アキラのランド節

キャラクターは主張する(その3) [08/23/2004]


フランスに長年住んでいて、そこで結婚して、御子息もふたり立派に育て上げて、博学で英語とフランス語が堪能で、向こうの雑誌に日本の紹介記事を書いたりしている年上の友人というか畏友というか、私が尊敬する女性がいる。その友人が、フランス語圏で40万部くらい売れているフランスのオバサマ向けゴシップ雑誌POINT DE VUEの2004年8月11日号の抜粋をコピーして送ってくれた。送ってもらっても、フランス語なんか読めないのであるが、私は。

なんで送ってくれたかというと、「皇室の悲劇---犠牲にされた王女、MASAKO」とかいう題で、日本の皇室のことを特集していたからだ。写真いっぱいの8ページに渡る記事。要するに、ニッポンの皇室のプリンスの妻なんて、一種のヴァーチャル奴隷だから、もう離婚した方がいいだろう、という内容らしい。この結論については、余計なお世話だ・・・が、まあ、ごもっともと思うが、記事はそれだけでは終わらない。たとえば、モナコのステファニー王女(グレース・ケリーの娘だから超美人)は、自分のボディ・ガードと結婚して、離婚して、次にサーカスの曲芸師と結婚したぐらい好き放題なことやっているが、なんで日本の皇室はこうガチガチなのかという歴史的経緯まで書いてあるらしい。

友人に言わせると、こういうしょうもないフランス版『女性自身』みたいな王室スキャンダル記事ばかり載せている通俗雑誌でも、ちゃんと記者は勉強していて、そこが日本のプレスとは違うんだそうである。この日本の皇室に関する記事の下敷きは、アジアものでは結構知られるSterling SeagraveとPeggy Seagrave夫妻が書いたThe Yamato Dynasty:The Secret History of Japan’s Imperial Family(Broadway Books,1999)であって、だから日本人が読んでも、「いい加減なこと書いて!」と怒りたくなるようなことはないのだそうである。

私もこのThe Yamato Dynastyという本は持っていて、拾い読みはしたことがある。日本人が読めば、別にどうということはない内容である。でもないか・・・学校で習う日本史をもろ信じている人間にはショッキングかもしれない。天皇には権威はあっても権力はないとか、幕末の高明天皇が薩長土肥の一派から暗殺されたらしいとか、そういうことは、はっきり書かれている。日本の天皇は、日本教という日本最古の大宗教団体の世襲の教祖であって、世界事情によって近代化を達成することを強いられてはきたけれども、ほんとは前近代の中に閉じこもっていたい日本人の心理の内奥にある最後のヴァーチャル砦、とまでは書かれていない。この本は、翻訳されるのかなあ?まあ、21世紀的文脈からすれば、どっちでもいいようなことだから、翻訳される必要もないか。

また、関係ないことを書いてしまった。今回も、『水源』のキャラクターの口調の訳のお話であります。

5番目は、ゲイル・ワイナンドの口調について。この小説は、四部構成になっていて、最初がピーター・キーティングで、次がエルスワース・トゥーイーというように進んでいく。主人公ロークに敵対する人間のスケールの大小に比例して進行して行くみたいだから、第三部のワイナンドは、ロークの最高最強最悪の敵になるんだろうなあ、と読者は予測する。もう、その敵としての強度は、とんでもないんだろうなあ・・・・と、初めてこの小説を読んだときの私は、ハラハラうんざりしたものだ。もう、これ以上ロークを苛めないで〜かわいそう〜やめて〜〜という感情である。

ゲイル・ワイナンドは、スラムの極貧の不良少年からたたきあげて、若干36歳のときはすでに全米にワイナンド系列新聞社ネットワーを築き上げていて、今では上院議員も好きに操作できる50代のメディア王である。実は遠い先祖は貴族だったので、出身には似つかわしくない貴族的風貌の美丈夫(びじょうふ)というゴージャス極まりない設定だ。ロークの師匠のヘンリー・キャメロンはワイナンド的なるものこそ、ロークが生涯戦わなければならないものの象徴と言っていた。卑劣で邪悪で矮小で虚偽と偽善に満ちているからこそ、栄耀栄華を極めるものが、ワイナンド系列新聞であり、キャメロンを迫害した世間の代表だからだ。

だから、今度は、さしものロークでも、このゴージャスなメディア王にはコテンパンにされるのかなあ・・・と思いきや、ロークとワイナンドは親友となる。ロークが、「あなたとの出会いは、僕の人生で二度とは得られないような出会いでした」とワイナンドに熱く静かに告白するような、そういう中になる。誰にも気を許したことがない孤独な、人間に期待など全く持っていないワイナンドにとって、誰にも負けることがなかった無敵のワイナンドにとって、ロークは最初で最後の真の友であり、結局は、心ならずもワイナンド自身を滅ぼすことになってしまう「敵」となってしまう。フェム・ファタール=「宿命の女」という言葉があるが、ロークは、ワイナンドにとって、「宿命の男」になってしまう。こういう展開は、うまいよね。こういうの好き!

『水源』はね、若い頭でっかちの高踏的ブンガク愛好読者には、単なる通俗大衆小説で、類型的キャラクターばっかりと出ると思われるかもしれない。しかしね、はっきり言っておきますが、あなた、40歳や50歳過ぎに読むと、この小説の人間というものに対する洞察力というものに、あらためて驚かされますよ。この小説の人物造形が、あまりに単純でリアルじゃないと思う読者は、あと10年以上、世間の現場で嫌な思いをしないと駄目。人間関係の苦労をしなされ。そうすれば、ああ、キーティングやトゥーイーみたいな人間って、男女問わずけっこう多いものだなあとわかるよ。キーティングのような、こんな他愛ない人間がいるのか?と思うかもしれないが、ああいう他愛ない奴は多いんだよ。あれぐらい見え透いた小利口で小狡い奴は、結構いるんだよ。また、トゥーイーみたいに、頭の使い方を根本的に間違えている、口だけ異様に達者で絶対に責任はとらない保身には途方もなく長けた不快な秀才が、だからこそ、出世して決定権を持つ立場になるということも、身に沁みてわかってくるんだって。今の日本の官界も政界も財界もメディアも学界も、トゥーイーばかりではないの?また、そういう連中を褒め称え、そういう連中に騙されている馬鹿も多いでしょう?まあ、いずれ、あなたにもわかるよ。

アイン・ランドは、30代でこの小説を書いた。この小説が出版されたのは、彼女が38歳の時だから、書き始めたのは30歳になったばかりの頃。その若さで、あれだけの人間観察力があったというのは、革命期のロシアで、さぞかし嫌な思いをして辛酸をなめて、人間の表と裏を目撃するはめになったからだろう。また、ハリウッドの映画制作の現場で下働きをしていた時の観察と体験も助けとなったのだろう。金も後ろ盾も何もない移民の女の子というポジションからは、いろんなものが見えたのだろう。モデルになるような人間に遭遇する機会には、事欠かなかったのだろう。

しかし、そのランドでさえ、このゲイル・ワイナンドというゴージャスな一級の男性の造形に関しては、ロマンチックが度を超した感じだ。30代そこそこで、50代の男の内面を想像するのも難しいし、また階級的にも無理がある。小説家というのは、中流階級しか描けない。ほんとうの下層階級の人間は、作家になるような教育は受けない。ほんとうの上流階級の人間は、作家になる必要がない。だから、小説家は中流階級からしか生まれない。よって、小説家は、ほんとうの下層階級とほんとうの上流階級は描けない。よって、小説というものは、ほんとうの下層階級とほんとうの上流階級については語れない。つまり、ランドがいくら想像しても、超金持ちのメディア王のことは描けない。金持ちの現実は、小説家にはわからないから、リアルに描きようがない。

だから、極貧の少年時代のワイナンドは活き活きとリアルだけれども、メディア王になってからの彼の造形は、いくら新聞王ハースト(オーソン・ウエルズが演じた『市民ケーン』のモデルになった)を参考にしても、ユダヤ系の新興財閥(『ワシントン・ポスト』を買収した人とか。名前忘れた)を参考にしても、どこか現実離れしている。ウイリアム・フォークナーの書いた『アブサロム、アブサロム』のたたきあげの南部貴族トマス・サトペンみたいに、光と影のコントラストの強い、常軌を逸して男らしくカッコよいキャラになってしまう。劇画的と言うか、神話的になってしまう。ほとんど、『風とともに去りぬ』のクラーク・ゲーブルと、スパイのリハルト・ゾルゲをたして割って、もっとハンサムにしたような男ぶりになってしまう。

このあたり、同じカッコよいといっても、ロークの場合は、一応リアルなんよ。ロークは名前とか髪の色からして、アイルランド系(ランドの夫と同じ)ということがわかる。オハイオ出身という設定からして、ドイツ系も混じっているかもしれない。つまり、この小説は、アメリカ本流白人WASPから成るエスタブリッシュメントの世界に挑んだ、傍流貧乏白人の成功物語でもあるから、アメリカン・ドリームの実現の過程としてのリアリティはある。貧乏に耐え、そこから才覚と勤勉だけで這い上げる過程は、描きやすいよね。

であるからして、私はワイナンドの口調だけは、誰の口調もぱくれなかった。私の実人生で、こんなゴージャスな人には会ったことがないし、会う予定も金輪際ない。会いたいとも思わないよ。何を話すんだ?彼の口調に関しては、小説からぱくることも、できなかった。その理由は、さっき書いたとおりです。小説においては、上流階級の人間の真の内面とは、人跡未踏の地なのであります。永遠に書かれることのないテーマよ。だから、もう適当。

お気づきになった読者の方もおられると思いますが、ワイナンドはいつも自分のことを「私」と呼ぶが、独白のときと、アルヴァ・スカーレットという古くからの部下の前と、ロークの前でだけは、「俺」と呼ぶ。ほんとうに、彼がむきだしに彼自身になったときは、彼が傷ついたときは、つまりドミニクとの別れの瞬間には、自分のことを「俺」と呼ぶ。もちろん、英語の原文では、みな”I”であるが、訳するときは、これぐらいの一人称の変化は、ワイナンドのような経歴の無頼で強靭で、だからこそ内奥に繊細なもろいものがある中年男の造形としては、必要ではないかと思った。

私は・・・実は、ゲイル・ワイナンドのこと、ロークよりも好きかもしれない。ははは。彼が敗北して、深夜から未明のマンハッタンを彷徨するシーンは、はっきり言って、かなり心込めて訳しました。もう感情移入しまくって、涙ぐみながら訳しました。自分が生涯で初めて心から信頼し愛した人間を裏切ってしまった痛みから、彼が立ち直ることはないから、その彷徨は心に沁みる。中年にならないと、わからないよな、この気持。自分で自分を絶対に許せない行為をしてしまったことから、自尊心のある人間ならば立ち直れるはずがないのだ。死んでも、立ち直れないのだ。

私は、アメリカでこの小説の原作をざっと読んだあとに、この小説の映画化作品〔1949年製作、邦題『摩天楼』〕のビデオを見た。ただでさえ、失敗作のくせに、かてて加えてゲイル・ワイナンド演じる俳優〔レイモンド・マッソーとかいう渋い人〕が、あんまりゴージャスではなかったので、ついでにワイナンドが自殺するという設定になっていたので、頭にきた。原作と違うじゃないか!彼みたいな強い男が自殺するか!馬鹿!と怒ったわけです。あの映画のシナリオを書いたのは原作者のランドらしいが、嘘だろう!?と怒ったわけです。

しかし、翻訳しているとき、特に、ワイナンドが建築中のコネティカットの自邸から自動車を駆ってマンハッタンに帰るときの場面とか、マンハッタン彷徨の部分を訳しているとき、彼がロークにワイナンド・ビルの設計を託したあとに、自殺したとしても、おかしくはないな、と感じた。ランドは、小説に書いてはいないけれども、ワイナンドの死は、小説の数箇所で暗示されている。訳してみて、初めてわかった。

小説を読むとき、人によっては、自分と同性でない登場人物には絶対に感情移入できないということがあるだろうけれども、私は、実は、ゲイル・ワイナンドに一番感情移入した。年齢が近いということもあるが、この小説の中で、悲劇の高みにたっているのは、ゲイル・ワイナンドだけだから。メロドラマしてないのは、彼だけだから。悲劇とメロドラマの違いですか?メロドラマは、ただただ災難に襲われ滅びるか、勧善懲悪で勝つか負けるかの世界です。ハリウッド映画の世界です。悲劇とは、どちらを選んでも幸福ではない過酷な分岐路に立ち、どちらかを選び決断し、その結果を引き受けることです。これは、真の英雄だけが実践できる孤独な行為です。ギリシア悲劇の世界です。

<人は死んでから地獄の王みたいな、神みたいな存在の前に立たされるらしいが、俺ははっきりと誇りを持って言える。誰のせいにもせずに誰にも従わずに、俺は俺の人生を俺自身で決断し選択してきた。そのことに後悔はしていない。それだけは誇りを持って言える>と、ワイナンドは思う。そう思っていたワイナンドが、自分で作り上げてきた新聞社をつぶすことを選べなかったとき=過去に引きずられ未来を信じることができなかったとき、自分が心から愛したロークを自分が裏切ったとき、彼の自尊心のギリギリの拠り所が消える。彼にとって、どんな苦しみでも、心の奥のある点までしか届かないし、心の核まで侵食することはなかったのに、自分が心から愛したドミニクとの離婚を決断したとき、彼の精神は崩壊し始める。その激痛を彼はまるごと静かに黙って受け止めてしまう。そこが悲劇なわけです。

トルーマン・カポーティが18歳で書いた傑作短編小説「ミリアム」を読んだとき、18歳の男の子が、なんでこんなに孤独な老女の心理がわかるのか?!と驚いたことがある。優れた作家というのは、自分の中の性と同じく、年齢という内的時間も超える。と、当たり前のことをナイーヴに思う夏の終わりであります。空虚な夏であった・・・

ところで、今回のオリンピックで、アメリカが振るわないのは、世界中にある反アメリカの風潮に油をそそがないために、国策としてわざと負けているんだって、ほんとなの?オリンピックくらいは、弱い国に花を持たせておけってことらしいというのは、ほんとなの?結構、日本の若い選手が頑張ってメダル取っているので、日本の若い世代は、前の世代とは変わりつつあるのかもしれない・・・日本人にも、やっと『水源』受容の精神的土壌ができつつあるのかもしれないと、勝手に期待していたのに・・・