アキラのランド節

こういうコラム書きました(コラム1〜5) [04/29/2003]


連休である。連休ではあるが、私に休みはないのであります。無茶苦茶忙しいです。一週間が終わると、「あ〜〜今週も何とか切り抜けた・・・」と思う日々です。おかげでストレスから、ケーブルTVのショップ・チャンネルなんぞで衝動買いすることが多い。しょうもないコスチューム・ジュエリー(銀や10Kや14Kや半貴石など使った安いジュエリーのこと)を買いこんでしまうのだ。私は、光り物が大好きなのだ。本当は、10本の指に全部リングをはめたいし、ブレスレットなどいくつでもジャラジャラつけたい人間なのだ、私は。普段は、地味なセンセイですが・・・

今回はHP更新無しの怠慢を、ほんの少しだけ誤魔化すために、『Recoreco』というメタローグ社から出ているブックガイド誌とか同種のブックガイド誌に書いたコラムの下書きを転載します。これは、毎号7冊からときに16冊ぐらいの本の短評の前に書いたエッセイです。万が一、どんな本を書評したかご興味のあおりになる方は、実物のブックガイド誌にあたってください。



コラム1(『Recoreco』2号/2002.8発表)

 人間の本能にはエロス(生への欲望)とタナトス(死への欲望)があって、この二つの欲望が人間の中で葛藤している、と言ったのはフロイトだった。だけど、大方の日本人の場合は、この二つは葛藤していない。生きていながら死んでいる、死んでいながら生きている、というのが大方の日本人の生存様式である。いっさい変化なんか直視しない、自分を変えるのは億劫、生きることにまつわる緊張も高揚も努力も面倒くさい、死んでいるみたいに平穏・のん気・思考停止でいたい、でも、飲んで食って仲良く楽しく長々と幽霊みたいにこの世を漂っていたい、というのが本音なのではないか?つまり、「ゾンビー」でいたいわけ。もしくは生まれた後も胎児のままとか。貧乏人が貴族のまねして、どうする?そうしていたい気持ちはわかるけどさ。だいたい「ゾンビー」の食い扶持は誰が稼ぐのか?「ゾンビー」は所詮「ゾンビー」だから、生きている人間が生きるために努力して生産する糧を生産できない。生きて努力している人間に寄生するしかない。ならばこの世の隅っこで遠慮がちに棲息していればいいものを、勘違いしてしゃしゃり出てくる。愚痴も多い。で、責任は取らない。取れないよな。「ゾンビー」だもん。もう21世紀の日本は、こういう「ゾンビー」を寄生させておく余裕はない。寄生させてくれないからって世界や国や他人を恨まないように。あなた、くれぐれも「ゾンビー」の寄生を「愛」と勘違いしないように。



コラム2 (『Recoreco』3号/2002.10発表)

もう題名も著者も忘れてしまったが、ある本に、戦場で強い(=忍耐力があって冷静で現実逃避せず精神に異常をきたさない)兵士は、職業軍人や暴力団系の方々ではなく、普通の会社員や普通の農民だったと書かれてあった。その中でも読書好きな内向的なタイプのほう方が、強かったそうである。当然といえば当然かもしれない。日常の普通の毎日を確実に着実に粘り強く積み上げる人間は、戦場でもそうだろう。戦場も日常だから。内向的で読書好きな人間は、戦場における経験を自分の中で整理する現実把握力=経験の言語化ができる。読書好きは孤独にも強いから、過剰に他人に期待しないので、他人を害することなく集団生活にも適応するのかもしれない。

これは、東京裁判で戦犯として囚獄されていた笹川良一の『巣鴨日記』(中央公論社)の観察とも、ある程度合致する。笹川は、戦犯でも職業軍人や官僚などは、特に職業軍人は心身ともに鍛えてあるから、獄中生活によく耐えるのではないかと想像していたが、実は企業家、財界人が一番強かったのに驚いた。その理由として、笹川は次のように考えた。企業家、財界人は、職業軍人や官僚に比較してどんなに軟弱に見えようと、自分自身の才覚で世の中を渡らねばならないし、孤独に決断しなければならないし、自己の責任で結果を引き受けねばならない。しかし、職業軍人や官僚は、内面の奥深くまで組織に依存しているから、個人になると、からきし駄目になるのだろうと。この話に納得する人は、この七冊にも納得するにちがいない!



コラム3(『ことし読む本いち押しガイド2003』2002.12)

一九八〇年あたりから最近までの日本は、一種の「天国」だった?私は一九五三年生まれであるが、第三次世界大戦勃発への不安はガキの頃からあった。学生時代は、今度は女も徴兵されるかもしれない、今度はこいつらだけでは無理だろうと、男子学生たちを眺めながら恐れおののいていた。しかし、その不安も恐怖も、いつしか忘れていったのが一九八〇年代だった。そのあたりから、「ふつうに働いて、ふつうに暮らしていけば、ふつうに幸福に暮らせて、引退したらふつうに年金が下りて、ふつうに長生きして、ついでに呆けない前に適当に病気になって、でも苦しまずに死ねればいうことなし」と、ふつうの人々が漠然と考えながら、夜はふつうに夕刊読んで、その記事を鵜呑みにした後はテレビを見て寝るなどという「天国」が実現されていたのが、ここ二十年だったのではないか。

歴史の中で反復されてきた混乱と悲惨さと、日本列島の外に展開していた状況を考えれば、そんな「ふつうの生き方」とは、実に「この世離れした天国チック」なものである。その「ふつうさ」とは、怠惰と思考停止と無気力と無知と無自覚な依存と視野狭窄の合体でしかない。そういう「ふつうさ」で生きていけるほど、世界はまだ天国ではない。また、そういう「ふつうさ」を生きている人間がめざしたならば、人として劣化するという点に、人間という存在のややこしいところがある。マーク・トゥエインの傑作『ハックルベリー・フィンの冒険』の主人公は、天国がどういう場所か教えられて、「そんな退屈なところには、おいら絶対に行かないぞ」と言い放つ。以下の十六冊を、この少年のことばに共感する「おばさん」と「おじさん」に勝手に捧げます。私たち大人がきちんと人間やらないと、「公務員やりながらのんびり暮らして趣味を楽しむ」のが人生だと、ガキが考え違いをする。現代の日本人の劣化を他人のせいにしてはいけない。責任は、私たち大人にある。



コラム4(『Recoreco』4号/2003.1発表)

私は「三B」である。馬鹿・ブス・貧乏である。だから若い頃から素直に「三B」でなくなる日を夢見てきた。そこから抜け出す方法を書いた本を求めてきた。今でも「三B」でなくなるために私は読む。「三B」にとっては、知識とは、武器であり身を守る楯であり貧弱な自分自身を育む滋養でなければならない。実践的であり、かつ生きることに栄養を注ぎ込んでくれるような、心に力を与えてくれるものでもなければならない。だから、「ハウ・ツー物」的な気軽さと構えを持ちつつ、情報以上の知恵を提供してくれる本が必要なのだ。以下の七冊は、そういう本です。

ところで、私は、田舎のプロテスタント系女子大の短期大学部というところに八年在職していたことがある。そこの人々の生き方は「三B」の私を驚愕させたものだ。彼らや彼女たちは、どう見ても「三B」だったのであるが、自分のことを優秀で裕福で容姿にも恵まれた「三Y」と信じていたらしい。だから、雇用されたとたん、読書の習慣も消えうせ、虚栄で購入する書籍代は研究費で落とし、向上心など微塵もない生活のために弛緩しきった顔面を上品で教養あふれるものと自己規定して疑わず、気取った口ぶりで世間話を延々と職場で繰り広げていた。貴族とは、ああいう人々なのかもしれない。彼らと彼女らの「三Y」生活は、三十代や四十代にして優雅なる老後だった。私は、死ぬまで「三B」かもしれない。「三B」でなくなる日をめざす永遠の「三B」かもしれない。それは、あの不快な職場での八年間の後遺症なのかもしれない。



コラム5(『Recoreco』5号/2003.3発表)

新世紀になってもエヴァンゲリオンも現れないし、ハンサムなロボットが家事をしてくれることもないし、窓の外を見ても自動車が地上一メートルあたりを浮かんで走っているのが見えるわけでもない。簡単にインフルエンザが治るなんてことも全くない。風邪薬のかわりに生姜をすり下ろして蜂蜜まぜて熱湯で溶かして飲み、人物の判断は、データ分析ではなくて顔で決めるという二十世紀どころか十九世紀的な毎日を送っている私であるが、以下の七冊を読んで「ああ、やっぱり二一世紀だなあ」と、あらためて感じた。

日本人にとって二一世紀に確実なのは、少子化と高齢化だ。やたら子どもを産むほど、コストとリスクを考えずに「無私な愛」に走るほど、日本の女はもう情報不足でもないし自虐趣味もない。問題は、少子化と高齢化のために生じる労働力不足を移民受け入れで補う状況のときに生じる。移民差別の是正?何を偽善的なサヨクの馬鹿優等生みたいなこと言っているのか。移民受け入れとは、私たち在日日本人が、既得権益を持った主流日本人=ニッポンWASPになるってことだ。不平不満の被害者意識いっぱいの移民に、良き日本市民になりたいな〜と、欲望させないといけないってことだ。「責任と自覚をもって狡猾に社会を運営するが、外見はあくまでも謙虚でリベラルな大人」として、主流日本人は演技し行動しないといけない。二一世紀は、日本人の成人式をするのです。