アキラのランド節

幕末明治は福岡のアイン・ランド゙---高場乱(たかば・おさむ)のこと(その2) [04/06/2007]


4月になりました。今年は、体調が悪かったので、散歩がてらのお花見もしませんでした。どこかから吹いてきてベランダに落ちる薄桃色の花びらを見ていました。

授業があるときは無理と判断し、白内障の手術は夏季休暇に入ってからということになりました。な〜〜んと、右目のみならず、左目の水晶体も、うっすら曇り始めているそうです。私は馬鹿なので、ピンときていません。ただ、NHKの大河ドラマ『風林火山』の山本勘助の眼帯に親近感を覚えるようになりました。しかし、あの由布姫はなんとかならんか。女優さんには「ロマンチック」を感じさせて欲しい。国体やオリンピックじゃないんだからさ。勘助を慕う村娘を演じて、すぐに殺されてドラマから消えた貫地谷かほりちゃんは、よかったなあ。『スウィングガールズ』のときから、主演の上野樹里より、ずっと良かった。今は、三菱東京UFJ銀行のコマーシャルに出ているそうですね。そんなもんに出ると、安っぽくなるのになあ・・・

ところで、体調の悪さは「体の冷え」からということで、内臓をもっとじっくり温めようと、半身浴をし続けていますが、これはいいです。体内の穢れ(けがれ)といいますか、老廃物が出るような気がします。きっと出ているんだろう。

「半身浴」というのは、入浴時、ぬるめのお湯に15分から30分ほど、「みぞおち」まで浸かることを意味します。足から「みぞおち」までですよ。頭から「みぞおち」までではないですよ。「みぞおち」って、どこなのかわからないので、テキトーにやっています。ひよこのキャラクターがプリントされている黄色いガキ用の洗い場用スツール買ってきて、それを湯船の中に沈めて、そこに腰掛けてボケ〜〜と半身浴をしていると、空襲も灯火管制もない平和が、しみじみ、ありがたく感じられます。

こういう半身浴タイムは、water resistantのCDデッキを浴室に持ち込んで音楽を聴くのがいいです。こういう場合、クラッシック音楽は駄目です。いくらなんでも雅楽は畏れ多いです。やっぱり、ニッポン歌謡曲ですね。先週の半身浴タイムは、1960年代の加山雄三さんの曲を集めたCDを聴いていました。今週は、薬師丸ひろ子さんの1980年代のヒット曲集めたCDを聴いています。

私が親元から離れて生活を始めたのが、つまり、ささやかながら「自立した生活の苦労」を始めたのが1980年でした。ですから、1980年代前半というのは、私にとって、ほんとうの意味での遅ればせながらの「苦闘の青春」でした。薬師丸ひろ子さんのCD聴くと、その頃が思い出されて、ちょっと泣けてきます。ひろ子ちゃんの声は、なんとロマンチックなことでしょうか。声には人格が出ますからね〜〜美声でも、うさん臭い下司(げす)な声ってありますよ。でも、ひろ子ちゃんは美声で、かつ人格もいい声だ!

加山さんの歌は、大ヒットしたものではない楽曲にも、すごくいいものがたくさんあります。素晴らしいです。この当時の加山さんには音楽の天使が5人ぐらいコーチしていたのではないでしょうか。特に、「心の海」は名曲中の名曲です。

「鴎(とり)のつばさ 濡らしながら/歌え 僕の心の海/今日も独り 膝を抱いて/きこう海の やさしい声を/よせて又かえす 若き日の夢よ/広くはてもない 希望の旅路よ♪」という岩谷時子さんの作詞です。ご存知ですか?ちなみに私の実家が檀家のお寺の名前は、「心海寺」といいます。ガキの頃から、お墓参りのたびに、「いい名前だな〜〜」と思っていました。関係ないな。

ここだけの話ですが、実は「私の主題歌」は、中学生の頃から、加山雄三さんの「旅人よ」です。「風にふるえる〜〜緑の草原〜〜♪たどる瞳輝く〜〜若き旅人よ〜〜♪ おきき、はるかな空に鐘が鳴る〜〜♪」という、これも岩谷時子さん作詞の名曲ですね。私が背中を見せて歩き去っていくとき、この曲が、どこかから流れていると思ってください。

戦後日本のこの清冽な名曲を若い人は知らないでしょう、可哀想に。日本の次元がズタズタに落ちた時代に生まれ育っているからなあ、可哀想に。みなさんは、20年後の日本を立て直す世代です。皆さん自身は身に覚えがないでしょうが、みなさんの魂がそれを選んで、この時代のこの国に生まれてきてしまいました。いわば、みなさんは魂の志願兵です。霊的戦士です。もろもろに汚染されずに、しっかり生きましょう。経済的に困っているわけでもないのに子どもの給食費を滞納して平気な世代の連中なんか相手にしてはいけません。あの方々は、lost generationです。あらかじめ日本史から消えている人々です。でも、そんなこと口に出して言っちゃ駄目ですよ。黙って了解だけしていればいいのです。馬鹿を相手に喧嘩しちゃいけませんよ。ご両親がご苦労なさって振り込んでくださった授業料分以上に、しっかりきっちり桃山学院大学の人的物的資源を活用しまくってください。図書館に下宿しているつもりで、入り浸ってください。教師は、おだてながら、こき使いましょう。日本の大学という場所は、カラダさえ運べば、なんとか卒業できます。単位が危ないと思ったら、試験前に教師に是非とも御相談ください。たっぷり特別に課題を出しますから。試験が終ってしまってからは、成績が出てしまってからは、どうあがいても無駄ですから。そこんとこ、よろしく。これで、入学式に贈る言葉と代えさせていただきますって、何の話か?

不思議なものですね〜〜体調の悪いときって、小林旭さんのCDを聴くことができません。大陸を吹き抜ける風のような、あっけらかんとした哀しみが宇宙に拡散するような、あの澄んだ高音の旭さんの歌は、私が元気なときの、「中学生のワルガキみたいな、いちびり気分」といいますか、「ちょっといかれた軽度の躁状態」のときでないと受け止めることができないようです。

なんのかんの言っても、根性なしの私が最終的に選ぶのは、無難な甘い癒し系タイプなんかしらん?という、自分に対する疑惑&軽侮が生まれました。ははは。

そういえば、「ジャニーズ事務所なら、<嵐>の桜井君がいいなあ」と、うっかり口に出したら、私が密かにヒイキしている男子学生が、「あいつが慶応出てるからでしょ?」と、いかにも軽蔑的に馬鹿にしたように言いました。「鋭い!」と、私は思いました。北風の中を独りで歩いているみたいな男らしい男の子が好き〜〜と口では言っている私の、「ベビーフェイスのお坊ちゃんタイプもいいね」という、陳腐な趣味を、その学生さんは、しっかり見抜いておりました。とはいえ、桜井君が幼稚舎から慶応なんて、そんなこと、あたいは知りませんがな。

その私のベタな趣味を、つまりは俗物性を、ご親切に指摘してくださった学生さんも、本人は「いっぱしの俺」のつもりらしいですが、実は「甘えん坊のボク」です。うっかり小奇麗な格好をすると、女の子みたいに見えかねない自分のキレイさに照れていて、わざと小汚くワイルドに見せようとしています。まあ、南大阪で、「若い頃の吉永小百合みたいなキレイな瞳の男の子」でいることの「場違い」に同情はしますが・・・しかし、悪く見せようとしたって、オバサンの眼力を欺くことはできません。ですから、私の前では地声で話しなさい。甘ったれた地声で話すことを許可します。ちょっとドスをきかせた、カッコつけた低目の作り声は、南大阪の男仲間か彼女用にとっておきましょう。

人間は、自分の好みという単純なことさえ、いや単純なことだからこそ、自己把握しそこねるものでありますね。というか、どっちかを選べたって選べないですね〜〜小林旭さんは大好きだけど、加山雄三さんも好き。堀北真希ちゃんも好きだけど、薬師丸ひろ子さんも大好き。<嵐>の二宮君も好きだけど、桜井君も好き。ハワード・ロークも大好きだけど、ゲイル・ワイナンドも好き。スティーヴン・マロリーも大好き。冷麺も好きだけど、石焼ビビンバも食べたい。チヂミも好きだけど、チ・ジニさんも好き。そういうもんですよね〜〜って、何の話か?

そうです。高場乱(たかば・おさむ)さんに関する続編でした。

今までのところ、高場乱さんに関する文献は2冊が入手可能でした。1988年出版の土井敦子氏の『天翔ける<高場乱>』(発行人は土井氏で、製作は新潮社)と、1997年に出版された永畑道子氏の『凛 近代日本の女魁・高場乱』(藤原書店)です。どちらも小説です。土井氏の小説の表紙は、弟子が高場乱さんを描いた絵を使っておられます。土井氏のものは、アマゾンでは入手不可ですから、古書店ネットワークでどうぞ!

土井敦子氏は、1926年生まれで、主に福岡や九州の歴史を題材に小説を発表なさってきた福岡在住の歴史作家です。九州は筑前の修験道の世界を描いた『姫胡蝶花』(ひめしゃが)(葦書房、1981)は、藤沢周平氏の推薦も受けておられます。永畑道子氏は、明治の群像を描くことで知られた歴史作家です。与謝野晶子を描いた『華の乱』が映画化されて有名ですね。

おふたりとも、資料のとぼしい高場乱という女性の生涯を描くことに、格別の思い入れと使命感を持っていらっしゃることが、作品からうかがえます。そうですよねえ、日本の女性歴史作家ならば、この高場乱という女性は描きたくなりますよね〜〜

当然ですが、おふたりのアプローチはまったく違います。土井敦子氏は、高場乱さんの家系とか、家業の眼科医の系譜とか、江戸期の眼科の医療の具体例や使用した薬品などを丹念に調べていらっしゃいます。乱さんは、「高場流眼科」という医療技術が「一子相伝」の世界の方なのですね〜〜江戸時代は、医者の世界まで家元制度だったのですね〜〜なんと、この高場流眼科は、「白内障」の治療に定評があったそうです。白内障と診断されて、いっきょに疲れが出て寝込んでしまっていた私は、その偶然に驚きました。

で、思い出しました。45年ぶりくらいに思い出しました。私はガキの頃は漫画家志望だったのですが、たった一度だけ「お医者さんになりたい。眼科のお医者さんに」と思ったことがあるのです。なんで唐突に、そんなことを思ったのか、もう覚えていません。なんで眼科だったのかも覚えていません。しかし、そのとき、今は亡き父親が、「アンタ解剖できるの?」と私に言ったのでありますね。「絶対に無理!」と、私は諦めました。ネズミ捕りでネズミを生け捕りにしたがるくせに、獲物のネズミ処理=殺害の汚れ仕事は父に押しつけ、チャンバラ映画の血にさえ気分が悪くなる私の神経質な小心さ(繊細さ、じゃ!)を、父は、うんざりするほど知っていました。

幕末から明治にかけて福岡は博多の眼科医で、白内障治療で定評のあった高場乱さんとの、この時期における「出会い」は、これは偶然ではありません! と、思い込みの強い私は、また勝手に思い込みました。

土井敦子氏の『天翔ける<高場乱>』によりますと、福岡藩は眼科に縁が深かったそうですよ。本ウエッブサイトの掲示板登録者のchizuruさん情報によりますと、江戸時代は尾張にも代々の眼科医の家系があったそうで、その家は現在でも途切れずに名古屋の大きな眼科病院だそうです。へ〜〜〜!!

以下は、土井氏の作品からの情報です。

乱さんは、博多で代々眼科を営む由緒正しき高場家に、1831年天保2年に生まれました。このお父さんは、娘ばかり生まれるんで、「もうっ、いや!」とばかりに、できのいい次女の乱さんをガキの頃から男の子として育ててしまいました。10歳で元服させて娘に帯刀させました。15歳くらいから、娘に実際に眼科医療をさせました。

父親は先妻さんとの間に息子(つまり乱さんの異母兄)さんがいたのに、この息子さんには自分の跡を継がせませんでした。この息子さんの方は秋月藩の藩医となり博多を出ましたが、後に不祥事でこの息子さん早々と隠居しています。この息子さんに関しては、できが悪い・・・と、お父さんは見越していたのかも。

こういうことも、ありだったのですね〜〜江戸時代に・・・『女大学』の貝原益軒の影響の強いゴリゴリの男尊女卑のメッカみたいな福岡藩で・・・後世の人間が思うほど、江戸時代は硬直した時代ではなかったのか、もしくは、人間の熱い意志があれば何とでもなるものなのか、父親は画策して、娘を「跡継ぎの息子」にしてしまいました。

途中で、このお父さんは、「やっぱり、まずいかな?」と思い直して、16歳の乱さんと親戚の男性を結婚させ、この男性を婿養子にしようとしたのですが、土井さんの小説によると、「祝言の翌朝」に乱さんとこの男性は離婚したそうです。婿養子先から一晩で追い出された男性の名前は、徹底的に秘されて、もう誰であったのかNobody knowsです。

20歳前後のころに、乱さんは福岡藩では有名な「亀井塾」という学問所に入り、すぐにその塾の秀才「四天王」のひとりと目されました。福岡藩って変なところです。この亀井塾には、乱さん以外にも女性の塾生がいたことがあったそうです。塾長の血筋の亀井小栞(かめい・しょうきん)という女性と、原采ヒン(はら・さいひん)さんです。「ヒン」の字がパソコンで出てきません。ややこしい字です。この原さんという女性は、乱さんより33歳年上で、男装に太刀を帯びて、単身日本中を旅して師を求め学問を深め、閨秀詩人(けいしゅうしじん)として名をはせました。閨秀詩人というのは、女性詩人のことです。昔は、女性作家のことを閨秀作家と呼びました。雅(みやび)ですね〜〜「諸国放浪の男装の女詩人の女傑」・・・こういう生き方も、ありだったのですね〜〜江戸時代に・・・

やる気があれば、能力があれば、江戸時代の日本でも、こういう生き方を女ができたのです。環境や差別や人々の無理解のせいにして愚痴だけ言っていてはいけませんよね〜ほんとにやりたくて、やっている人は、愚痴言っている暇がないです。

土井敦子氏の『天翔ける<高場乱>』を読んでいますと、びっくりします。江戸という時代が、すごいものであったと思わされます。福岡という、江戸からかなり離れた地方なのに、しっかりきっちり高度な文化が根付き伝えられ、人材が養成されていたのだとわかります。

だいたいが、日本全国、すでに文化文政年間には、「寺子屋」(小屋じゃないよ!子屋!)の普及によって、農民も商人も字が読めて書けましたからねえ〜〜「黄表紙」なんて、今のマンガ雑誌の先駆みたいなイラスト入り読み物が流通して、庶民は読んでいました。だからこその、現在の日本のアニメ文化があるんだぞ。『攻殻機動隊』は江戸時代からの識字率の高さと、鳥獣戯画以来の日本画の伝統と、商業の発展の帰結なのだ! あ、これは私が外国人留学生向けの「日本アニメの諸相」というクラスの第1回目に、私が、ちょっと自慢げに話すことです。ネアンデルタール人の末裔のヨーロッパ人に、明石原人の末裔が自慢しています。でも、みんな人類!って何の話か。

ところで、みなさん、「近代図書館」って、どこが発祥の地かご存知ですか?なんと、なんと、実は博多の櫛田(くしだ)神社の「櫛田文庫」のようです。図書は博多のお金持ちが寄贈してくれたりして、閲覧室もあったそうです。ただし、貸し出しは禁止でした。ともかく、開かれた近代図書館のはしりだったそうです。ボストン市立図書館より50年も早かったそうです。すごい〜〜

女性でも、能力があれば勉強をさせるとか、学問の世界は開かれているべきだから、高価な書物にアクセスできる場所を作ろうと思っちゃうとか、福岡の人々は面白いですね。新しい風は福岡から。あ、そういえば、ホリエモンも福岡出身でしたね。南山大学の大学院で私の指導教授をしてくださったアメリカ人神父さんは、退職お祝い&謝恩会の帰りのタクシーの中で、「ホリエの逮捕はおかしい。悪いのは日本政府である。日本の政府は、最近もっと露骨に国民を管理するようになった。東京からの指令で、日本の大学の独自性や自立も阻まれている」と、いろいろお話になられました。先生、なんで、そういうような話を、私が院生の頃に、もっと話してくださらなかったのでしょうね?

それはさておき、土井敦子さんの『天翔ける<高場乱>』は、高場乱さんの(想像的)伝記というより、江戸期の文化文政から幕末、明治の初期のころの、文化的地方都市の変遷を描いたものとして読んでも面白いのです。

幕末の福岡藩は、藩主の方針が、尊王派にぶれたり、佐幕派にぶれたりしました。そのたびに尊王派の人材が処刑され粛清されたり、佐幕派の人材が処刑されたり・・・お殿様も、あちこちの顔色みて、いろいろ判断に困ったのでしょう。そういうことを繰り返してジタバタしているうちに、福岡藩は、明治維新のメインストリームにのっかることもできず、藩の人材が手薄になってしまいました。人材殺しちゃったから・・・

で、明治維新となり、維新の下克上の波に乗り損ねた下級武士たちは、期待したわりには自分たちに機会はめぐってこないと知ります。そのうえに武士の身分や特権が剥奪されるとわかりまして、反政府的感情をつのらせていきます。日本は薩長土肥の一部の連中に好きにされている・・・と義憤にかられていきます。こんなはずではなかったのに・・・と。

明治維新までのドタバタは、よくドラマ化されたりしますが、幕末から明治初期の激動期に翻弄された普通の武士たち=普通の藩士たち=ユダヤ系英国資本の情報も後援も何もなかった士族=映画『長州ファイブ』の連中みたいに、要領よく西洋の走狗になった人々ではない人々にとっての右往左往と逡巡と焦燥を描いたものって、ないでしょう?土井敦子さんの『天翔ける<高場乱>』は、稀有なことに、そのあたりを、よく描いておられます

高場乱さんの私塾の塾生たちは、右往左往させられた下級武士であったのです。福岡藩の優柔不断で殺された人材の子弟も多かったのです。ですから、維新後の反政府的武装蜂起の首謀者となり、逮捕されて刑場の露と消えた弟子が多かったのです。西郷隆盛に期待して西南の役に参加して戦死した弟子もいました。はっきり言えば、維新後の日本の表舞台に立つことができた青年は、つまりうまく出世できた青年は、いなかったのです。

西洋列強に対して一致団結して抵抗しようと大アジア主義を唱えて、孫文や蒋介石に協力した頭山満は、有名ではありましたが、影響は大きい人ではありましたが、思考のスケールは大きい人であったようですが、いわゆる「出世した人」ではありません。無官の無冠の国士であります。

戦後、やっきとなって、GHQが玄洋社をつぶしたのは、さすが、よくわかっていたんだよね。こーいう類の日本の男が出てくるような精神風土こそ、絶対にたたきつぶすべきだって・・・日本人の去勢は、まず九州は福岡からと・・・なるほど。

ともあれ、世俗的価値観から離れて、大義のために生きたがゆえに滅び、後世の日本人に忘却されてしまった男たちの若き日々を教えたのが、高場乱さんでした。

一方、土井敦子さんとは違って、永畑道子さん著の『凛 近代日本の女魁・高場乱』は、高場さんの弟子たちにとっての明治初期を中心に描いておられます。その弟子たちの数奇な運命を、黙って愛惜の念で見守る存在として、高場さんは描かれていまして、土井さんの小説ほどには、永畑さんの小説は、高場さんの人生そのものには肉薄していません。どちらかというと、弟子たちが物語の中心です。

しかし、さすがです。高場乱が女性の師だったからこそ、「純粋な私利私欲のない大義に生きて死に急いでしまった男たち」が育ってしまったことを、ちゃんと永畑道子さんは、示唆しておられます。

これは、どーいうことかと言いますと、ほら上野千鶴子さんが『生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠』(岩波書店、2006)において、「周辺エリートがむしろ半周辺を飛び越して、中心の論理に過剰に同一化をすることで、周辺が中心のグロテスクなカリカチュアになる」(p.18)ことについて書いておられたでしょう?簡単に言えば、「二級市民」のなかの優秀な奴は、「一級市民」の倫理を過剰に実践してしまって、「一級市民」の「大げさな真似っ子」になってしまう、ということです。田舎の女の子が東京に出て来て、東京出身の女の子より、うんと都会っぽくお化粧してお洒落して、ついにはクレジットカードの借金がかさんで自己破産するようなものです。

高場乱さんは、女性であったからこそ、ついつい自分が漢学や古学から学んだ「君子の生き方」「男としての見事な生き方」を、まともに、もろ本気にしてしまったのですよね。現実の男には、めったにいない「男らしい男」の美学と倫理を内面化してしまったからこそ、彼女が教えることは、下級武士の子息の心に深く鮮やかに生き生きと刻まれてしまったのでしょう。もう実質的には死んでいる「武士道」を、弟子たちは下級武士だったからこそ、師匠は士族ではあるが医者であり、かつ女であったので、一層に本気で信じてしまったのですね。遠いからこそ、憧れて、学び信じたのですね。

これ「新撰組」と同じです。彼らは、出身としては武士の周辺でした。彼らが、憧れて奉仕した「中心」たる幕府は、武士道なんかどうでもよかった。将軍の徳川慶喜なんか、戦場をサッサとおっぽり出して、部下を置いてきぼりにして、逃げ出したんだから。会津の抵抗も、江戸から離れた周辺ゆえでしたでしょう。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線における日系二世部隊の奮闘も、周辺アメリカ人だったからです。泣けてきますね。

高場乱さんが暴れん坊のやんちゃな弟子たちに、尊敬もされ、心から慕われたのも、乱さんが、やっぱり女だったからです。いい意味で男の子たちを甘やかしたのですね。弟子たちも、厳しく訓練されながらも、叱られながらも、この女の先生に甘ったれていたと思います。先生が、「男の子なんだから、これくらいの乱暴も、これくらいの血気も、これくらいの大雑把さも、男として当然だろう〜」みたいな気持ちで、自分たちを温かく見て、面白がってくれているということを、弟子たちは感じていたのでしょう。

どんな人間関係でも、基本は「情」ですからね。相手の知性に訴えて理屈で動かす前に、まずは「情」でつかまえないと。実は、「愛情を出せる」というのが、人間にとって一番困難だったりしますよね。執着じゃなく、依存じゃなく、依存の変形の支配欲ではなく、愛情を出せるということが、一番しんどい。人間の大きさって、人格の高さって、そこに依拠しますよね。

ぶっちゃけて言えば、高場さんは、自分が男じゃなかったので、男の子たちの生態が物珍しくて面白かったんだと思います。男の子がよくわからなかったんで、放置して受け入れるしかなかったというか。また、たとえ謝礼をいっさい取らなかったからといえども、女が塾長の私塾に入る男の子たちなので、わりと資質として素直な子たちだったのでしょう。だから、よけいに、高場乱さんは弟子たちが可愛かったんだと思います。私も女教師のはしくれなんで、そういうところ、よくわかります。

ともあれ、周辺エリートの女性に教えられた周辺エリートの下級武士の子息は、周辺に位置したからこそ、エリート男性にとっては、形式形骸でしかないような、方便でしかないような漢学や国学の美学と倫理を、過激に生きてしまいました。

だからこそ、明治維新後の政府のやりかたの、本来の「維新」とはかけ離れたあり方に、反旗を翻したのですね。国会創設とか自由民権運動とか、抵抗の大義名分は、いろいろあれど、高場乱さんの弟子たちの反逆の根っこにあった心情は、「政府は卑怯だ!まったくカッコ良くない!男じゃない!そんな生き方は絶対に間違っている!そういうふうに、俺たちは学ばなかった!」という倫理的美学的嫌悪だったと思います。政府のやり口を認めたら、彼らの価値体系が、それを学んで信じた彼らの青春自体が、つまり彼らの存在が、根こそぎ否定されるんだから。

女って真面目だからさあ・・・なんで女がセクハラにあれほど怒り傷つくかといえば、周辺にいるからこそ、中心にいる男性に対して幻想が、期待があるからなんですよ。無意識にも男はエライと思っているのに、その男が裏切って馬鹿やるから、傷ついてしまい、とっさに抵抗の声も出ないの。育ちのいい優等生の女性ほど、そうなるの。で、セクハラ撲滅の魔女狩りに走るの。

なんで、私がセクハラされなかったかといえば、たまたま私が育ちが悪くて馬鹿だもんだから、優秀な男がいるような世界に所属したことがないもんだから、つまり周りが馬鹿ばっかりだったので、前提として、男が賢いと思ったことがなかったので、ちゃんと警戒できたのですね〜〜「うちのお父さん以外の男は馬鹿〜〜お父さん以外の男は信用できない〜〜お父さんは女の子には色気はいらない、殺気で十分と言っていたしい〜〜愛嬌のある女の子なんて品がないって言っていたしい〜〜♪」というわけで、私は無事にすんだんですよ〜〜

つまり、私は周辺どころか「人外境」にいたので、中心から「極北」にいたので、中心に対する幻想もなかったのですね〜〜狼に育てられた野性の少女みたいなもんです。ははは。こういう人間が、よく無事に食ってこれたよなあ・・・いや、だからこそかな?

ですから、私の男子学生さんたち、安心してね。私は、とうてい高場乱さんみたいに優秀でも真面目でもないので、みなさんに「理想」なんか教えませんから。私は、「周辺」どころか、野蛮人ですから。私自身は、至極真面目な人間ですが、それは学校や世間が期待する真面目さではないので〜〜だから、私の言うことを真に受けて、大義に走って滅びるなんてことは、絶対にありえません。安心して、私の影響を大いに受けて、楽しく明るく、しかし油断せずにサヴァイバルして行ってください〜〜って、何の話か?

で、次の話はアイン・ランド゙になります。なんで高場乱さんが「幕末明治は福岡のアイン・ランド」か、という話になります。と同時に、なんで高場乱さんは、かくも世に知られてこなかったかという話になります。

ちょっと疲れてきましたんで、この続きは、また続編に書かせていただきます。とはいえ、この「ランド節」をずっと読んでくださる方ならば、私が、いい加減で、気まぐれで、続編を書くといいながら書かないし、あれ書く、これ書くと言明しておきながら、平気で捨て置いているということは、すでによくご存知だと思います。

はい、私は漫画家の西原理恵子さんの言葉を借りれば、「三歩歩くとすべて忘れるニワトリのような記憶力しかない人間」=「鳥頭」です。申し訳ありません。「今、この瞬間」にしか生きていない「鳥頭」です。私の「鳥頭」については、家族も学生さんもあきれています。

前に勤務していた名古屋の女子大の同僚の中に、アイデアはやたら出すのですが、出しても仕方ないようなアイデアばかりで、「下手な考え 休むに似たり」の実例を。ひたすら蓄積している奴がいました。そいつには、この「鳥頭」を、しっかり活用していたな。忘れたふりして仕事せず、うやむやにして、静かに黙って強引になかったことにして、知らん顔するという策ですね。

サボられても、それですんでしまう程度のことを「仕事」と称して、むやみに思いついて、思慮もなくすぐに口に出して、しかも自分では実行しないで、他人にさせたがるような、当事者意識のない人間って、職場には必ずいますからね〜〜時間と無駄な意欲だけはたっぷりあって、いつも瑣末なことばかりギャアギャア言い立てるわりには、ハネのけられると、すぐに引っ込めちゃう信念も粘りもない奴は、組織において一番有害だ!どこかの国の前首相みたいだな。こういう馬鹿には、「鳥頭作戦」です!べつに、「有能な仕事ができる人」と見られなくたっていいもんね。どうしてもしなければならない仕事なら、私は必ずする。黙ってする。

みなさま、いっさい期待せずに、続編をお待ちくださるようお願いいたします。