アキラのランド節

日本リバタリアン文学&映画第一弾! [08/09/2006]


今日は、褒めちぎりたいのであります。前から、このことは書きたかったのであります。

みなさん、これから、黙って、中島哲也監督の『下妻物語』(2004)という映画のDVDをレンタルで借りてきて、ご覧ください。この映画は、原作が嶽本野ばらさん作『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』(小学館、2002年)です。原作、映画化作品、ともに素晴らしいです。傑作です。いまどきの日本文学&映画には稀有な思想小説&映画です。読まないと、観ないと、人生の損失です、ほんと。

私は、この映画と遭遇できた幸福を感謝しております。あれは、6月のある晩でありました。それまで、なんと、私はこの映画について、小説について、何も知らなかったのです。やっぱり新聞くらいは読んだほうがいいのかなあ・・・

たまたま、その日は、夕方から、法学部の学生さんとJohn Baylis & Steve Smith編のThe Globalization of World Politics: An Introduction to International Relations (2001,Oxford UP,2005)を読む日だった。こういうテキストを、単位にもならんのに、読みたい!と切望する学生さんもいるから、教師も救われる。このテキストは、何回も版を重ねていて、改訂版も出ていて、問題の射程にはジェンダーやフェミニズムもはいっているという見識ある、国際政治分野では代表的基本テキストらしいです。

しかし、もう文章がやたら長くて、パラグラフまるまる一文だったりして、繰り返しも多くて、教科書だから説明がしつこくて、アメリカ英語を読みなれた私からすると、かったるくて、くどいなあ・・・とも思えるのだが、学生さんの英語読解訓練には、もってこいのテキストなんである。これだけ長い英文を、しつこく訳していくのは、忍耐力の訓練にもなる。日本人は、英文和訳を通して、日本語と格闘するんである。私自身にとっては、知らない分野の基本図書を、じっくり読めるんで楽しいし。

私だって、「英語の教師」なんだからさ・・・やはり、テキストをじっくり読んでいくっていう授業したいんだよね・・・しょうもない英会話とか、そんなもんじゃなくてさ・・・

で、その「勝手に開いちゃいました外書講読クラス」を終えて、勤務先近くに借りている部屋にもどって、着替えて、お茶入れて飲んで、ソファに寝っころがって、リモコンでテレビつけたら、映画をやっていた。なんか画面に、やたら鮮やかに明るい青空の下に広がる緑の田んぼの風景が写し出されていた。そのなかを、可愛いらしい容姿端麗な深キョン(深田恭子ちゃん)が、レースのパラソルさして歩いていた。しばらく、その映画を観ていて、私は突然ガバッと跳ね起きた。それから、ぶっ飛んだ。文字通り、ぶっ飛んだ。

「ぎゃあ〜〜こりゃあ、リバタリアン・ムーヴィーだあ〜〜〜!!」と、私は叫んでいた。

簡単に言えば、この映画(原作の小説にかなり忠実)は、装飾過多のロココ風ロリータ・ファッション主義者である「竜ヶ崎桃子」と、レディース暴走族のヤンキー少女「白百合イチゴ」の熱い友情物語であります。いや、はっきり言って、桃子とイチゴは、互いに意識はしていないが、恋人どうしみたいなもんだ。「貴婦人桃子」が、「悪ガキ坊主のイチゴ」を可愛く、いとしく思いつつも、あきれつつお守りしている潜在的レズビアン・ラヴ・ストーリーでありますよ。いや、さらに言えば、レズビアン・ラヴ・ストーリーの形式を採用したゲイのラヴ・ストーリーでありますね。だって、桃子とイチゴの主体のありようは、まさに「男」だもん。さらにさらに言えば、まさに「男」とは、硬派の女の魂、少女の魂の内にしか実現されないものかもしれませんが。

それはさておき、「ロリータ・ファッション」なるものが、どういうものであるかわからない方は、ネットでBaby, the Stars Shine Bright (http://www.babyssb.co.jp/)を検索してください。このお店の商品が、代表的ロリータ・ファッションであります。検索しましたか?可愛いいでしょ〜〜??私自身は、今のところは着たいとは思いませんが、このファッションが好きな女の子の気持ちは、すっごくわかる!

私は、高校生の頃は、「赤軍の冬用コート」に憧れて、ソ連の軍服とかナチスの軍服ってカッコいいなあ〜〜と心ひそかに思っていた。「塹壕コート」つまり、トレンチコート着て、木枯らしの中を風に向かって歩く自分の姿を想像して、「カッコいい・・・」と、うっとりしていた。私の身長では、せいぜいがダッフル・コートであって、トレンチ・コートは無理、裾が地面をひきずる、とわかったときは落ち込んだ。18歳や19歳の頃は、カウボーイの格好に憧れて、テンガロン・ハットかぶっていた。30代は、スーツとパンプスで決めて、髪にはパーマなんかかけて、キャリアウーマン風にこだわっていた。今は、スカートもパンプスも縁がなくて、ただただ気楽で機能的な、サイズが豊富なアメリカの通販で48ドルのシャツ買って着ている「手を抜いたセンセイ風オバサン・スタイル」だ。

しかし、多分、70歳過ぎたあたりから、きっと私は「ロリータ・ファッション」やらかすような気がする・・・ふふふ・・・見た目はおぞましいだろうけど、私自身はハッピーなんじゃないかなあ。年々歳々、赤とかピンクとかゴールドとか好きになるもんなあ。全部の指にキラキラ光る指輪つけたいし、首には思いっきり何本もグルグルとネックレスを巻きつけたいし、靴なんかもピカピカ光るエナメル大好きの、派手派手大好きな悪趣味な人間だからねえ、ほんとの私は。だから、大阪のオバチャマが好きなのかもなあ。「上品な趣味の良さ」ってさあ、なんか人間が小さい感じがしない?派手な悪趣味って、エネルギーあるなって感じない?

ロリータ・ファッションって、16世紀おフランスのロココ文化に端を発する、フリルヒラヒラのレースたっぷりの、無意味なほどに優雅で砂糖菓子みたいに甘い過剰な装飾ばかりの、すこぶる非合理的な機能的でないファッションだから、老人にこそ、ふさわしいと思うんだけどね。シンデレラみたいな格好で死ねたらいいね。

ところで、『下妻物語』のヒロイン桃子は、田んぼしかない茨城県の下妻(ってこういう場所が、ほんとにあるのかな?)ってところに住んでいる高校生なのだけれども、彼女は自分の環境に自分を適応させることになんか心を砕かない。下妻の祖母の家の昔風の農家の日本建築の住居のなかで、めいっぱいロリータ趣味の空間を作り上げる。食事から言葉使いにいたるまで、ちゃんと「おフランス風ロココ趣味」を貫徹させている。どう見たって田舎のオバアチャンの祖母を、ちゃんと「おばあさま」と呼ぶ。

父親は、元ヤンキーのテキヤさんで、母親は元キャバクラ嬢で、その母親は父親(つまり亭主ね)に愛想をつかして、桃子の出産時の産婦人科医と再婚して家を出て行ったのだけれども、桃子は、そんな自分の外部の環境なんかに左右されない。あくまでも、心はロココのお姫様。そんな桃子は、もちろん、高校の中でも浮いているけれども、そんなこと意に介さないのだ。映画では、この桃子を、深キョンがとても自然に演じている。この女優さんって、不思議な魅力あるよね〜〜(私、写真集買っちゃったですよ〜〜深キョンの。くたびれて研究室で寝転がっているときに眺めてると楽しいよ。そのまま気持ちよく昏睡状態みたいに眠り込んでしまうけど)。

桃子は、「他人の評価や労力を査定の対象とはせず、自分自身の感覚で、これは嫌い、これは好きと選別していく究極の個人主義こそが、ロココの根底を支えているのです。ロココは、どんな思想よりもパンクでアナーキーなのです。私は、エレガントなのに悪趣味で、ゴージャスなのにパンクでアナーキーであるロココという主義にだけ、生きることの意味を見出すことができるのです」(嶽本野ばら『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』小学館文庫、p.10)と語る。つまり、桃子は、16歳にして、確信犯的個人主義者なんである。彼女は、さらにこう言い放ちます。

人の価値観なんてそれぞれなのです。私は途上国の貧しい人々を救うことに生き甲斐を感じ医師として働く人が抱える信念や哲学と、ロリータな格好に魅せられ、ロリータの源泉であるロココな美意識に生きることを選択した私の信念や哲学の間に優劣はないと思うのです。もしかすると私のその考えは間違っていて、もしもロリータに生きるという私の志がとてもくだらぬ、更にいうなら最悪なものだったとしても、私はその生き方を捨て去りはしません。誰の眼から見ても只のクズであったとしても、私の眼に、それはダイヤモンドよりも、イリオモテヤマネコよりも、貴重で必要なものだと映るのであれば、私は迷わずそれを最も大切なものとして死守していきます。それが私のやり方なのです。だって最愛の人とめぐり合っとたとしても、人は一人で生まれ、一人で思考し、一人で最後は死んでいくのです。自分で見つけ出した自分の価値観を尊重せずして何になるというのでしょう。人という字は一人では成り立たない、誰かと誰かが寄り添い合い、支え合うことによって人という字が出来上がる、だから人は一人でなんて生きていけないのだなんてしかつめらしく語る人達がいますが、それなら私は人でなくてもよい、人でなしでも構わないと思うのです。個体として自らの本能のまま生きていくミジンコでいい、プラナリアでいい、そちらの方が寄り添い合ってしか生きられない人間よりも、遥かに生物として自立していると思うのです。そう、学校の社会・公民の授業では自主独立の精神を持つことの素晴らしさ教える癖に、何故に国語や道徳の授業では、人という字は……ということをいいだすのでせう。きちんとコンセンサスとれよ、教育委員会。矛盾したこと平気で教えるなよ、文部科学省。 (『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』、p.56-57)

もう・・・私は、ここのくだりを読んで、自分自身の言葉を聞いたような気がした。あ、嶽本野ばら先生、生意気なことを申し上げてすみません。『下妻物語』のような傑作を書く能力など私にはありません、もちろん。ただ、あまりにこの部分に共感してしまったがゆえに、こういう発言になったわけです。だって、この発言趣旨こそ、リバタリアニズムの基本だもの。

リバタリアニズムのいいところは、人間が自分自身で心から納得して選択した生き方に関して、他人のその同じ権利を侵害しない限り、物理的強制力(暴力)に訴えない限り、その中身自体には関与しない、規制しない、価値判断しないという点です。「共通善」と照らし合わせて、こういうのはまずいとか言う「倫理的規制」もしないです。私自身、安楽死も麻薬使用もポルノも、規制する必要があるのか?と思っています。本人が納得して選んだことならば、好きにさせとけと思っています。それで死んでも、別に構わないではないですか。自分が選んだのだから。

私は、「異常なるお節介」だから、一応は、「これはまずいんじゃないか?」と思ったときは、愛する人々に、はっきり意見を言いますが(どうでもいい人には言わない)、あらかじめ諦めつつ、あえて言いますよ。私の意見を採用するか採用しないかは、その人の自由。人間には、傷つく権利だって、不幸になる権利だって、あるんだから。愛する人間が、あえて不幸になり、あえて傷つくのを見守っているのは辛いことではありますが、しかたない。その人の人生は、その人のものだもんね。もう、その人の守護霊さんに、「この人を守って差し上げてください。よろしくお願いします。私は何ともできないので」とお願いする以外に、なす術がない。

レディース暴走族の仲間と、いっしょにバイク走らせ飛ばすことが最重要項だった白百合イチゴは、桃子の「フリフリヒラヒラのくせに根性がすわっているところ」を、だんだん理解してゆきます。アタマは足りないけれども、素直で正直な男の子が、女の子の芯の強い度胸のよさに感化されるように。イチゴは、自由さや無頼さをなくしつつあったレディース暴走族を抜けて、ひとりで自由に走ることを決心します。桃子の存在が、イチゴの独立の後押しをするわけです。

しかし、つるむしか能がない集団主義のレディース暴走族の仲間たちは、イチゴを許しません。「けじめをつける」と、呼び出されて、イチゴは(元)仲間たちと決闘せざるをえなくなる。しょうもない連中は、イチゴをリンチします。個人主義を標榜しつつも、それをほっておけずに駆けつける桃子。その桃子の「フリフリヒラヒラ」を嘲笑する元仲間たちに、イチゴは、こう啖呵を切ります。「こいつは、何時でも一人で立ってんだよ。誰にも流されず、自分のルールだけに忠実に生きていやがるんだよ。群れなきゃ歩くこともできないあんたらとは、格が違うんだよ」(p.292)と。もう〜〜涙が出てくるような名台詞でしょう〜〜さらに、イチゴは言うのですね〜〜「人は最後は一人なんだよ。徹夜で話し合って、手を絡いで抱き合って眠っても、違う夢を見るんだよ。だからこそ、人は人に影響を受けたり、人を大切に思ったり、その人間の生き様を尊重出来るんじゃねーのか」(p293)と。おお〜〜このように生硬なほどに、正統的な個人主義擁護の言葉を、日本の小説から聞こうとは!生きていて良かった。

ヤンキーのイチゴは、成長したのです。桃子を理解するにつれて、ある認識に達したのでありますね。このイチゴの言葉の、なんと、まっとうな気高さよ!尊敬する友(恋人?)への清冽なる友情&愛の言葉よ。ああ!アイン・ランドの『水源』や『肩をすくめるアトラス』が伝える思想と本質を共有した言葉を発する小説が、日本にもあったのです。まさか、「ヤンキーちゃんとロリータちゃん」などという副題のついた、一見軟派風少女小説の中に、アイン・ランドと共通する精神が息づいていたとは!ああ、会えてよかった『下妻物語』!私は、嬉しくて泣いた。マンガだろうがテレビドラマだろうが、すぐに泣く私の涙はほんとに安っぽいが。

みなさま、言うまでもありませんが、映画では、この決闘シーンがクライマックスですからね!もう最高ですからね!体育の授業なんかいつも見学の、お淑やか&軟弱なロリータ・ファッション主義者である桃子が、切れてバット振り回して大立ち回りを演じて、レディース暴走族と戦う場面は、原作の小説よりは、さすが映画の方が、はるかに迫力があり凄いです。もう痛快です。ここらあたりのシーンは、観ていると涙がほとばしります。感動します。

原作では、桃子は、テキヤの父親がお祭りかなんかで屋台で売るヨーヨーを武器にするんですが、イメージがわかないなあ・・・そういえば、うちの学生がガキの頃に、「ヨーヨー世界選手権」に出たと自慢していたが、ヨーヨーってさあ・・・あの西洋式の駒とカスタネット足したみたいな奴だよねえ?あれが、武器になるんか・・・??

それはさておき、感動しまくった私は、この映画について話すべく名古屋の自宅に興奮して電話をかけ、友人にはメイル出しまくり、ゼミと基礎演習の時間に、「納涼傑作映画鑑賞Day!」と称して、黙って『下妻物語』を学生さんたちに見せたんであります。

ゼミの学生が、「あ、竜ヶ崎桃子は、ハワード・ロークですね!」と言ったときは、嬉しかった。じゃあ、白百合イチゴは、ドミニク・フランコンか?そういう類推も可能だな。まあ、基礎演習のクラスの学生さんたちは、アイン・ランドなんて知らないから、「すっごく良かったです〜〜毎週、映画にしてくださいよ〜〜」とふざけたことを言っていただけだったけれども。ま、1年生のみなさんには、おいおいと映画の読み方も教えてさし上げましょう。

この『下妻物語』の原作には、『下妻物語・完―ヤンキーちゃんとロリータちゃんと殺人事件』(小学館、2005)という続編&完結編もあります。「殺人事件」そのものは、さておき、最後のあたりは、リバタリアン桃子節炸裂でいいです。酷暑の夜など、スカッとなさりたい方々に、前向きの気持ちのいい涙を流したい方にお薦めいたします。

ああ、今度は「日本リバタリアン文学&映画第二弾!」を書きたいものです!それも、なるたけ早くに!出会いを待たねばね。

さて・・・実は、ほんとは、私は、「ランド節」書いている場合じゃないんですよね・・・