アキラのランド節

そのへんのペガサス [04/23/2002]


昨日の日曜日、中島みゆきの作詞作曲「地上の星」のCDを買ってきて、聴きながらヒイヒイ泣いた。ハンカチを広げてサメザメ泣いた。ときどきは、めいっぱい泣いてみないとね。ご存知、「地上の星」は、NHKの人気番組『プロジェクトX』の主題歌である。この番組は好きだけれども、いつも見ているわけではないよ。見れば感動し、ついでに「司会は、この東大出の綺麗な若いオネエチャンだけでいいのになあ・・・」とか余分なこと思うのが常なのだけれども、しかし、この主題歌の歌詞には泣けてくるのよ。イントロのパーカッションも血が騒ぐ感じで好きだけどさ。で、歌詞カードを見て気がついた。向田邦子のエッセイの真似(『眠る盃』)ではないけれども、なんか私はずっと勘違いして歌詞を覚えていたようだ。

この平成の名曲を知らないのは人生の損失だから、この歌を知らない可哀相な人のために歌詞を書いておくね。「風の中のすばる/砂の中の銀河/みんな何処へ行った見送られることもなく/草原のペガサス/街角のヴィーナス/みんな何処へ行った見守られることもなく/地上にある星を誰も覚えていない/人は空ばかり見てる/つばめよ高い空から教えてよ地上の星を/つばめよ地上の星は今何処にあるのだろう」っていうのが一番の歌詞ね。私は、この「草原のペガサス」を「そのへんのペガサス」だと聞き間違えていたんだよね。なんか、「そのへん」という歌詞には、実に生々しく「そのへん」のありふれた感じがあって、本来ならば天翔ける天馬が「そのへん」にいるはめになっている寂寥と無残さが、まことに胸に迫るなあ・・・と私は感心していたのだ、ずっと。さすが中島みゆき、私と同世代だけのことはある、ガキにはこういう言葉は作れまいと納得していたのだ。そうか、なんだ「草原のペガサス」だったのか。「そのへんのペガサス」の方がいいのに。ねえ。

要するに、この歌は、天上の星=英雄や偉人や名声ある人々ではなくて、地上の星=無名の市井の人々の世に知られることのない輝きを歌ったものなのよ。だから、「風の中のすばる」が、「砂の中の銀河」が、「草原のペガサス」や「街角のヴィーナス」や「崖の上のジュピター」や「水底のシリウス」が歌われている。天上で光っているはずの星が、地上の足かせ手かせの中で、人知れずせいいっぱい光っているわけです。この歌は、「見送られることもなく、見守られることもなく」拍手喝采など受けることなく、黙って努力して死んでいった、忘れられていった人々への讃歌なのですよ。無名戦士に捧げるバラ一輪なのさ。どうだ、いい歌だろ。あの番組の主題歌なんだから、あの番組のコンセプトどおりであるのは当たり前だろうけれども、あの番組に取り上げられる人々は、まだ空に足が少しはひっかかっているのであって、片足は雲につっこんでいるのであって、ほんとに誰も気がつかないような、自分だって自分の光に気づいていなかったような「地上の星」はいっぱいあったし、今もあるんだよね。と、中年ぐらいになると、しみじみ思うものである。たとえ星屑みたいな人間でも星には違いないぞ。私だけは、そういう「そのへんのペガサス」の人生を忘れないで記憶しておこうと思うのだよね。文学って、だいたいが「そのへんのペガサス」の記録だからね。

なんで、こんなこと考えたのかといえば、今ちょうど広瀬隆さんの『赤い楯』全四巻(集英社文庫)を読んでいるからだろうなあ。ご存知、「赤い楯」はロスチャイルド家の紋章でありますね。『赤い楯』は、ドイツのフランクフルトの金貸し業の一族が、200年以上かけて閨閥結婚により世界中にネットワークを張りめぐらし、金融、鉄鋼、鉱山、穀物、兵器、輸送、メディア、行政、司法、各国の王室など、ことごとく傘下におさめて、18世紀以降の世界史を形成(捏造)してきたことを解読する途方もないパズルのような本です。まあ、近現代史の表皮をピ〜〜と剥がす、みたいな本です。まあ、歴代の英国首相や、歴代のフランスやアメリカの大統領は言うまでもなく、チェ・ゲバラとかオードリー・ヘップバーンとかサルトルとか、「ええ?」と思うような人物がそのロスチャイルド血脈ネットワークに入っていて、「ブルータスお前もか」のしらけた気分にさせられるのはページめくるたび、みたいな本です。学校で習う世界史なんて、「お茶の間道徳」向け書き換え、「お子様ランチorミルキーはママの味」みたいなガキ用のしょうもない嘘八百なんだなあと、夢物語であるのだなあと、思わせられる本です。ヨーロッパ人でない日本人だって、このネットワークから無垢ではいられない。幕末から現在にいたるまで日本のエスタブリッシュメントだって、このネットワークから少なからぬおこぼれはいただいてきたらしいのだから。また、書評コーナーに書くけどね、このことは。

この本を、学校の世界史の副読本に使ったら、どうなるんだろうか。子どもは、どう思うのだろうか。「あ、この本の内容が本当ならば、このネットワークに入らないと、この世界では浮上もできず、やらずぶったくりの奴隷の人生しかないのか」と絶望するのだろうか。それとも、「知ってもどうとも変えられないシステムなんだから、適当にやるさ」と諦念するのだろうか。それとも、「これが世界の究極の現実か。どいつもこいつも汚い連中だ。ろくでもない世界だ。もう怖いものなど何もない。ただただ生き抜いてやる。見るべきものをみな見てやる」と不敵にニヒルに決心するのだろうか。「別にロスチャイルドだろうがロックフェラーだろうがマフィアだろうが、こっちの毎日には関係ないし」と社会的に容認された形式での「引きこもり」やるのだろうか。このグループが圧倒的に多いな、多分。

私の若い頃には、こういう本が出版されていなかったから、無知なまま「神話」を信じて、時代は確実に進歩し続けているんだと、自分もそこにいささかでも寄与できるのだと信じ込めたけれども、今の若い人は大変だなあ。無自覚な幻想で自分を守ることができないほど、情報は氾濫している。大きな「神話」は、しっかり破壊させられた。まだまだ神話は多いけれども、「別姓結婚を認めると家族が崩壊する」みたいな、最初からぶっこわれているような神話にもならん迷信しか残されていない。幻想に寄りかかるのでなく、事実を現実を直視し続けるのは、いかほどか大変だろう。世界という巨大な階級社会の末端に、ピラミッドの最下部あたりに自分がいるという醒めた認識から、人生を始めるのはどんなにか孤独で寒いことだろうか。徒手空拳で宇宙に立つのは、アニメならカッコいいけれど、現実には惨めで心細いことだ。「守護霊」は、いつでも側にいるといわれてもねえ・・・

ほら、田舎出身の秀才って元気でしょう。だいたい立志伝中の人って、田舎の指導者層の家庭から生まれるよね。その地域コミュニティでは尊敬されるような家に生まれ育つと、物心つく前から、相対的ながらその世界での自分の布置の大きさというものを肌身に沁み込ませることができる、無意識の自信が形成できるらしい。そのコミュニティ以外の大きな世界を、いつかは知ることになるのだけれども、そのときには、自分の周りにATフィールドみたいな「確信の膜」みたいなものができあがっているから、その大きな世界に飲み込まれずにすむ。だから、身の程知らずに「総理大臣」になろうとか、「会社社長」になろうとか思えるんじゃないの。同じ程度の秀才でも都会に生まれ育つと、ガキの頃から階級社会を肌で知って自分の社会での布置を思い知らされるから、身の程知らずな欲望がもてずに、県庁にでもはいるかとか、教員にでもなろうかとか、一部上場の会社員にでもなろうかとか、手堅く考えてしまうのではないの。「知識は力」とは言えないこともあるよね。

私は名古屋みたいな田舎育ちだから、つまりあんまり階級差が露出されない「どんぐりの背並べ」みたいな町育ちだから、若い頃、東京なんかに遊びに行くと、あの大都会の階級の分断線の露骨さというものには驚かされたものだ。JR線と私鉄沿線だと乗客が明らかに違うしさあ、山手線でも駅によってえらく雰囲気の違いがある。階級ごとの棲み分けがきっちりしている感じがした。また、東京の電車にのっているガキの顔がさあ、塾帰りだか学校帰りだか知らないけれども、えらく大人びて疲れていたりさあ。小綺麗なこじゃれた格好をした家族の全員の顔が、陰鬱だったりしてさあ。大きな声で屈託なくおしゃべりしているようなのはいないしねえ。私なんか、東京に遊びに行って、そこで住んでいる友人に「電車の中で、でかい声で話さないで。恥ずかしい!」と注意されたことがあるな。渋谷の忠犬ハチ公の像の前で待ち合わせしたときは、あまりのすごい人出に「何事か起きたに違いない。デモか祭りか事故か?」と仰天したのだけど、あそこはいつもああいう具合に無駄に人間の数が多いんだってね。ああいうところでは人が多すぎて、人と人を分断する社会的要素が露出しすぎていて、序列の中の自分の位置の低さが簡単にわかるから、人は根拠のない幸福感に単純に浸っていられないよねえ。身の程知らずな大志など持ちようもないし、それを実現するべくエネルギーも出ないよなあ、あれでは。ただただ、その他おおぜいに紛れるしかないわけだから。自分の殻を守るだけで、精一杯になるしかないよなあ。あれでは。ほんとに東京に生まれなくて良かったなあ。何の話だったか。

広瀬隆さんのこの『赤い楯』も、若い読者を「東京で育つ下層階級or下層中産階級の子ども」にしかねないけれども、まあこの種のルポ読むのと同時に、「地上の星」なんかを聴けば、バランスがとれるんじゃないか。ロスチャイルド血族ネットワークの世界操作は事実なんだろう。だけど、「そのへんのペガサス」が世界を支えていることも事実だから。世界を操作していても、管理していても、世界からしぼりとっていても、搾取しまくってはいても、世界を支えているとは言えないよ。こいつらは、世界から支えられているのであって、世界を支えているのではない。巨大なる寄生虫軍団だ。勝手にやってろ。それとも、この人々は自分たちこそ世界を支えているアトラスだと確信犯的にやっているのかもなあ。ならば、やはり世界は、神々の闘争=地上の星の闘争か。

『赤い楯』が書いているように、ロスチャイルド血族ネットワークが南アフリカから採掘されるダイヤモンドや金を支配するために、金輪際、絶対に黒人の人権など認める気がないことも事実だろうし、ロシア・マフィアとの結託によるユーラシア大陸の貴金属鉱山金融支配維持のためにはロシア再建などやる気もないことは確かで、ロシアの国民の暮らしがソ連時代より楽になることはいっさいないだろうことも確かなのだろう。国連は「世界連邦の雛形」どころか「今のところはまだ必要な偽善」どころか、「第三世界へのリップ・サーヴィス」どころか、「利権の巣窟」でしかないことも事実なんだろう。それはわかっていても、だいたいの人間は、「地上の星」やってしまうと思うよ。誰が認めなくても、自分が密かに納得したくて、自分に恥じるのはいやで、自分の人生の意味を自分だけで噛み締めたくて、「そのへんのペガサス」やってしまうだろう。それが、この世界の救いだよね。そんな心理的ごまかししているから、だから、革命が遠のく?革命だって、ロスチャイルド血族ネットワークの操作でしょ。日本の明治維新がそうだったように。ロシア革命だって怪しいぞ。

私だって、ここだけの話だけれども、自分のことを「街角のヴィーナス」とまでは思わないけれども、「路傍のオリオン」ぐらいには、思っているものなあ。とうてい、人には言えないけれどさあ。見かけは「眼鏡かけたヒパパトマス」でもさあ。