アキラのランド節

知的向上心ある心ある中流階級の子弟の「悲劇と希望」 [03/13/2006]


今日こそは短く書く。

昨日から、翻訳もしないで、3月末締め切りの論文の資料も全く読まず、ついつい読み始めてしまったのが、Carroll Quigley(1910-77)のTragedy and Hope(1966)です。本文だけで1113ページ(!)ある。貴重なる残り少ない3月の日々がこの本に占拠されそうだ。

Tragedy and Hopeは、厳密に言えば学術的な本ではないです。書誌も注もついてはいません。しかし、きちんとした歴史学者が自らの視座から書いたきちんとした近現代史です。硬派な文体で、無駄口はたたかず、きわめて明快簡潔で読みやすく、かつ内幕的情報もたっぷりという本が面白くないはずがないです。

アメリカのアマゾンのレヴューから判断すると、この著者は、彼が暴露するところの、世界を操作するエリート集団の末席にいたらしい。ただし、ユダヤ系ではなく、アイルランド系のカトリックです。かといって、そうした「国際銀行家たちを中心とした特権的集団」を非難告発しているのでないようです。つまり、「やっぱり、頭がいい奴が運営していくしかないでしょ〜〜今までみたいにさあ」というのが結論らしいです。だから、この本は、『世界の歴史をカネで動かす男たち』(W・クレオン・スクーセン著, 太田龍訳、成甲書房、2005年)のネタ本になっています。

陰謀論を持ち出すと、頭がおかしいと思われますが、陰謀などというものは、この世界にないと言う人間も頭がおかしいです。あるかもしれないし、ないかもしれない。だけど、shadow cabinetみたいなものは、小さな大学みたいな所にもあるじゃないですか。ならば、国にだって世界にだってあるでしょう。そういう非公式な決定機関について言及したものを、陰謀論だと言って退けるのも、なんか「事実から逃げている」みたいで、幼稚です。

この本は、まず文明というものの栄枯盛衰の共通パターンを示して、大きな視座に西洋文明を置き、その西洋文明における資本主義の発展と、その段階ごとの資本主義の様相を説明し、それが政治、軍事、社会文化面とどう関係してきたかをわかりやすく説明しています。私が、今読んでいるところは、まだfinancial capitalismの段階(1850-1931)で、ここらあたりから、ロスチャイルドとかモルガンとかウォーバーグとかの国際銀行家たちが世界中にネットワークを作り始めるわけですが、ひじょう〜〜に面白いです。今までバランバランに系統も何もなく読んできたものが、頭の中で整理されていく感じがして、わくわくして嬉しい。

このキャロル・キグリー氏は、日本のことを「日本文明は江戸期に最高点に達したが、1853年に西洋から侵略を受けた」と記述しておられます。日本文明は江戸期で終わっていて、明治以降は西洋文明の周辺のひとつとなったというのが、西洋の歴史家の共通認識みたいですね。そうか・・・ペリーが黒船でやって来たときから、世界史においては、日本は西洋の「辺境の植民地」として位置づけられたんだ・・・

さらに、このキャロル・キグリー教授は、「新しい文明は、支配的文明を生み出したコアな地域が支配下におさめた周辺地域から生まれるのが常だったので、今後の新しい文明はアジア発祥かもしれない。日本は、ひょっとしたら、新しい文明の産みの苦しみの中にいるのかもしれない。中国も可能性がある。インドとかインドネシアは無理だろう」とか何とか、書いておられます。

1960年代における予測にしても、日本人にとっては、なにやら心躍る見解でありますね。やっぱり、未来を考えて、若い人は英語と同じく中国語もやるべきだよね。人のことはどうでもいいんであって、まずは私自身が中国語やらないといけないな。アメリカや日本政府や日本のマスコミに踊らされて、中国を忌避するなんてことは、したら損ですわ。

もちろん、今日のランド節は、このキャロル・キグリー教授のTragedy and Hopeの紹介ではありません。まだ全部読んでないんだからさ。この本を読みながら、私はうちの大学の法学部の一年生の男子学生のことを思い出していた。その話を書きます。

この男子学生は、頭のいい子だ。Foreign Affairsの記事をダウンロードして訳して、「訳が正しいか見てくれ」と言いに来た。そのうちに、辞書があれば、ちゃんとおおむね訳すことができるだけの英語力が、だんだんついてきた。大学の授業について、「マスタベーションみたいな授業ばっかりです。センセイがひとりで行ってます」と言っていた。オバサンとはいえ女教師の前で何を言い出すんじゃ、とんでもない奴じゃ、とびっくりはさせられたが、まあ核心をついていないわけでもないのかもしれない。

この男子学生は、単に口だけ達者な奴じゃない。度胸もある。無記名をいいことに、授業評価アンケートの自由記述欄にコソコソと批判にもならん批判を書くようなセコイ学生とは違って、堂々と名前を書いて、私を批判した。「なかなか、まっとうな奴やんけ」と、私は感心した。それ以来、この子に対する私の覚えは、めでたくなった。

この男子学生は、政治に関心が強くて、高校生の頃から、某政治家の事務所に出入りしているくらいだから、友人間でしか通用しないようなタメ口しかきけない多くの同級生とは違って、ちゃんと大人とも話ができる。自宅の近所の神社がヤマトタケルノミコトを祀っているんで、バイクで通学の途中に寄って、日本の行く末が心配だから祈って手をあわせてます、と言っていた。

私が大学一年生の頃なんか、神社で祈ったこともなければ、ましてや日本の未来のことなんか頭をかすめもしなかったぞ。授業とか教師への批判なんか頭によぎることもなかった。だいたい、大学のクラスになんか関心がなかったんで、ただただ90分が早く過ぎればよかった。授業が面白いとも面白くないとも、考えたことがなかった。「わからない」とか「理解できない」というのは、ガキの頃からの私の学校における「常態」だったんで、「あたいは頭悪いから、しかたないよね」と別に不満もなかった。

18歳や19歳の頃の私の状態と比較すれば、この男子学生の資質は、なかなかのものではないかと思う。

しかし、この男子学生は、うちの大学に来てしまったぐらいだから、「受験勉強」みたいなことは苦手だ。受験勉強しないといけないから受験勉強するという従順な子じゃない。勘がいいから、「アホくさ」と、すぐに見抜いてしまう。アホくさいことではあるが、そのアホくさいことをクリアしたかどうかが大きなポイントになるようなことが、現実には極めて多い。アホくさくとも、ちゃんと付き合ってクリアしないと、世間を渡るのに非常に支障がある。だから、たとえアホくさかろうが、ちゃんとクリアしなければならない。体裁とか挨拶とか礼儀とか受験勉強の一面というのは、確かにアホくさい。しかし、それだけじゃない大きな効用や意味がある。しかし、若くて、かつアホらしいことはアホらしいと見えてしまうと、「アホらしい=する必要なし」と短気に決めつけてしまうんだよね。

高校生の頃から、膨大に出版されている政治や経済の内幕本なんか読んでいたら、そりゃ、高校で教える日本史だの世界史だのの上っ面だけの出来事の羅列を素直に暗記する気はうせるだろう。生身の政治家の事務所で裏話みたいなものを聞きかじれば、政経の教科書の記述なんか絵空事でしかないだろう。きれいごとの外国事情だの、おめでたい「異文化コミュニケーション」エピソードなんかが載っている英語のテキストなんか、幼稚で退屈でしかないだろう。

というわけで受験勉強を馬鹿にして、彼はテキトーに、そのへんの大学に入学した。ところが、そこの大学の学部の基礎ゼミで、彼は担当の若い男性講師から、政治外交関係の雑誌ならば、Foreign Affairsっていう雑誌があって、この雑誌の背後にいるのがCFO(Council on Foreign Relations)という「うさんくさい組織」で、この雑誌の論文の英語は外国人でも理解しやすいと教えてもらった。その英文の論文を、どうしても自分で読めるようになりたい、と彼は思った。で、やっと英語を本気で勉強し始めた。

彼は、遅ればせながら、「受験勉強」は、長い人生のスパンから見れば、ちゃんと身につけておくべき基礎学力の徹底定着訓練でもあるのだから、馬鹿にせずにやっておくべきだったと気がついた。自分はなんで法学部を選んだのだろうか?と本気で考えるようにもなった。

彼は本を読むのは好きだ。アルバイトは深夜のコンビニの店員だ。深夜だと客が店にあまり来ないから、読書できるからだ。著書を読んだことがある政治学者の講義を(こっそり)聞きに、京都の大学まで遠征したことが何度かある。副島隆彦氏の『属国・日本論』(五月書房)を読んでからは、副島氏の勤務先の大学にも遠征したがっている。ためしに、私が副島氏の講演のビデオテープを数本貸したら、ちょっとだけだが、「遠征」に躊躇したようである。

この種の男子学生が、1940年代とか50年代の前半に生まれていたら、政治活動に入りこみ、学生運動のデモで街頭を練り歩き、機動隊に投石して御堂筋でも疾走して、新今宮(昔の釜が崎)あたりに逃げ込んだのだろうけれども、1980年代後半に生まれてしまうと、困っちゃうんだよね。

2006年の大学生で読書やネット検索が習慣ならば、左翼にも右翼にも走れない。ソ連はこけたし、中国は路線変更した。左翼ではあかんという強力なる実例が目撃されてしまった。「悠久なる日本!」とかいって右翼で行こうと思っても、日本が大昔は中国の属国で今はアメリカの属国で、日本人の心理的拠り所であるはずの万世一系の天皇家も、なんか幕末のどさくさのときにおかしくされているらしいし、日の丸の旗を振っても、なんか極東の小さな島の土人の独りよがりなんだよな・・・と空しくなる。北欧的国家社会主義の高度福祉国家実現をめざして〜〜と言っても、長々と生きるだけしかないのか人間は・・・今の老人は俺らに寄生すればいいけれども、俺らが年取ったときは誰が寄生させてくれるんじゃ・・・弱者のための社会ってのは、<男>と健康人と大人がしっかりしているからこそ成立、維持できるんであって、みんながみんな「<女>&子ども&老人&病人」でいてもOKよ〜〜の社会ではないだろうが・・・と意気が全く上がらない。

でもって、どうのこうの言っても、この世界の経済も政治も文化も、一般ピープルには見えない特権的集団のネットワークで決定されているらしいと、日本の皇室や首相も、その駒にしかすぎないらしいと、わかってきてしまった。一般ピープルは頭も悪いし、世界への責任感もないし、テレビや映画やゲームで暇つぶしているくらいしかできることはないし、マスコミや政治家にすぐ騙されるし、民主主義なんていうのは形式の建前というよりも、もともと永遠に不可能な未完のプロジェクトらしいと、わかってきてしまった。ついでに自分だって民主主義なんか担えるはずもない「パンピー」でしかないとも、わかってきてしまうと、ほんとに白けるし寂しいよね。

最初から、知的なことなんか何の関心もない、一般ピープルの中でも低俗卑俗ガサツなパンピーなら白けもせずに、キャアキャア遊んで日が暮れて勝手に老いてボケて社会のお荷物になっていくのだけど、知的な一般ピープルの独立心のある若い子にとっては、ほんとに今は「悲劇」です。知的向上心ある心ある中流階級の子弟っていうのが、今は、一番生きにくい。一番寂しい。

この階層の若い子たちは、無気力な「下流社会」へと転落(?)するのはイヤだと素直に正直に健康にもまっとうに思える子たちだ。「自分らしく無理しないで生きるんだ」みたいな、しょうもない言い訳はしたくない子たちなんだ。「趣味を生かして生きる」なんて、「下流社会」の人間の趣味程度では、人生の暇つぶしができるほどのもんじゃないと予感できる子たちだ。そこまで、人生をなめていないし、高をくくっていない子たちなんだ。

いや、ほんと、私は今どきの「知的向上心ある心ある中流階級の子弟」には同情している。私の若い頃は自分の3B(馬鹿、ブス、貧乏)状態から脱出するという個人的闘争以外にも、社会的にも、やはり、こう「来るべき社会」へのヴィジョンみたいなものがあって、そういう方向に進む社会の邪魔する人間ではいたくないというか、「リベラル」な人間でいないといやだ、みたいな気分があった。3Bから抜ける個人的闘争と社会の闘争が交差しているという気分があった。ノンポリのお気楽な女子学生でも、そうだった。こういう気分が多数派だったから、疎外感もあまりなかった。私が若かった時代には、今ほどには、暴露系出版物が出ていなかったから、たっぷりの幻想(=無知蒙昧)の中で漂っていることができたんだよね。

やっぱさあ、ぶっちゃけて言えば、個人の闘争が社会の闘争、それも良い方向に向かっての闘争に参画するものでもあるっていう状態が、やっぱり「希望」なんよ。少なくとも、私にとっては、そういうものが、「希望」なんよ。

アイン・ランドは、人間にとって最高の価値は自分の人生なんだから、自分の幸福を第一に考えること=利己的であることは道徳的なことだと説き、みんながそうであることによって、社会は発展するし、公共の福祉は維持できると論じた(The Virtue of Selfishness)。そうなんだよね、個人の希望が社会の希望、世界の希望でもあること自体が、「希望」だよね。

私は50年以上生きてきたから、結論は早急に出すことない、勉強しなければならないことには限度がない、まだまだわからないことばかりだから、結論は保留して勉強しますという姿勢でいられる。「希望」がないのか、もしくはあるのかも、ほんとはまだわからないけれども、とりあえずは「希望」だと信じてやっていきますという気持ちでいられる。しかし、若い子は、元気のいい資質のいい子ほど、苛々するだろうなあ。元気もないし、資質も凡庸で、センセイの言うとおりにやります〜っていう顔を作ることだけは上手な類の要領のいい小利口な学生ならば、もしくは馬鹿優等生の類ならば、心配はないのだけどね。

先に書いた法学部の男子学生も、これから当分は大変だろう。我慢しなければならないこともすこぶる多いだろう。嫌な卑しい人間にもおびただしく会うだろう。しょうもない退屈な話も黙って聞くふりをしなければならない事も数知れないだろう。自分のことを理解してくれる恋人や友人を求めても、なかなか出会えないかもしれない。孤独な思いも随分とするかもしれない。でも、何とか粘ってもらいたい。32歳過ぎたあたりから、少しラクになるからね、ほんとだからね。それまで我慢ね!心配だったから研究室のパソコンでインターネットの四柱推命で占ってあげた。手相も見てあげた。そしたら、32歳以降に運気好転と出た。つい「細木数子」やってしまった。

血液型がB型だって言っていたから、なおさら、心配ですわ。「あなたねえ、あなたみたいな人は必死で勉強してプロにならないと、単なる、うるさいわがまま男になるだけなんだよ。普通じゃないんだからね。普通じゃない人間ってのは、勉強するしかないんだからね。他に生きていく道はないんだからね」と言って、私は彼をしっかり苛めておいた。小賢しいだけの若い子ならば、「ま、好きにやんなはれ。おきばりやす」と見物しているだけなのですが、資質のいい子だと心配になるね。

え?不公平??ヒイキ??ばっかも〜〜ん。教師というのは、不公平なもんじゃ。ヒイキするに決まってるわい。資質のいい子の方が、知的向上心のある子の方が、心ある子の方が、可愛いに決まっているわい。タメ口しかきけないような携帯いじくっている猿なんかに用はないんだよ。生まれっぱなしで、そのまんまの人間なんか、親でも愛さないわい。「私を丸ごと受け入れてちょうだ〜い」なんて言う厚かましい怠惰さは、蒙古斑も青々とお尻のほっぺたに鮮やかな赤ちゃん時代にしか通用しません。赤ちゃんでさえ、愛嬌がないと虐待にあいやすいとか聞いたことがあるが。そういえば、The Survival of the Prettiestっていう題の本があったな。

さて、キャロル・キグリー教授のTragedy and Hopeを、また読みます。キグリー教授が言うところの「悲劇」は何なのか見えてきたけど、「希望」が何かがわかるまでには、まだまだ読み進めなければなりません。

またも、短く書けませんでした。すみません。