真とかをグラビアにした週刊誌だかグラフ雑誌だかを、そのあたりにほって置きやがった。で、ガキの私がそれを見ちゃった。それからが悪夢の日々よ。電気を消した暗闇の中にあの黒こげ死体が浮かび上がる。ただでさえ寝つきの悪い神経質な子どもが、いつも睡眠不足だった。身長が伸びなかったのは、そのせいだ。くそ。飛行機の音が聞こえると、空襲か、原爆が落とされるのではないかと恐怖にかられた。机の下に隠れたりした。冷戦時代のガキだったから、世界地図のソ連や中国は黒く塗りつぶした。毎晩、「戦争が起きませんように」と祈っていた。いつでも逃げ出せるように、寝るときに脱いだ衣服は風呂敷に包んで枕元に置いた。少女雑誌も読んだけど、少年雑誌に載ったアメリカの爆撃機や戦闘機を見つめていた。空から降ってくるものは防ぎようがないな、と絶望的な思いで見つめていた。なんちゅう「少女時代」だ?全ては、あのグラビアのせいだ。くそ。私の子ども時代を返せ。

だから、40歳過ぎたあたりで、ホッとした。これで何が起きようと、徴兵されずにすむ、と。しかし、男女平等ならば、女も徴兵されるのか?男女平等だから、男も徴兵されない、というのが筋ではないの?なんで男が基準になるのか。だいたい染色体からして、基本形は女性。人類の基本形は女性。だから、女基準で考えるのが、自然な人類のあり方。それに、戦争したいやつが戦場に行けばいいのに、戦争するかどうか決定権のない、選択の余地がない人間が戦場に行かされる。馬鹿馬鹿しい。おだてられて、素直に信じて、無理して戦って、誰が得するのか。男だって、戦士になんかなるな。ましてや、「女戦士」なんか、くそ真面目にやるような女は、変態である。勘違いしないでもらいたい。「女戦士」は、フェミニズムでもなんでもない。それは、「自分以外の何かのために自分を犠牲にして頑張る」ことだから、しっかり伝統的女性の生き方である。

だから、沖縄の「女戦士」は、本質はやはり戦前の日本の女たちだ。伝統的女性だ。本土の女みたいにメソメソしていないだけだ。どうせなるなら、「天山回廊型女戦士」ですね。自分の欲望達成のために動く。しかし、自分のためだから、自分の損得考えるから、無茶はしない。究極は個人の力量だもんね、男も女も。厳しいよね。そこに戦うことへのロマンなんかないもんね。美化できるような余裕はないもんね。こうなると、つるんでフェミニズム運動とかやっている暇ないもんね。戦略的にはつるんでも、究極は個人の闘争だもんね。セクハラされる現場に仲間はいないからね。暴力を受ける現場に警察はいないからね。事件は会議室では起きないもんね(どこかで聞いた台詞)。勝てない戦いは逃げるしかないからね。逃げる前に、遭遇しないようにしないとね。

ところで、最近の日本のエンターテインメントにも、そういう「天山回廊型女戦士」が出てくるようになった。桐野夏生の『OUT』(講談社、1997年)というミステリー小説。数年前にテレビ・ドラマ化された。これ最後はヒロインと殺人者の変態男がほんとうに徹底的に白兵戦やる。小心で運動神経の鈍い私は、読んでびびった。私は、こっちの「女戦士」もやれんわ、と。しかし、どちらかというと、めざすは、こっちだろうな。闘争というものが生き物の運命だとするならば、しかたないな。この面白い小説のテレビ化は、しょうもない結末にしてあって、視聴者の水準をなめていたから、許せんわ。

あのね、日本には、だいたい「守られるお姫さま」なんか伝統的に、いない。いないよ。「守られるお姫さま」の例を知っていたら教えて。「守るお姫さま」ならいくらでも例はあるよ。誰かを守り誰かのために健気に頑張る「沖縄型女戦士」の伝統しかないところに、女も徴兵されることになったら、またどれだけ日本の女たちは、利用されるかわからない。搾取されるかわからない(論文コーナーの「ムーラン」のとこ読んでね)。だいたい、西洋型フェミニズムを、日本にそのまんま持ってくると、日本の男が余計に楽するだけだよ。ただでさえ、「守ってあげたい」日本女性の負担は更に大きくなる。さぼればよろしい。さぼって丁度いい。私だって、「組織内OL」を実践している。OLが懸命に働いても、給与は上がりません。意気に感じて働くのは、自分の意気に感じるからだ。上司のオッサンはみな嫌い。若い同僚になんか忠告しない。教えられなければわからないなんて頭が悪いのだから、ほっておく。

日本女性のみなさん、何かのために、誰かのために頑張るのはやめましょう。歴史の中の史実の、「ムーラン」や「沖縄型女戦士」の心根の優しさ、健気さ、利他愛は美しい。ほんとうは、そんな強さは発揮したくなかったのに、ムーランや沖縄の女戦士たちは、やむにやまれず、そういうことになった。好きでなったわけではないよ。なのに、この時代になっても、勘違いして「ジャンヌ・ダルク」やる馬鹿がいる。その矮小化例としての「先生のお気に入り」みたいな「学級委員」みたいな女は、掃いて捨てるほどいる。その頑張りは、ほんとは何のため?人の目を気にしているの?他人に褒められないと自己是認ができないの?他人の期待に沿ってだけ生きてきた優等生は、いい年しても学生根性が抜けない。いつまでたっても先生に褒められることを待っている。親に褒められることを期待している。あなた、そういう男みたいなことは、やめようよ。

でも、ほんとうはこの手の女性の中には、「沖縄型女戦士」ぶりっこの、本質は中途半端な「天山回廊型女戦士」ってのが多いの。本人が無自覚なだけでさ。これは、これで迷惑だなあ。こういう女は大義名分ばかり言い立てて、ヒステリーだもん。自分だけで勝手にやってればいいのにさ。ほんとに「ひとり遊びのできん女」は、同性にとっても迷惑なんよ。正義の味方=人類の敵よ。正直に、奇麗事言わずに、自己欺瞞やらずに、姑息な計算しないで、「天山回廊型女戦士」を女がやれば、随分と風通しのいい社会になるだろうな。気楽かどうかは別として。どうせ死んだら、ずっと寝てるんだから(か、どうか知らんが)、生きてる間は「気楽」はしなくて、いいんじゃないの?「気楽」しすぎると、無為に長生きして、他人を犠牲にするはめになる。きちんと長生きしなきゃ。