アキラのランド節

青春のさなかにいることはろくでもないが、青春にいあわせることは愉しい [01/14/2007]


冬休みも終わって、怒涛の労働がまた始まりました。あと2週間ほど経過すれば、学期末試験や、入試や、なんやかやで、さらなるドタバタが始まります。

今日のランド節は、単なる雑談です。いつも雑談ですが、今日はもっと雑談です。

昨日の1月13日の土曜日の午後は、文学部の1年生向けの「学科振り分け教養テスト」と新年度の英語能力別クラス編成用のPre-TOEFLがありました。桃山の文学部生は、1年生の終わりに自分が進みたい学科(英語英米文学科にするか?国際文化学科にするか?)を決めます。「振り分け教養テスト」とは、学科希望者数がいびつになった場合にそなえて、一応やっておこうというテストであります。

はっきり言って、意味のないテストであります。こういうことを言い出して決めたオッサンたちは口(くち)は動かすが、体は動かさない連中であります。下手なアイデアは、休みに似たり、というより怠慢より質(たち)が悪い。学内行政大好きの暇なオッサンたちのおかげで、実働部隊は迷惑します。参謀が馬鹿だと兵隊は犬死します。太平洋戦争時の日本帝国陸軍みたいなもんです。

ここ数年は、ずっと国際文化学科進学希望者が多かったんで、2005年夏の教授会で英語英米文学科廃科が教授会で決まりました(あのときは、頭に来て、本気で辞表出そうと思った。でも霊能者の方が辞めちゃ駄目!と言ってくださったのであります)。皮肉なことに今年は英語英米文学科希望者が多いです。

文学部の1年生を教える科目を毎年私が担当できるのならば、毎年、英語英米文学科希望者の数が多いような状態にさせる自信が、私にはあります。これはうぬぼれではありません。それぐらいの気持ちがなければ、教師なんてやっていられない。

しかし、言っても詮無いことであります。英語英米文学科のみならず、「文学部」という伝統ある価値ある名称は消えて、「国際教養学部」とかいう、わけのわからんウサンクサイ、しょうもない学部になるらしいですが、衆愚民主主義の多数決で決めるなら、しかたない。勝手にやってろ。

で、そのテストを終えた13日土曜日の夕方から1年生の「基礎演習」というクラスの新年会を、大学近所の無国籍料理のレストラン(前はハンガリー料理店だったけど)で行いました。25名の受講生のうち参加者は17名。20名で予約したけど、ドタキャンもいれば、黙って欠席の学生もいました。こういうのはいまどきの若い子相手では当たり前です。実社会でドタキャン3回やったら、信用なくすぞ〜〜。なくした信用は、修復不能だぞ〜〜。

レストランでは、カラオケつき個室を借りました。会費はひとり1000円です。あとは、教師が支払うのが桃山学院大学のクラス・コンパの流儀です。

せっかくのコンパだというのに、いまどきの学生は手間がかかります。放置しておくと、男女別れて座ってしまい、いつも話している友人としか話さないという馬鹿をやる。だから、強制的に男女混合で着席させて、「お仲間」から引き離します。乾杯後は、しばらくは食うことに専念させます。最初は、「今年の抱負はですね〜〜」と神妙な感じで、ひとりひとりスピーチみたいなことさせます。今の若い子たちは、気後れせずに、人前で話せますよ。笑わせるツボも心得ています。

で、少しほぐれたかな〜というところで、「誰か歌ってよ〜〜」と私がカラオケをたきつけるのですが、誰も歌わない。しかたないから、ice breakingで、私がカラオケでレミオロメンの『粉雪』なんぞを歌います。

ご存知のように、こういうice breakerは、歌は下手でかまいませんよね。下手なほどいいですよね。サビのところで大声を出して、がなり歌える元気さえあればOKですよね。「粉雪〜〜ねえ〜〜心までええええ〜〜白くうううう染められたならあああああ〜〜♪ふううううたあありいいのおおおお孤独を包んでえええええ〜〜空にいいいかえすからああああ〜〜♪」とドラマティックに振りをつけて歌える羞恥心のない人間ならば、もっとOKですよね。それか、『抱いてセニョリータ』とか『青春アミーゴ』を、音をはずしたまんま平気で歌えるとか。幸いに、私はそういうice breaker気質であります。ほほほ。

そうすると、じわじわ、ぞくぞくと、歌におぼえのある学生が、歌い始めます。レポートはちっとも提出しなくてクラスではふざけてばかりのアニメキャラみたいな男子学生が、Mr.Childrenの「しるし」なんて難しい歌を、「男前」にカッコよく歌うと拍手喝采です。地味な地味な口数の少ない男子学生が、ラップなんか派手に歌いだして、それがうまくて、みんな、びっくりします。で、また拍手喝采です。男子学生ふたりが、互いに目配せしながら、バラードを歌います。それが非常に巧みで、ハモっていて、拍手喝采です。喜んで一番大騒ぎしているのは、私でありますが。

そうなると、続々みんな歌い始めます。席を移動し始めます。勝手に歌いだします。おとなしくしていた女子学生なんかも、ふたりで組んで歌い始めます。歌のうまいイケメン男子学生が、「センセイ、ミーシャ好き??ミーシャ好き??ミーシャのEverything歌おう!」とか言うんで、ふたりで、「優しい嘘なら〜〜いらあああなああいいいい〜〜〜♪欲しいのはああああ〜〜ああああなたあああ〜〜♪」と、大げさに情感こめまくって、歌います。すると、途中から、可愛い女子学生が、その男子学生のマイクを奪い取り、マイクを握って離さず歌います。それが、またうまい!!

ず〜〜と黙って面白くなさそうにしていたひとりの男子学生も、とうとう「夜空のムコウ」を歌いだしました。この平成の名曲はすでに中学校(小学校だったかな?)の音楽の教科書にも載っている文部省唱歌ですから、みんなで大合唱となりました。その男子学生は、あとで「僕、生まれて初めてカラオケで歌いました〜〜またやりましょ〜〜センセイ、また連れてきてください〜〜」と、言っておりました。なんだ、そうだったのか。気分でも悪いのかと心配してたのに。彼は、単にカラオケ・ヴァージンであり、初体験を前にして緊張していただけなのでありました。

私は、こういうコンパの席のカラオケなんかで、若い人たちの歌を覚えます。大晦日の紅白歌合戦は、司会者やゲストのしょうもないしゃべりがつまらないので、観なくなってから久しいので、流行歌なんて、テレビドラマの主題歌でしか知る機会がありませんが、学生とのコンパで勉強させてもらいます。

文学は読まれなくなった、本は読まれなくなったといわれます。ならば、いったい今の若い子たちは、どこで「情操教育」を受けるのでしょうか?物語によって、人間の葛藤とか恋愛の情感とかシミュレーションで学んだ下地があるからこそ、実際に自分が経験するときには、その経験の意味を把握し理解できるのですが。「ほんとうに好きな人に会ったときは、時間が止まるって、こういうことだったのか!言葉が要らないってこういうことだったのか!」とか、「そうか、ベラベラ他人に打ち明けられる程度の決意なんて、決意じゃないんだ!」とか、「ほんとうに充足して幸福な人間は、他人を愛してはいても束縛はしないんだ!幸福な人間は、自分も他人も信頼できるからだ!」とか。

ここに書くまでもないですが、アイン・ランドの小説なんて、読むのにぴったりですよね〜〜。実に情操教育に良いですよね〜〜。対話が深いですしね〜〜。ああいう対話をしたいですよね〜〜斬れば血が滲むような生き生きとした、言語能力駆使した対話を。しんどいか・・・

それはさておき、学生たちがカラオケで歌う曲の歌詞がディスプレイに映し出されるのを目で追いながら、いっしょに歌いながら、私は納得したのです。「ああ、この子たちは、物語のかわりに、小説読む代わりに、こういう歌の歌詞で学んでいくんだ・・・情感を、恋愛の作法を、苦しみの乗り越え方を、孤独との付き合い方を」と。

  私の好きな「粉雪」を例にあげましょうか?詩も曲も「藤巻亮太」さんという方です。あ、私は、この「レミオロメン」っていうグループの構成員の方々の顔も知りません。CD持っているだけです。実はグループ名ですら正確に覚えていません。昨夜も、「ロメオメロン」と間違えて何度も言ってしまい、そのたびに学生からいっせいに「レミオロメン!!」と集中攻撃を受けました。くそ。こんなややこしい名前を覚えられるか!!

ご存知の方も多いでしょうが、「粉雪」は以下の言葉で始まりますね。「粉雪舞う季節はいつもすれ違い/人混みに紛れても同じ空見てるのに/風に吹かれて似たように凍えるのに/僕は君の全てなど知ってはいないだろう/それでも一億人から君を見つけたよ/根拠はないけど本気で思ってるんだ/些細な言い合いもなくて同じ時間を生きてなどいけない/素直になれないなら 喜びも悲しみも虚しいだけ」 

中盤は、このような歌詞です。「僕は君の心に耳を押し当てて/その声のする方へずっと深くまで/下りてゆきたい そこでもう一度会おう/分かり合いたいなんて上辺を撫でていたのは僕の方/君のかじかんだ手も握り締めることだけで繋がっていたのに」

ね〜〜ほんとに瑞々しく「文学」しているでしょう??日本の男の子が、こういう「一方的でない」「身勝手でない」恋の歌を作れるようになったのですよ〜〜いまどきの若い子向けの歌の歌詞は、ほんとうに「文学」している。それも、かなり洗練されてます。品もいいです。

「粉雪」の詩ってすごいです。50歳超えたオバハンをも、いっきょに19歳の女の子にしてしまいます。いつもは気が強いのに、ものすっごく好きな男の子の顔をまっすぐ見ることができなくて、その男の子の視線を感じながらも、そっぽ向いて黙って冬の空を見上げる女の子の気分になりますからねえ。もしくは、生まれて初めて他人の存在を生々しく重く熱く感じるような恋をして、初めて心の奥の奥で=魂で考えることを体験して無口になってしまった20歳の男の子のような気分になりますからねえ。はい。

なるほどなあ・・・そうかあ・・・文学は終わったんじゃないんだ。小説の原型たる本来の歌唱、俗謡の世界に生き生きと息づいているんだな。そうさ、文学が終わるはずない。人間が人間である限り、感情のある生き物であり限り、「情感」について学習する文化装置や、情感を発散する文化装置は必要なんだから。

いや、しかし、今日書きたかったことは、このことではありません。いまどきの若い子たちの情操教育の話を書きたかったのではないのです。

ゆうべ、学生たちと騒ぎながら(個室とはいえ、お店の方々には迷惑だったかも・・・大騒ぎだったからなあ・・・)、なにゆえか、学生たちが、腰掛けたり、立ったりと、様子はそれぞれながらも、私が座っている席の近くに集まっていることに気がつきながら(要するに、ガキがオッカサンの近くにいながら、勝手に遊んでいる風情ですね)、個室を退室する時間が来たので、私が黙って立ち上がってコート着始めたら、学生たちもいっせいに立ち上がってコート着始めたのに気がつきながら、私は、あるシーンを唐突に思い出したのでした。正確に言えば、大昔に私の心に浮かんだある場面を、ふたたび思い出したのでした。

私には霊感とかそんな類のものは全くありません。ただ、大学生の頃、ある場面が私の心にパッと浮かんだことがあります。台所がついたそこそこ広い部屋のあちこちに若い子たちが座ってしゃべっています。飲み物や食べ物がテーブルに散らかっています。勝手に、しゃべって笑い興じています。台所で、なにか調理している奴もいます。隅っこで寝転がって眠っている奴もいます。その部屋には上の部屋に通じる階段があります。その階段を、まったく若くはないけれども、老いてもいなくて、まだまだ現役らしき私(私ですよ、私)が、のんびりと降りてきます。その私は、若い子たちが好きに過ごしている部屋をサッと眺めて、「あ、来てたの〜〜どうも〜〜好きにやってね〜〜」と言います。それから、冷蔵庫から何か取り出して、また自分の仕事にもどるべく、階段を上っていきます。そういうシーンです。それだけのワン・シーン。

どういうsituation、これ?私は、テキトーに「降臨」して、また消える。なに、これ?

まだ大学生の頃に、なんで、そんなシーンを私が思い浮かべたのか、いまだによくわかりません。家族に囲まれているとか、そういうイメージは浮かばず、若い子たちを勝手に遊ばせておいて、その喧騒を遠くに聞きながら、自分は、独りで仕事して、たまに降臨して、また消えるというイメージ。なんで、18歳や19歳の私の頭に、こんな場面が浮かんだのか不思議です。

で、ゆうべの新年会の帰りに思ったのであります。大学近辺に借りている部屋に帰るべく歩道を行く私の横の道路を、「ごちそうさまでした〜〜」と言いながらバイクで走り去っていく学生や、「センセイ、あそこに住んでるん〜〜?」と私が部屋を借りているマンションを指差しながら、自転車で追い抜いていく学生の後姿を眺めながら、私は思ったのであります。そうかあ、私は、自分自身の青春時代はろくでもなくて、しょうもない思い出しかなくて、振り返るのものアホらしくて思い出す気もないのだが、「他人の青春にいあわせる」ことは、好きなんだなあと。

自分の青春はおぞましかった。しかし、年をとってから、他人の青春を見物しているのは、このうえなく愉しい。実際、ほんとうに私自身の青春はくだらなかった。思い出す値打ちもない愚劣で怠惰で低脳な毎日だった。そのかわりの、神様からの贈りものでしょうか、私は、他人の青春に「いあわせる」という、実に愉快で、無責任なほどに気楽な快楽を味わう機会に、恵まれてきたようです。

ひょっとしたら、若き日の私の脳裏にパッと浮かんだあの場面は、実現するのかもしれないなあ。将来の私の道楽は、「場所や機会を提供して、若い子が勝手に交流して遊んでいるのを眺めること」になるのかもしれないなあ。これって、一種の「覗き見」趣味かなあ。しかし、こういう道楽って、金がかかりそうだから、稼がないといけないなあ。

大学教員によくあるパターンで、若い子に自分をお守りさせたがるというのがあります。なかには、学生を飲み食いに誘いながら、自分では金も出さずに、一方的に延々とおしゃべりばかりしている貧乏臭い幼稚な馬鹿教授もいます。こういうのは、桃山学院大学にはいません。うちの学生は、素直で正直だから、好きでもない人間のお守りなんかしない。計算づくで動けない。好き嫌いでしか動けない。だから、うちの教員は、学生さんから甘やかされようがありません。ちゃんと「学生が教師と認めることができる教師」をやらなければなりません。独りよがりなど許されません。

世渡りと打算から、好きでもなく、どちらかといえば軽蔑している大人(教師)のお守りをするっていうのは、国立大学とか高偏差値系有名私立大学の学生ならば、習慣でありましょうがね。だから、日本人は堕落するんだよ!

私が、大学院生時代のイギリス文学の教授が、この貧乏臭い幼稚な馬鹿教授の典型でした。私自身は、アメリカ文学専攻だったので、そいつの指導など受けなくてもいい立場だったので、そんな飲み食いにはつきあいませんでした。しかし、イギリス文学系の院生はマメにお付き合いしていたな。いや、ほとんどの院生がつきあっていたかな。「夜中の2時までつきあわされちゃったのお・・・」なんて、愚痴っている先輩の女子院生がいましたが、あんな不細工な面白くもなんともないオッサンと、真夜中までいっしょにいられる、その神経の図太さと美意識のなさに、まだ若かった私は大いに震撼したものでありました。「世の中には、まったく私には理解できない人々が生息するんだな・・・」と。

私の指導教授は、「清く正しくハンサムで無駄口たたかないセクハラなんて夢にも思わない」神父さんでよかったなあ〜〜♪ほんと、私ってラッキー。何の話か?

先日も、年末年始の3週間ほどニューヨークに滞在して帰ってきた学生(例のゲイの恋人どうしの・・・)が研究室に挨拶に来ましたが、ちゃんと「荒野を自分の脚できちんと歩いてきた凛々しい青年」の顔になっていました。一回り大きくなっていました。ほとんど毎日自炊したそうです。すごいなあ。その体験談を少しだけ聴くことができましたが、とても楽しかったです。

青春のさなかにいるのは苦しいだけ、寂しいだけ。しかし、「青春にいあわせること」は、もう愉しいばかりです。すみません。今日のランド節は、ただこれだけの話なんです。いいじゃないですか、たまには、自分の幸福をみせびらかしたって。むふふ。