アキラのランド節

「自己啓発本」と「自己啓発を否定する自己啓発本」という自己啓発本の二大潮流  [07/16/2008]


暑い日が続きます。充実した研究休暇の日々が100日経過しました。幸福です。しかし、すでに勤務先の教務課からは来年度の担当科目やゼミのテーマについて連絡が来ています。

ゼミのテーマには悩みます。しっかり外書購読したいところです。だけど、脳も身体も心もお気楽状態に慣れきった、ほんのささいなこともストレスになって簡単に「うつ病もどき」になるタイプが多い今どきの学生さんはついて来れるのか?いや、他人のことはどーでもいいよ。私自身が、そのような学生さん相手に粘り強く対することができるのか?

私は少人数のゼミは嫌いです。うんと年下の、やっと亜人間から抜け出しつつある人間の相手をするのは、ほとんどの場合は、ほんとうは極めて退屈です。仕事だから、退屈だから帰るというわけにもいかないので、ついつい一方的にしゃべりまくってしまうから、学生さんのほうも「うっるさいオバハンだなあ〜〜」と思うだけです。ゼミのテーマ・・・ああ、悩ましい。

「アメリカの自己啓発本の古典から新種にいたるまで、分析でもしようかな〜〜アメリカ文化研究になるよな〜〜」なんて考えながら、まだ迷っております。

というわけで、今日は「自己啓発本」について書かせていただきます。本というものは、荒っぽく大雑把に言えば、すべてが「自己啓発本」です。私が言うのは、自己啓発(self-development)のための自己啓発本のことです。

その自己啓発本について、この日本において、2年ほど前から、「あ〜別の流れが出てきたなあ〜〜」という感慨を、私は持つようになりました。

自己啓発本というのは、自己啓発本なので、まずは「あなたには可能性がある。自分の人生を幸福にするのは、あなたの責任である。あなたは自分の人生の成功を確信しないといけない」という心構えを説いてくれます。次に、「では、どうやったら、自分が望む生き方ができるようになれるか?」という方法を開陳してくれます。だいたいが、こういう構成です。

アメリカの自己啓発本は、私が知る限り、なんのかんの言っても、「幸福な人生を成立させるのは富=カネ」というコンセプトで貫かれております。

1911年に出版以来、未だに読まれ続け、日本でも翻訳がたくさん出ているウォレス・D・ワトルズ(Wallace D. Wattles)は、その良質な代表例です。アイン・ランドもこの人の本を読んだのではないかな?と私は推測しております。形跡あるもの。21歳で単身アメリカに渡り、The Fountainheadが売れるまでの約20年間は、いろいろ苦労した女性です。その青春の孤独と貧乏の苦闘の輝きは、The Fountainheadに生かされておりますが。

アメリカの自己啓発本といっても、18世紀のベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)までさかのぼる必要はないでしょう。ともあれ、アメリカの自己啓発本には、マックス・ヴェーバーが論じた資本主義の精神の源流であるプロテスタント(ピューリタン)の倫理と、ダーウィンの進化論の変形である社会進化論的世界観(生き残るのは優れたもの。そうやって社会は進歩するという思想。つまり勝って生き残った者が進化的に正しい。結果オーライ!)が、脈々と受け継がれています。

ヨーロッパ系(正確に言えばドイツ文化圏系)の自己啓発本は、カネがどうのこうのより、「人生をいかに生きるべきか」を語ります。代表例は、スイス人のカール・ヒルティの『幸福論』(岩波文庫、全3冊)です。といっても、19世紀に出版されたものです。

この本は、クリスチャンが書いたとは思えないぐらいに、キリスト教倫理の最良の部分を基礎にして書かれていて、かつ実践に有効な方法も紹介されています。ヒルティは法律家でありました。政治にも従事しました。口説の徒ではなくて実業に従事した実践家でした。ですから言っていることがリアルです。甘くないです。同じ『幸福論』でも、アランとは大違いに質が高いです。

ヒルティの『幸福論』は、今読んでも素晴らしい自己啓発本であります。19世紀に書かれたにしては、女性観など、なかなか新鮮で開明的です。きっと、お母さんとか奥さんとか、質のいい女性に恵まれたのでしょう(ここで、いちいち引用して紹介などしません。暑いから面倒くさいよ)。

2000年前の人が言ったことを弟子がテキトーに書き残したとされる『聖書』や、何千年前のインドで放蕩を尽くした王子様が放蕩に飽きて漂泊した末に言ったことばを記したんだか解釈したんだかの仏教の経典を、21世紀の人間がまともに読んでも意味がないと、私自身は思っています。性差別的でゲイ差別的で民族差別的で、ろくなもんじゃない。

私は、宗教的感情の持ち主ではありますが、お墓参りしますが、神の存在も、霊の存在も、魂の永遠も転生も、わからないからわからないままにして結論出さない「不可知論者」です。さすが「人格神」は信じていません。人間みたいに喜び嘆き悲しみ嫉妬して怒る神様ってアホくさくない?「人格」のある神様って安っぽくて下品じゃない?

神様がいなくてもいても、この世界の運営に関しては、人間に責任があるのですから、理不尽なことできないでしょう。理不尽というのは(当座の間はいざしらず長期的には)現実に通用しないから理不尽というのです。人間の個人的幸福の達成とサヴァイバルに必要だから、個人が属する集団社会の運営と繁栄とサヴァイバルに必要だから、人間は道徳を守るのです。長期的視野に基づいた自己利益の観点から合理的に(合利的に)考えたら、そうするしかないのです。

あ、このあたりは、アイン・ランドのThe Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism(1963)を読んでくださいね。今年中には翻訳をビジネス社から出版していただきますから、読んでくださいね!

ともあれ、神様が見ているから、聖典に書いてあるから、道徳を守るわけではないでしょう。人間の利益にかなうようにまっとうに、人間が生きる社会が運営されてゆくために道徳や倫理が作られたのです。神様がいなくても、必要なものは生まれ保持されるのです。

「宗教」そのものは、21世紀以降は必要なくなるでしょう。「宗教」なんてものは、もう役割は終えています。なぜならば、体系だった世界観のある宗教というものは、そこで世界観が絶対化されるわけで、疑問とか許さないですから、人間の思考を止めてしまいます。「考えるな!無力な人間の思い及ばぬ宇宙の真理なのだ!考えるな!感じなさい!信じなさい!」と、本気で人々に言う宗教は、すべて邪教にならざるをえません。人間の進化の邪魔です。頭脳訓練の邪魔です。

「聖職者」がいくら優秀でも、何人いても、世の中は良くなりません。世の中を良くするのは、はっきり物質的豊かさです。物質的豊かさを具体化できる科学者であり技術者であり、科学者や技術者が発明したものを生産し伝播する産業家&企業家です。

ちゃんと勉強して「工学部」か「農学部」に行くべきだったよな、私。もしくは熟練した職人になるべきだったよな、私。

農業革命による食料大増産のために、文字通り食べるための弱肉強食の生存競争から人間は解放されました。その食料大増産の帰結である人口増大=過剰人口の解消(移転)と過剰人口の職探しのための新天地分捕り合戦の大航海時代が始まりました。

大航海時代によって発見された土地の植民地化から得た原料の加工製品を大量生産する産業革命により、流通する物の数が増大し価格も下がりました。そのおかげで、一般大衆もその成果を多少なりとも手に入れることができるようになりました。

その経済システムを維持するための良質の労働者確保のために国家が整備した(義務)初等教育のおかげで、識字率が向上しました(日本は例外。江戸時代の寺子屋は世界の奇跡だな〜〜江戸期の識字率80%って、ほんと?)。情報にアクセスする手段を持たなかった「ふつ〜の人間」が無知から解放されるようになったのです。

もちろん、出版社の整備、職業的物書き層の誕生、本が商品として流通する市場の形成と拡大、公立図書館の整備なども、「ふつ〜の人間」が無知から解放されるための物質的条件です。これらの物質的条件をそろえた根源の条件は、食料という物質の生産性の向上です。

かなりの数の人間を飢餓と暴力と貧困と無知から解放したのは、宗教でも聖職者の祈りのせいでもありません。だいたいが、「聖職者」という立場の人間の存在を可能にするのも、食料生産に従事しなくてもいい人間の存在を可能にするような集団や社会の形成が前提となります。この意味で、「聖職者」や「宗教組織」を作ったのは、物質的豊かさです。「托鉢の坊さん」なんて、恵んでもらう余剰食糧がなければ、のたれ死ぬしかない。

食っていければ礼節を知り、アホな大衆でも思考したり本を読む余裕ができます。心の豊かさなるものを得ようとする契機を持てるのです。通俗軽薄極まりない女の子でも、コスメやブランドバッグに飽きた末に、「心の安定が欲しいわん」と思うようになり、たとえ字が大きくてページ数の少ない薄っぺらな「スピリッチュアル」本でも読み始めるのです。何も読まないよりは、はるかにましです。そうすることによって、アホな女の子は、自分よりもっとアホな男との交際を解消します。馬鹿男なんかと、うっかりやると馬鹿が伝染すると悟るのです。物質的豊かさの実現は、人類の、個人の心の進化を促進しやすくします。

私は、外国人に「宗教は?」と質問されたときに、「Shintoism」と答えます(侮蔑的表情をされますが)。いちいち不可知論者であると説明するのは面倒くさいです。神道は日本のネイティヴな始原的宗教で聖典も教義も思想体系もないので、ただただモットーは「万物の霊に感謝して、清浄に生きなさい〜〜」みたいなので、一応今のところは、これにしておくだけのことです。ほんとは、「神様いなくても人類は進化向上するしかないんだよ教」だと答えたいところです。

話が逸れました。自己啓発本の話でしたね。

アメリカ的に「金持ちになるにはどうすればいいか?!」をストレートに書くにせよ、ヨーロッパ(正確に言えばドイツ文化圏)的に「人生はいかに生きるべきか」を語るにせよ、どちらにも共通の暗黙の前提があります。

大雑把に言えば、「人間は進化するものであって、個人の人生の幸福も、その個人の進歩、向上の度合いに依存している。だから、自分を向上させるべく、努力を怠りなく継続させなさい。進化する個人が協力して形成するからこそ、社会もまた進化するのです。その意味において、あなたの努力は、あなたの属する社会を発展させるもの」というものです。

古くは中村正直氏が明治時代に訳したサミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)の『西国立志編』(Self-Help: With Illustrations of Character, Conduct, and Perseverance, 1859)から、戦前戦後と講演活動した日本の中村天風氏から、最近の「コルク・ボードに尊敬する目指す人の写真貼り付けて朝昼晩と毎日見て脳に刻み込め」説とか、「願望を手帳に書いておくと実現する」説まで、自己啓発本は、いろいろありますが、格調や志に多少の違いや高低はあっても、前提は同じだと思われます。

ところが、数年前から、別の前提の自己啓発本が出現し人気を得るようになりました。著者は小林正観氏です。私は感心しました。なるほど、これは売れるし、この種のコンセプトの自己啓発本は、これからの日本社会の「安定」のためには、必要だなと思いました。

私は、小林正観氏の著書を何冊も読みました。ついでに、全国各地で開催される年間300回ほどの小林氏の講演のCDも聴いたことが何回かあります。私が、サプリメントとかスキン・ケア商品を注文する某ネット・ショップの方が、「おまけ」として下さるのです。パソコン作業しているときにBGMがわりに、ありがたく聴かせていただいています。

小林氏の自己啓発本のメッセージは、前にもランド節(2006年4月30日号と6月16日号)に書いたことがありますが、もう一度荒っぽくまとめると、以下のようになります。

「今のあなたの現状は、すべて今のあなたにふさわしいことですから、不平不満愚痴は言わずに、すべて引き受けて、感謝だけしていなさい。夢とか願望など持つから辛いのです。今のままで、あなたはものすごく幸福です。あなたが生きていられること自体が、奇跡そのものです。そのありがたさを、ほんとうに知ったならば、夢とか希望とか持って、かなえられないことを嘆く気持ちなど消えます。心配することはありません。起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです。向上しようとか、人より抜きん出ようとか思って心を悩ませることはありません。自分のことにせよ、現状に不満を抱くのは、神様のしていることに文句を言うことになるでしょう?もちろん、他人や社会のあれこれを批判することも、神様のなさっていることに文句を言うことになります。自分のすべきことだけしなさい。使ったトイレは綺麗にして、頼まれたことは引き受けてきちんとやって、感謝していれば、何も災難は起きません。神様や宇宙から愛されます」

この小林氏のメッセージの中の、「感謝を忘れるな」というのは、よくわかりますよね。ふつうに呼吸して眠って食べて消化して排泄するという、あたりまえの行為も、とても複雑な器官の複雑な集合的連動的機能です。すごいですよね、脳や内臓って。

「私が努力しているわけでもないのに、身体の各器官はちゃんと機能してる〜〜なんで〜〜??私のDNAだって、最初は何億年も昔の地球の水の中の原生動物の細胞の中に発生したんでしょう??あ、鉱物って説もあったけ?その原生動物から、こんな複雑な器官を持った哺乳類にまで進化して、人間ができあがって、すごい〜〜最初の原生動物がウジャウジャいる海から、この社会が構築されたのね〜〜おお〜〜Brave the New World! ありがとう〜〜この世界に生まれることができて、ありがとう〜〜私は、この素晴らしい世界の進化の先端にいる〜〜これほどの奇跡ってある〜〜?」と、感謝するのは、あたりまえですよね。

私個人は何も努力していないのに発明もしなかったのに、私は便利に快適に暮らしています。みんな、私ではない方々のおかげです。ありがとうございます。感謝せざるをえません。日々感謝しています。他に何ができるんじゃ。

同じく小林氏のメッセージの中の「起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです」というのも、ごく即物的に考えれば、理にかなっています。現実に起きること=その現象は、ある原因の結果ですから、「起きるのがふさわしい」のは、当然です。起きるしかない条件がそろえば、必然的に起きます。起きてしまった現象は、止めることも避けることもできませんので、受け止めるしかないのも、当然です。

起きた現象に対して不平不満悪口愚痴など言っても、起きたことが消滅するわけではないので、不平不満悪口愚痴の効果は何もないので、不平不満悪口愚痴は言わないというのも、わかります。言っても無駄なことは、黙って忘れるしかないですよね。

ただ、みなさん、すぐにおわかりになると思いますが、その「起きたこと」の原因を検証しないで、「起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです」と言っていていいのは、また、「起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです」とすましていて構わないのは、どういう類の人間でしょうか?

はっきり言って、それは、責任をもって事に対処する立場にない人、その必要のない人、もしくは責任をもって事に対処する気のない人、その能力のない人ですよね。ガキと病人だけだよ、それは。でしょ?

ある現象は起きるべくして起きる。それは正しいです。しかし、その現象が人間にとって災厄なのならば、その原因を取り除いて、もうちっとましな(lesser evil)現象に変えるべく努力するというのが、社会の進歩ですよねえ。「起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです」は、当座のときは、そうするしかありませんが、そのまんま、その状況を維持していれば、社会は停滞するばかりです。

神が実在していて、すべての森羅万象をつかさどっているから、どのように社会が変わっていくかもプログラミングしているから、人間がグチャグチャ言うな、たかが人間が賢しらに状況の打開を考えるなというのが、小林氏の前提なのかもしれません。神様にお任せしていればいいということは、そういうことかもしれません。

しかし、なんかおかしいですよねえ?

ねえ、神様って偉大なんでしょう?全知全能なんでしょう?ならば、最初から完璧な世界を作ればいいではありませんか。何億年、何十億年もの世界の長々しい変遷をプログラミングするなんて、ややこしい回りくどいことを、なぜするのでしょうか?偉大な存在のわりには、随分と能率が悪いことしていますよねえ?

人間に学ばせるためですか?人間が、じょじょに進化して賢くなるようにプログラミングしているんですか?それって、はっきり矛盾していますよ。

人間が学んで進化する存在ならば、学ぼう、進化しようと思う自由意志、選択する意志ってものが人間にはあるってことになりますよね?ということは、神様がなさるままに、翻弄されて、起きることを引き受けて感謝していればいいというのは、おかしくないですか?人間が学んで進化する存在ならば、つまり、「何でも受け止めて生きる」のではなく、「情況を変えて行く」存在であるのならば、悪しき状況を放置するのは、怠慢であり悪ではないですか?

という具合に、この小林正観氏の「自己啓発を否定する自己啓発本」に、つっこんでいても、しかたないです。本に限らず、何につけても、面白いものは、面白ければ面白いほど、つっこみどころ満載なものであります。

私が感心したのは、小林正観氏の自己啓発本は、格差の著しい社会になりつつある日本において、現状に挑み道を開く気概もないし、能力もないし、勇気もないし、頑張るストレスがいや〜〜な人々を励まし導く(?)という点において、非常に優れているというところです。

そうです。今後の日本社会の「安定」と「秩序維持」のためには、なるたけ多くの人々が、「起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです」という教訓を実践し生きることが必要なのかもしれません。

「あたしなんか無力で非力で何もできない、状況を変えるなんてできない、夢や希望なんか持っちゃいけない、ストレスが増えるだけ、ただただ神のプログラミングを信じて、ありがとうと言って、トイレ綺麗にして生きよう」と、日本人の大多数が思って実践すれば、政治家も社会保険庁も税務署も官僚も軍も警察も企業もラクですね〜〜アメリカも中国も北朝鮮もロシアもEUも、み〜〜んな、み〜〜んな、とっても平和で穏やかでラクで、日本人大好きになりますね〜〜 しつこいですが、「あたしなんか無力で非力で何もできない、状況を変えるなんてできない、夢や希望なんか持っちゃいけない、ストレスが増えるだけ、ただただ神のプログラミングを信じて、ありがとうと言って、トイレ綺麗にして生きよう」と日本人が本気で信じて実践したら、日本は1億3000万人全員が思考停止で、とっても平和です。

私が、政府筋にいたら、小林氏に文化勲章を差し上げることを提案するでしょう。いや、私が悪魔ならば、と言うべきか。あ、はっきり言っちゃったなあ、ははは。

みなさま、私が、2006年5月16日号のランド節の終わりあたりに、以下のように書いたことを覚えておいででしょうか。

「しかし、ひょっとしたら、この小林正観氏が提唱なさる考え方は、「来るべき階層社会日本の、格差社会日本の、生涯年収300万円以下の層の日本人慰撫/懐柔思想」もしくは、「新たなる中世の思想」かもしれないという話も書くつもりだったのですよ。そうなると、この小林正観さんは、心ならずも「21世紀日本版エルスワース・トゥーイー」であらせられるのかもしれない、という話も書くつもりだったのですよ。」

こう書きながら、私は、その続編を書かずにいました。やっと、その「書くつもり」だったことを、2年後の今、書くことができました。遅れて申し訳ありません。この2年間は、特に疲労がひどかったものですから。

ところで、「自己啓発を否定する自己啓発本」というものが、今の日本で非常に売れている「自己啓発本」であるということは、いったいどーいうことでしょうか?

それは、やはり人々が疲れているからでしょうか。自己不全感に立ち向かうより、無力感に抵抗するより、ただただ癒してもらいたいからでしょうか。ただただ現状の自分を認めてもらいたいからでしょうか?

「勉強ができないのは、成績が悪いのは、人を蹴倒すことができない優しさがあるからであって、競争はいっさい悪だ」と唱える小林氏の「知る人ぞ知る人気」は、やはり、これは「時代の要請」によるものでしょうか?

時代の要請とは何でしょうか?「起きたことはすべて起きるのがふさわしいから起きるのです。起きるがままに受け入れればいいのです」と唱えながら、停滞と漂流をニコニコ微笑みながら受け入れてゆく人々が国民の大多数であれば面倒くさくないなあと思う指導層の「要請」と、「現実逃避していたい」という善意の無気力な人々の「無意識の要請」です。

しかし、いくらなんでも、人口のうち少なくとも2割くらいの人々は、「自己啓発を否定する自己啓発本」ではなく、人生に挑み進化しようとする人々(=まずいことが起きたらば原因を考え改良しようと努力する人々)を養成することを目論む類の「自己啓発本」を読み、かつ本気にして実践しないと、まずいのではないでしょうか。

「自己啓発本」にも、「松竹梅」的な階層性というものがあるのですね。「もてる男となるために」とか「小悪魔になる方法」の類まで「自己啓発本」に含めたら、「松竹梅ゴミ」ということになるのかな。

問題は、「自己啓発を否定する自己啓発本」も「自己啓発本」も読まない類の人々かもしれません。ただただ無駄口並べて愚痴ばかり言って批判だけして、情況の向上に何の寄与もしない類の人々であります。無責任な類のマスコミとか評論家ですね。しかし、こんな連中は「自己啓発を否定する自己啓発本」愛読派にとっても、「自己啓発本」愛読派にとっても、どーでもいいですね。

私自身は、バランスをとるといいますか、多面的に多層的に生きたいといいますか、はっきり言っていい加減な人間なので、「自己啓発を否定する自己啓発本」も「自己啓発本」も読みますよ〜〜どちらからも得るものあります。本の中でも、「自己啓発を否定する自己啓発本」とか「自己啓発本」とかは、Book Offは喜んで買ってくれます。「すみません・・・こういうのは値段つけられないんですねえ・・・無料でもいいのならばお引き受けしますが・・・」とか言って、文学研究専門書系は買ってくれませんが・・・

「こういうの」って、どーいう意味でしょうか?世の中一般には役にたたないってことなのかな・・・