アキラのランド節

もっと究極のSelf-Development本、もしくは「神の収縮」に関する話(その1) [04/30/2006]


みなさま、1ヶ月ぶりのご無沙汰でした。黄金連休をどうお過ごしでありましょうか。

今朝、メイルを開けましたら、ゼミの卒業生からこういったメッセージが届いていました---「先日、ある取引先で、『何を勉強してたんや、学生時代?』と、堅苦しい感じの、でも一本筋の通った管理職の方に質問されました。『自分のスタイルを貫き通す建築家についての長編小説を読んでいました。彼は、世間から踏み潰されることすら恐れません』と答えました。すると、『そんな映画が昔あったなぁ。『摩天楼』とかいうやつやった』とのこと。『おっしゃる通りです。まさしく、その映画の原作です』 当然ですが、そう答えるまでは、ケツの青い新人が何の用かという態度を、その方はとっておられましたが、その後、それは一変しました。盛り上がりすぎました」---ふふふ♪ 今日は、朝から嬉しいわん。

アイン・ランド先生、あなたの傑作The Fountainheadは、20年後の日本で、「日本人が愛読するアメリカ小説のNo.1」に必ずなっています。すでに47歳だった私の心に火をつけて、一挙に20年も若返らせた小説だもの、必ずそうなる。ハワード・ロークみたいな人生に起きることをすべて肯定して受け入れて、雄々しく、しかし無造作に軽々と生きる主人公なんて、闇のような世界をただ嘆くのではなくて、自分自身が「光源」になってしまう太陽みたいな、北極星みたいな主人公なんて、いったいどこの小説に出て来るんだ?教えて欲しいわい。ほんとに、小説なんかの主人公にしとくのはもったいないほどの人間像だわい、私のロークは。

ところで、私は、この4月を元気に陽気に無責任にさぼっておりました。去年は無性に苦になった会議の多さも、今年度はな〜んも気にならないです。特にどうでもいい会議は、忘れたふりしてさぼるし。いいじゃないの、別に。

たまたま春学期は、ゼミと基礎演習(新入生用の論述作文&発表訓練&情報要約訓練みたいなクラス)と再履修生用の英作文のクラスが複数あるだけなんで、受講生いっぱいの大教室系講義科目がないんで、もう楽勝。こんな余裕ある新学期は、桃山に来て以来初めてだ。どうせ秋学期には、また怒涛の労働だもん。春学期は、確信犯的にタラタラ暮らすと決めた。だから、締め切りをさんざん延ばしてもらって提出が連休明けになった論文も、一字も書いてない。資料読む気もない。テーマには関心があるんだけど、今は、努力したくない。したくないんだから、したくない!できないの!そろそろ「書けません。おります」と出版社と編者の方に連絡しなくちゃなあ。私って、ひどいなあ・・・

ところで、今学期に私が担当する週2回開講再履修生用英作文クラスは、たまたま全クラスが第1限開講なので、受講生が非常に少ない。早朝開講の必修英語で単位取れない学生というのは、だいたいが早起きできなくて出席数が足りないというのが多いからね、第1限開講クラスなんか避けるに決まっている。それをいいことに、私は、再履修生用必修英作文クラスは、個人教授みたいにやっているので、楽しい。大昔の学生時代の家庭教師のアルバイトを思い出すな。

こういうクラスだから、ついつい授業が雑談に移行しやすい。学生は就職活動の悩みやゼミの担当教師に関する不満を話し出す。「へ〜〜あのオッサン、自分の授業がいかに学生から評判がいいか、自分のゼミに希望者がいかに多いかとか、よく自慢してるけど、やっぱりなあ〜内実はひどいんだなあ〜〜だよなあ〜〜」と、感心納得(?)しつつ、ちゃんと学生さんに有益な助言をすることを忘れない私。

「あのねえ、他人は変えられないよ。教師だろうが親だろうがボーイ・フレンドだろうが首相だろうが、他人は変えられない。いまさら、あなたがあのセンセイに抗議しても、あのセンセイは直らない。脳萎縮は止められない。大学だって、ああいうオヤジを解雇できない。終身雇用制だもん。セクハラが露見しない限り、クビにはできんのよ。だけど、あのセンセイの蛙の面にナントカみたいな、ホースで大量にオシッコぶっかけてもびくともしないような無神経ぶりは、あれは、ほんとに大したもんだよ。尊敬に値するよ。あの姿勢からは大いに学べるよ。ありゃ、何も気にしなければ、どんなしょうもない奴でもお気楽に生きていけるという<歩くサンプル>だもんね。辛くて苦しいときは、あのセンセイを思い出しなさいよ。あんな奴でもエラソーに生きていけるんだから、世の中なんてチョロイもんだと思って、明るく図々しく生きていけばいいんだよ。他人の馬鹿さ加減なんか他人のことなんだから関係ないの。風景みたいに黙って眺めてりゃいいの。自分がどう生きるかだけ考えていればいいの。ゼミなんか、どうでもいいやん。テキトーに出席しておきなさいよ。目開けて寝てりゃいいのよ。ところで、あなた最近、キレイになったね。男でもできた?人事のオッサンだまくらかして、早くサッサと内定決めてきなさいよ」と、しゃべっているうちに、授業終了のチャイムが鳴る。ははは。

数人しかいない受講生が全員欠席のときは、私は教室で「ゆる体操」してから、窓から春の空を仰いで深呼吸して、おもむろに好きな本を読み始める。音読したりする。いや〜〜天国だわあ。きっと、今学期は神様が私に下さった休息。ラーメン。

さて、今日は、「もっと究極のSelf-Development本」の紹介をさせていただきます。前の前の号の「ランド節」で、「究極のSelf-Development本」のことを書いたでしょう。しかし、私は、なんと「もっと究極のSelf-Development本」を見つけましたよ。去年の秋から、私は、ず〜〜と「神の完全支配」を信じるべきか、「神の収縮説」を採るべきか、と考えてきたんですが、この本のおかげで、結論が見えてきた。私は、ネオコンの神学的基礎である「神の収縮説」を採らないことにしましたです。「神の収縮」??何のことだかわからない方は、11/06/2005号の「アキラのランド節」の「佐藤優氏の『国家の自縛』に教えられたネオコンとアイン・ランドの関係(その1)を読んでくださいね。

あ〜た、「神の完全支配」を信じるべきか、「神の収縮説」を採るべきか、という選択は、無茶苦茶大きい問題なんだぞ。これほど大きな問題はないんだぞ。アメリカがイランを攻撃しようが、竹島がどうなろうが、アメリカと中国の覇権争いの代理戦を日本が中国とやらされようが、中堅私立大学の生き残りが苛烈になろうが、私の体重が全く減らなかろうが、今期のテレビドラマで面白いのは「ブスの瞳に恋してる」と「クロサギ」だろうが、ゼミのコンパでカラオケで歌おうと思ってレミオロメンの「粉雪〜♪」の練習を研究室でしていたら隣室の同僚から叱られてしまったとか、くそ、今度は「青春アミーゴ〜♪」歌ってやろうかとか、実はそんなこと、私にはどうでもいいんだよ。

あ、ぶっちゃけて言えば、私はガキの頃から神仏をごく普通に自然に信じていたようです。25歳くらいのときに「ああ、あたいは神様みたいなもんが存在すると本気で思っているんだなあ」と、症状を自覚しました。といっても、仏教徒でもないし、キリスト教徒でもなく、ただの日本庶民うっすら神道系アニミズム派でしかありませんが。

そこんところが、無神論者アイン・ランドと決定的に違うところであります。といっても、アイン・ランドは「無自覚系隠れ神様信仰者」みたいな気がするけども。このことについては、またいずれ書かせていただきます。

それは、さておき、その「もっと究極のSelf-Development本」とは、小林正観氏の『宇宙を味方にする方程式』(到知出版社、2006、本体1429円+TAX)であります。なんか、この小林さんという方は、知る人ぞ知るの、日本の「Self-Development本」業界では超有名な方だそうです。お名前からして、御老人の僧侶を想像しますが、宗教オカルト霊感業界の方でもないし、「ズバリ言うわよ」系占い業界の方でもないです。1948年生まれの若い方です(80歳前ならば、若いわい!)。講演回数は年間300回以上ですから、すごいですね。御著書のほとんどは市販されていなくて、一般書店に流通はしていないので、今まで私の目に触れることもなかったのですが、この『宇宙を味方にする方程式』が、初めて市販されたものだそうです。読めて、よかったなあ〜

私が、この本で感心したのは、まず、その「高度なる平易さ」ですね。前に、ここで「究極のSelf-Development本」として紹介した望月俊孝さん著『図解本当にあった!世界一簡単に夢を実現する宝地図---「幸せのチャンス」が1000倍!』とは、根本的に違った人間観、世界観を前提として、かつもっと実践が簡単で、いいんかしらん?というほど、いい意味で安易です。天才的に安易です。

この『宇宙を味方にする方程式』が前提とする世界観は、この世界も宇宙も完全なる神によって支配されている、ということです。「なんじゃ、そんなもん、よくある宗教の戯言か、ば〜か」と、馬鹿にするそこの不幸な似非インテリの不細工なあなた、その意味をよ〜〜く考えたことがありますか?

だいたい、私は前から、「ほんとうに神による支配」を信じていると称する人々(たとえばクリスチャンとか)が、不思議だった。あ、今、私は12年前くらいに勤めていたキリスト教系女子大の学内のチャペルでの礼拝を欠かさなかった同僚たちのことを思い出しているんですが・・・

なんで、そういう連中が、いちいち保身に、コップの中の嵐の田舎の弱小私立大学の学科内権力闘争に、同僚に対する嫉妬に嫌がらせに、派閥作りに、といそしむのかわからなかった。ほんとうに神による支配を信じているのならば、何も心配しなくていいじゃないの。大きな目で見れば、大きなことも小さなことも、すべてが全能で無謬の神のデザインどおりに進行しているんだから、人間が賢しらに悪い頭を使って、グチャグチャ考えることないじゃないの。「誰かに背中を押されるように」淡々と動き、心の奥底から聞こえる神様のメッセージだけに耳をすませていればいいじゃないの。なにも研究費を私服することなんかに頭使うことないでしょう〜が、怪文書なんか流す必要ないでしょう〜が、いったい、どうしたいというのか?いったい何を怖がっているのか?何が不安なのか?私は、あんたらが不細工で口臭があって醜いから嫌いなだけであって、別に憎むほどの関心はないんであって、害なんか及ぼさないよ。そんな暇があるか!

それにしても、あんたら、神様のこと信じていると口では言っているけれども、あんたらの言動は「神への不信」そのものだぞ、もうまったく、日本の似非クリスチャンなんて、だいっ〜〜嫌いだ〜〜こんな連中を排出するキリスト教も嫌いだ〜〜!なんだ宣教師なんか、くそ、日本人の魂を汚しやがって、西洋のアジア侵略の先兵め!私は、心まで植民地にはさせんぞ!天草四郎は、苛斂誅求に苦しむ天草の民のために立ち上がって死んだのであって、殉教じゃないぞ〜〜隠れキリシタンなんて、日本アニミズム系キリスト教風味日本教徒なんだぞ〜〜お前らの覇権的宗教なんか知らんわ、フランシスコ・ザビエルもペリーも、みんな、みんな大嫌いだ〜〜!!と思っていた。

まあ教会と神は別もん、教会と信仰は別もん、キリストとその弟子は別もん、キリストとキリスト教は別もん、キリストと聖書は別もん、とはわかってはいたんだけどね。

小林正観氏の『宇宙を味方にする方程式』に話をもどします。つまり、この本が言っている要点を、荒っぽくまとめると、こうなります。

「ほんとうに神のような存在を信じているとするのならば、起きたことはすべてに意味があり、最終的には自分自身のためになるものだと思えるから、何が起きても<ありがとう>と思えるでしょう?生きようが死のうが病気になろうが貧乏になろうが戦争が起きようが、みな大きい目で見れば意味があるんだから、悩むこともないし、苦しむこともないし、嘆くこともないし、状況を変えようと努力することもないし、夢をかなえようと必死になることもないし、戦うこともないの。ひたすら人生に起きることを引き受けて、淡々と生きていけばいいんだよ。それをいちいち不平不満や愚痴を言ったり嘆くことはないの。まるっきり不必要なの。それは神様にすっごく失礼なんだよ。だって、それは神様のやっていることに対して、あかんと、それはまずいと、批判していることなんだもの。いくら、神様が完全なる愛の存在でも、守ってもらって当たり前と思って感謝の気持ちのない人間って、可愛くないんじゃない?ちゃんと、お礼言うのが筋じゃない?神社や教会でお願いごとするのは、すっごく失礼なんだよ。御礼だけ言うべきなんだよ。あなたの願いがまっとうなものであるのならば、必ずかなえてくださるんだから、疑っちゃいけないの。すべてが、あなたのためになっているのだから、ちゃんと<ありがとう>はいつも言おうね。神様は、綺麗な清潔なことが好きだから、身の回りを綺麗にしなさいよ、特にトイレや洗面所やお風呂みたいな水回りは、綺麗にしなさいよ。いつもトイレ掃除して、笑って、感謝してればいいの!それ以上、人生で気をつけないといけないことはないの!」っていうことです。

あ、こんなの、あまりに単純すぎると思う?そうかな??すっごい過激でっせ、実は、この本のメッセージは。

私は、納得してしまいましたよ〜〜なんか、数年前から、うすらぼんやり感じていたことと、ピタッと符号しましたから。

数年前に、私はふと唐突に思った。「神様という存在がいるとしたら、神様ってけっこう寂しいだろうなあ・・・たったひとりで、この世界を守っているとしたら、けっこう寂しいだろうな。やはり自分の気持ちをわかってくれる存在なんか必要としないくらいに最大最強でオールマイティだとしても、やっぱり少しは自分の偉業を、わかってもらいたいんじゃないかなあ」って。普通に食って眠って生きていけるだけでも、すっごく幸福なことなのに、人間は(私は、ということだけど)、そういう状態が当たり前だと思って、不満ばかりで感謝もしなくて、ついでに馬鹿なくせに、無知なくせに、五里霧中の中にいるくせに、目が見えているふりをして、身の程知らずにも、あれこれと論評する。強くて立派な人だから、親切にしてくれて当たり前なんて、思っちゃいけないよね。金持ちだから、金貸してくれてあたりまえで、借金しても返さなくていいだろうなんて、金持ちだから痛くも痒くもないだろうと思って、借金踏み倒すのは、やっぱり悪いことだよね。そういう発想する奴が、税金に寄生して、その自覚のない官僚になったりするんだよね。官僚のクリスチャンなんて、絶対に信じられんわ。

ここだけの話なんだけど、3年前に私の勤務先の大学の学長選で、東大名誉教授がうちの大学のOBの教授に(意外にも)大負けしたんだけどさ、その負けた理由の一つを、最近知った(私は、学内の噂話が一番最後に到着する<人間ターミナル>なんです)。この東大名誉教授って、将棋や碁が趣味だったんだけど、事務職員の若い人たち相手によく対戦していたらしいんだけど、そのあと夕食に出かけても、その若い人々に、1度も食事をごちそうしたことがなかったんだって・・・・非常識でしょう〜〜??65歳過ぎてたんだぜ〜〜その当時でさあ。

だいたいねえ、50歳過ぎた人間相手に、若い子が将棋の対戦したって、何も面白くないよ。その若い子たちは、その東大名誉教授と「遊んであげた」んだよ。わかってないなあ〜〜せっかく若い子たちに遊んでもらったんだから、その若い子たちよりはるかに高給の人間なんだから、飲食費ぐらい、自分が払って当然じゃないの。ありがたく、毎回、全額払って当然じゃないの。払わせてもらえよ、喜捨のつもりで。

なのに、にもかかわらず、そいつは一度もご馳走しなかった。そのくせ、長年「うつ病」だとかで、薬飲んでいるとか言って、愚痴ったりしたらしい。アホか。そんな、幼稚なしょうもない奴は死ぬまで「うつ病」やっていればいいよ。医者に好きにされて、薬漬けになってろ。どうせ、ほんとの「うつ病」じゃないよ。「嘘っこうつ病」だよ。「世間が僕をチヤホヤしてくんな〜い」という不満病だろうさ。そいつは、父親も東京帝国大学教授だったそうだが、親子代々税金に寄生してきた奴だから、その因果なのか、やらずぶったくりの「お役人DNA」のせいなのか、一般常識すら頭に入っていなかったようだ。恥ずかしい〜〜別に、私が恥ずかしがることはないか。

いや〜〜そんな奴が、学長にならなくて、よかったわい。そんな程度の人間に、我が愛する桃山学院大学を好きにされないで、よかったわい。チャペルの英国国教会の神様が、たまには働いたんだわん。桃山を守ってくださったんだわん。これ内緒の話ね。口外しないでね!あれ、何の話だったか?

あ、そうそう「神様という存在がいるとしたら、神様ってけっこう寂しいだろうなあ・・・たったひとりで、この世界を守っているとしたら、けっこう寂しいだろうな。やはり自分の気持ちをわかってくれる存在なんか必要としないくらいに最大最強でオールマイティだとしても、やっぱり少しは自分の偉業を、わかってもらいたいんじゃないかなあ」の話でした。

たとえば、私は、亡くなった父親に、「ありがとうございました」って言うべきだったのに、ちゃんと言った記憶がない。男だから、父親だから、「私の父」なんだから、女・子どもを守って優しくて強くて男らしくてハンサムなのは(あ、私の亡き父は、往年の美男映画俳優の池部良と市川雷蔵と王貞治をミックスしたみたいな痩身長身のハンサムだったんですよ。そのDNAは残念ながら娘たちには全く受け継がれなかったんですが)当たり前と思っていたから、弱くなった父が哀しくて、癌の末期の父親を励ましたりして、私は、なんて無神経な心無い娘だったんだろう・・・・ひたすらお礼を言うべきだったんだ・・・ただただ「ありがとう」って言えばよかったって、後悔しつつ思い出した。亡くなった母に対しても、そうだった。私は何回ちゃんとお礼を口に出して生前の母に言ったろうか?

神様ってのは、やはり人類を含む生き物全部の「親」なんだろうなあ、子どもに感謝されなくても、黙って子どもを愛して心配して気遣って、子どもは全くそれに気がつきかくても、そんなこと愚痴りもしないで黙って死んでいく親に似ているのかもしれないと、思った。あれは、2004年の春ぐらいだったかな。私は馬鹿だから、50歳ぐらいにならんと、そういう当たり前のことでさえ、わからなかったんだよね。

あれ以来、私は神社でもどこでも、自分のことを祈ったことがない。自分自身のことは、自分で何とでもできるということもあるけれど、私は十分幸福に生きているんで、これ以上、やいのやいのと神様にねだるのも、なんかうるさいというか、厚かましいというか、みっともないというか、非道というか、ざけんじゃね〜よ、この強欲オバンめ、いい年しやがって、というか・・・気が引けてきた。しかし、他のことも、祈っちゃいけなかったんだなあ、願っちゃいけなかったんだなあ・・・ひたすら感謝。あらかじめ感謝。人間なんか、お礼言うぐらいしかできることないじゃないか。確かに、そうだ。それ以外に、言うべき言葉はないよな。みなさん、神社や教会では、ひたすら感謝しましょう。お父さんや、お母さんが、仏様になる前に、ちゃんと声に出してお礼を言いましょう。声に出して読む日本語ならぬ、謝辞。

この小林正観氏の『宇宙を味方にする方程式』が、すごいのは、ものすっごく実践的なところです。その実践法が、またものすっごく簡単なんですよ。もう、これ以上に簡単なのはないんじゃないかって言うほど、簡単なんですよ。『図解本当にあった!世界一簡単に夢を実現する宝地図---「幸せのチャンス」が1000倍!』なんて、目じゃないくらいに簡単です。このことは、続編に書きます。では、ひとまず、さようなら。