アキラのランド節

キャラクターは主張する(その5) [09/19/2004]


主役ではなくて脇役に目が行ってしまうというのは、よくあることだ。大昔、アイドル歌手が歌っている後ろで、スターの引き立て役として懸命に踊っている「スクール・メイツ」という一団がいたが、私はその一団に哀愁と真の青春を感じてしまって、この一団ばかり目で追っていたものだ。私も応募してみようか・・・という思いが、ほんの一瞬チラリとではあるが頭をよぎったこともある。初めての告白。

アメリカ映画の中で私が偏愛する映画は『ターミネーター』(The Terminator,1984)とか『ブレードランナー』(Blade Runner,1982)だが、最高傑作だと私の脳が思うのは、『スミス都に行く』(Mr.Smith Goes to Washington,1939)だ。この映画は政治映画の傑作でもある。アメリカの原点にもどれと唱える、その理想主義には、いつ見ても感動し泣かされる。私は、『水源』に、この映画の影〔光か〕を感じる。アイン・ランドは、絶対にこの映画を見て影響を受けたに違いない!と、勝手に思っている。

この映画の主役は、もちろんジェイムズ・スチュワートであり、ジーン・アーサー(また素敵なのです、この女優さんが。ランドと同い年)であるが、しかしこの映画を見るたびに、私が「カッコいいなあ!」と惚れ惚れするのは、あの上院議会の議長を演じたハリー・ケアリー(Harry Carely)である。いっぺん見てよ。もう、ほんとうに偉丈夫(いじょうふ!)で男らしくて知的で温かくて迫力のある大きい大きい面構えである。白人にしては、ほんとに顔が大きい(私は小顔ブームは亡国だと思う。人相学的には小顔は駄目なのです)。上院議長ではなくて大統領でもいいのではないかと、思わせる風格である。この男優さんは、台詞もあんまりなかったのに、あの映画の演技でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。

今日は、「キャラクターは主張する」シリーズ(偉そうに・・・)の最後です。『水源』における、私が愛してやまない名脇役たちについて書きます。

まず最初は、ロークの師匠のヘンリー・キャメロンについて。『水源』はアメリカの小説なのに、登場人物の台詞を訳すときに、私がイメージするキャラクターの顔は、東アジア系の顔であります。しょうがない。私は骨の髄まで脳の奥まで東アジア人なんよ。東アジア人の顔が美しいと感じるのよ!で、モダニズム建築の先駆者であり、ロークにとって唯一の師であり、建築への情熱と見識とヴィジョンを死の床においても弟子のロークに語り続ける不遇ではあったが倣岸不屈の男ヘンリー・キャメロンは、私の頭の中では、あくまでも「老いた三船敏郎」の顔と声と柄なのだ。

三船敏郎の顔と声と柄というのは、日本映画界の奇跡である。いや、日本の男の奇跡かな。乱暴に言えば、日本の男の顔は、馬か牛か犬か猿かネズミかタヌキか狐であるが、稀有なことに三船敏郎の顔はライオンである。だから、黒澤明監督と決別した後のしょうもないテレビ時代劇や、しょうもない三流どころの合作映画や外国映画に出ていたときの三船敏郎は、あのライオン顔が十分に生かされてなくて、残念だった。やっぱり、ああいう特別製の顔と柄は、すごい才能の持ち主の監督でないと使い切れない。俳優さんというのは可哀想だ。いくら才能があっても、優れた監督や演出家にうまく使ってもらわないと、力の発揮しようがない。建築家もそうだ。顧客の注文がないと建てることができない。

晩年は俳優としては不遇で不器用だったライオン三船敏郎と、顧客に恵まれずに逝く天才的前衛建築家ヘンリー・キャメロンのキャラが、私の中では重なってしまったのでありますよ。設計事務所でロークを怒鳴りつけるキャメロンも、俺のような人生を送るなとロークを諭すキャメロンも、泥酔してロークに介抱されるキャメロンも、ロークの足元に倒れるキャメロンも、杖をついてロークを出迎える病身のキャメロンも、死の床にいるキャメロンも、その姿は、『天国と地獄』のあの社長をもっと老けさせたような感じである。自分の息子のかわりに運転手の息子が誘拐されたと知っても知らん顔など絶対にできず、犯人に渡すべく身代金を入れた鞄の底に発信機を仕込む作業を背中丸めて黙々とする、かつての貧しい革職人の経歴を恥じない、あの男らしい社長だ。あの場面の三船敏郎は、ほんとうによかった。いつのまにか、日本映画から、粗ではあっても下司では断じて決してない実直剛毅な男たちが消えてしまったので、私は悲しい。男のくせに、ヘラヘラたれ目で愛想笑いするな!気持ち悪い。あ、誰のこと言っているんだろう?ははは。

さてさて、『水源』第一部のキャメロンが死んでいくところを訳していたのは、忘れもしない2001年の大晦日の夜であった。大晦日の夜に私は「おでん」を大量に作って煮込むのが常であるが(数日は食べられる。おせち料理がわりである)、感動しながらヒイヒイ泣きながらキーボードを打ちつつ、なんて素晴らしい大晦日なんだろう、なんて私は幸福なんだろうと思いつつ、鼻をすすりながら、台所に立っては、グツグツ煮えるおでんに汁を足したり、火加減を弱くしたり、こっそりチクワとか里芋とか食っていた。

キャメロンは、ロークにとって、大義を共有する精神的父である。キャメロンが死ぬ数日前からキャメロンの家に泊まりこんだロークとキャメロンとキャメロンの妹が共有する静かな時間を、小説は、「それこそキャメロンがついぞ人生で経験したことがないものだった。家族というものだった」と説明している。ここのあたりの場面は、ほんとうに好きだな。「恐れるな・・・それは戦うだけの価値はあった」と自らの人生を総括した言葉を精神的息子に残して逝く人生に栄光あり。梵天丸もかくありたい〔古いな〕。いや、私も、そう言って死にたい。森鴎外は、「なんだ、これきしのことか」と言って亡くなったそうですが。ゲーテは、「もっと光を!」って言ったとか。

『水源』を読んだ方は、とっくに気がついていらっしゃるでしょうが、この小説の中で、血縁の親子関係とか親族関係いうものは、否定的なものとして提示されている。というより、生物学的家族というものは、登場人物たちの過去の説明として言及されるだけであり、それ以外の小説内進行時間の中では、彼らと彼女は独身である。ワイナンドとドミニクの結婚生活だって、独身者が共同生活しているようなものだ。例外は、母親と暮らすピーター・キーティングと、叔父と暮らすキャサリン・ハルスィーだけだが、このふたりとも「家族」から、ろくでもない目にあっている。作家にはよくあることだろうが、アイン・ランドの中には「生物学的家族」への嫌悪・不信と、「精神的家族」への憧憬が強くある。

血縁の家族というのは自分で選べるわけではないし、たまたま家族として出会うことになった人間たちに違和感があるということは、ままあることだし、少なくとも自立して自分で食ってゆけるようになるまでは否が応でも付き合っていかなければならないストレスの多い人間関係だ。しかし、人間というものは、「今、ここ」よりも「今ここではない不在のもの」を想像して、「今、ここ」の不備に耐えるということに陥りやすい。つまり、生物学的家族という現実は、重くて厄介なものになりやすい。私自身も、生まれ育った家庭から離れてからのほうが、うんとストレスのない自由で幸福な日々を過ごすことができるようになったので、親御さんとずっと同居できる人々は、よほど相性のいい人間を親兄弟に持てた幸運な人たちなのだろうと思う。もしくは、よほど物にこだわらない図太い人たちなのだろうと思う。もしくは、『水源』の中から言葉を借りれば、「人間が人間から解放される」ことはない社会=個人が家族から離れるとサヴァイバルできないシステムを持つ後進的前近代的社会にがんじがらめになっている人々だと思う。

幸福な家族とは、生物学的家族でありながら、それを超えて、精神の共同体としての絆を持つことができた家族なのではないか。だから、『若草物語』は、読まれ続けてきたのだろう。血縁はなくとも、そういう絆を他人と持てた人間は、家族を持ったことになる。『水源』も、志を同じくした人々が、彼らや彼女だけの心の中に存在できる精神的家族を獲得する物語なのだ。

この観点から見れば、さしずめ若き彫刻家のスティーヴン・マロリーは、ロークの精神的弟になる。ロークと共通する資質を多く持ちながらも、はるかに傷つきやすくて細やかな愛情の持ち主だ。彼は、いわばスピルバーグの映画『A.I.』に出てくる「見守り熊ちゃん」Watching Bearです。所有主の女性にそうプログラムされてしまったがゆえに、その女性を母として求めひたすら愛することしかできない主人公の少年サイボーグをずっと見守っている、永遠に見守っている縫いぐるみの子熊がいたでしょう、あの映画の中に。あの少年サイボーグ(The Sixth Senseの涙ウルウル顔の子役が演じていた)も、実に哀愁に満ちていたけれども、あの熊ちゃんの姿も健気で哀愁があった。非力なペット・ロボットでしかないのだけれど、あの熊ちゃんの一途な誠実さには泣いた。餌もいらないしなあ、ロボットならば。

押井守のアニメではないけれども、無機的な構造の体内空間にゴースト=魂のようなものを抱え込んでるサイボーグって、ひたすらに使命に殉じて愚痴らず自己憐憫もない夾雑物が脳に混じることのない人間の暗喩なんだよね。理想の人間とは、サイボーグなんよ。思想的にはいろいろ文句はあるが、『攻殻機動隊』の続編『イノセンス』もよかったなあ!ほんとにカッコいいよね。草薙素子とバトーの関わりこそ、究極の純愛よ。ついつい、アランフエス協奏曲のジャズ版みたいな、こぶしのきいた謡みたいなあの主題歌の伊藤君子さんのCD買っちゃったなあ。Follow me~♪♪ 何の話か?

ともかく、スティーヴン・マロリーは、あの熊ちゃんである。ロークをじっと見つめ見守り続ける同伴者でもある。ロークの恋人ドミニクよりも、よっぽどマロリーの方がロークの近くにいるくせに、あくまでも慎ましくロークから距離を取っている。このマロリーの語調は「沖田総司」兼「ジェームズ・ディーン」です。あの、このマロリーって永遠の青年って感じがしませんか?年取ったマロリーなんて想像できないと思いませんか?

この青年は、書かれていない&書かれることのないこの小説の続編では太平洋戦争に従軍して死ぬと、私は勝手に決めた。戦死場所は硫黄島です。マロリーは夭逝する。夭逝する天才なのだから、美男子。キッパリ。だから、沖田総司&ジェームズ・ディーン。Invincible Roark、つまり絶対に泣かないロークも、マロリーの戦死の報に生まれて初めて声を出して泣くと、勝手に想像して、私はもらい泣きしてしまった。いかに自分にとってマロリーが大きな存在だったか、そのときロークは初めて気づくのだから。永遠の同伴者=愛すべき哀愁の見守り熊ちゃんが、自分を置いて先に死んでしまったことに気づくのだから。涙。

前の前の前のランド節でも書いたけれども、私が感情移入した『水源』の登場人物は、ゲイル・ワイナンドなのだけれども、実はこのスティーヴン・マロリーにも大いに感情移入した。ロークを愛し共感しつつ、しかしロークのようにはなれず、ロークが傷つくことに傷つき嘆き、しかし、いつもロークに励まされ希望を見出す青年は、読者そのものじゃないか。だから、マロリーの台詞を訳すことは、私にとって一層の快楽だった。

次は、マイク・ドニガンについて。マイクは、ロークが設計する建物の建設工事現場には、必ず自分が雇われるようにセッティングできるだけ顔も広い「現場のプロ」で、技術も確かな職人肌の電気技師だ。あまりに醜いので、異形の美の迫力さえ感じさせるブルドッグみたいな顔の持ち主という設定だ。このマイク・ドニガンもいいですねえ!!マイクは気難しい。ホワイト・カラーの連中など、おしなべて口だけ達者の軟弱な連中で「男」じゃないと軽蔑している。だから、建築家なんてほとんど馬鹿にしてきたのだけれども、一度だけ尊敬できるプロの建築家に会ったことがあると、マイクはロークに語る。その建築家の名は、「ヘンリー・キャメロン」。それを聞いたロークは、マイクとの友情の成立を確信する。マイクとロークが初めて出会う工事現場の場面とか、ここの安酒場のところは、この小説中でも、私が最も好きで訳していて嬉しかった箇所のひとつだ。

マイクの語調は、『兵隊やくざ』の勝新太郎です。知らないよな・・・古い日本映画なんですが、インテリの若い兵隊(田村正和のお兄さんが演じていた。名前忘れた)と極道の兵隊(勝新太郎)の戦場友情物語です。戦場という極限状況において、階級差を超えて二人の男が遭遇し愛しあうという、日本映画の隠れたゲイ・ムービーの秀作であります。と言っているのは、私だけであります。ははは。

『悪名』より『座頭市』より、勝新太郎は『兵隊やくざ』がいいです。あのときの勝新太郎の口調に、わずかに上田吉次郎のそれを混ぜました。そんな人知らないって?知らなくていいよ。別に困らないよ。

『水源』には印象に残る場面はいっぱいあるが、特にいいのが、夜のストッダード殿堂の建設現場で、ロークとドミニクとマロリーとマイクが、マロリーの彫刻制作小屋に集まって、バラバラのカップでコーヒーなど飲みながら、冗談言いながら、笑いあい寛ぐ場面だ。夜も更けてきたころの春の大気の匂い、冬の清冽さをほんのわずかに残す風の匂いまで漂ってくるような場面だ。きっと、ジョージ・ワシントン橋を行く夜汽車の汽笛も、ハドソン河の水面を渡って聞えてきたのではないか。すみません。また、勝手に想像してしまいました。妄想系なので・・・『水源』を読んだ私のゼミ生の中には、この場面が好きと言ってくれる学生が結構いる。私は嬉しい。しごくまっとうな健康な感性である。

次は、ホテル・アクイタニアの設計をロークに任せるべく奮闘した粋な男気のある実業家の、ケント・ランスィングについて。この人物の語調は、ズバリ小林旭さんです。このランスィングの「プレッツェルの心理学」に関する台詞を訳していたら、なんかどう想像しても、この人物が年取ってからの小林旭さんに見えてきたのだから、しかたないです。しかし、なんで私は、三船敏郎や勝新太郎や上田吉次郎は呼び捨てで、旭さんは旭さんなんでしょうか・・・

最後に、ジミー・ゴウエンについて。ジミー・ゴウエンって誰だかわかりますか?第1部の13章で、ダイナーつきガソリン・スタンドの設計を、単刀直入にロークに依頼した男です。このキャラは、ここにしか登場しないのですが、私は彼のことも大好きです。15年間、「ろばのように」自動車整備工場で働きながらこつこつ金をためて、念願のガソリン・スタンドを建てるまでになった男です。「刑務所みたい」と嘲笑された言語道断に斬新なオースティン・ヘラー邸を設計したのはロークだと知って、周囲の人間の反対をのらりくらりかわし無視して、確信を持ってロークに設計を依頼した、作業着のオーバーオール着たひょろりとした若い男です。このゴウエンがロークにおずおずと話しかける場面が、いいんだよね。自分の境遇の中で、自分にできることをたゆまず実行し重ねてきた誠実で勤勉で飾り気のない労働者階級の男の、謙虚ではあるが堅実で静かな自信を滲ませる口調は、哀川翔と香川照之を混ぜて割ったものです。

ふたりとも、かたやテレビ版、かたや映画版でありますが、桐野夏生原作の『アウト』では、小さなサラ金会社の社員を演じてリアルでした。哀川翔は、ガッテン系の情もガッツもある男を演じたら、今の日本で最高です。香川さんは東大出ですが、歌舞伎の名優市川猿之助と女優の浜木綿子さんの息子さんですが、大工さんとか漁師さんとか演じたら、絶対に素晴らしいと思う。風格と品のあるブルーカラーを演じられる稀有な人です。トコトン大根の性格の悪そうなブスのヒロインの父親役で、NHKの朝ドラなんかに出るな。ほんともったいない。

日本もなあ、女かゲイが人事権というか決定権を持てるようにならないと、テレビや映画から、いい男優は消えるばかりよ。フツーの男に選ばせると、日本にろくでもない下品な卑しい安っぽい男優とか男性タレントが氾濫することになる。つまらん男って、いい男に嫉妬するもん。大学院でもつまらん男の教授って、セコイ奴ばかり可愛がる。教授に選ばれて、そこの大学の助手か講師になった男って、必ず不細工で下司で、なぜか教授より背が低い。ほんと。

ところで、『新潮』10月号に掲載された『水源』書評において、書評者の柳下毅一郎さんは、アイン・ランドのことを「大衆が嫌い」と評し、ランドは建築家ロークを描けても、彼が設計した建築物を描写する想像力はなかったと断じておられます。きっと柳下さんは、お忙しかったのでしょう。細部まではお読みになれなかったのでしょう。柳下さん、書評していただき、御礼を申し上げます。ありがとうございました。あの、柳下さん、例えばためしに、第1部の13章の冒頭から数ページあたりを、もう一度読んでいただけませんか?

さて、後期の授業も始まる。私も、そろそろ「やっと『水源』出版された〜嬉しいよお〜♪中毒」から正気にならねばいけません。好きで好きで好きでたまらない小説を翻訳していた2001年の6月から2003年の5月初めまでの約2年間は、もう私の人生では二度と経験することがないであろう高揚でした。ランド節の『キャラクターは主張する』(その1から5)では、あの頃の幸福な作業の記憶を全裸全開開陳させていただきました。まことにお見苦しい点も多々あったかと存じます。みなさま、御静聴ありがとうございました。

そういえば、『冬ソナの謎』っていう本が売ってたよなあ。『水源の謎』ってのも書いてみようかなあ。