アキラのランド節

猛暑の妄想---さよなら、義務教育  [08/02/2008]


公務員の採用人事に関する不正のニュースがマスコミを騒がせています。農業も産業も商業も繁栄していない地域は、旧ソ連と同じで、公務員しか職がない。沈滞するばかりの故郷を出るという元気も能力もなければ、地元の公務員になるしかない。ならば、なんでもやりますね。不正が起きるのは当然です。

「公務員」というのが、「聞こえが良くて、解雇される危険がなくて、倒産がない職」である限りは、公務員採用人事をめぐる不正は消えません。

こういう不正を一掃したいのならば簡単です。(きつい&危険&汚いの3K仕事の)軍と警察と諜報関係以外の公務員をなくしてしまうというのが一番手っ取り早いです。もしくは、「公務員の仕事内容」をほんとに原則の意味どおりに「公僕」にすればいいです。そうすれば、教師希望者ならば、本気で教育を憂える人間しか、正義や大義に殉じたい(causeholic)「物好きな人間」しか「公僕」になりません。

しかし、本気で教育を憂える人間や、正義や大義に殉じたい人間は数が少ないです。数が少なくて、いいのです。それが健全です。本気で教育を憂える人間や、正義や大義に殉じたい人間は、一種の病気です。だいたい、他人が生んで育て躾しそこねているガキの相手するような面倒くさい仕事を、何のメリットもないのに選べる人間がいたら、変です。サイコです。

子どもなんて、大学生の亜人間より、当然にもっともっと猿に近い。限りなく猿に近い。私などガキを相手にしていると30分も経過すると飽きる。「ほんとにパンツはいた猿だな・・・こいつら」と思う。その猿を集団生活になれさせて亜人間にすることを職として選ぶのは、その面倒くささにみあった利益がなければ、やれません。「聞こえが良くて、解雇される危険がなくて、倒産がない職」だからこそ、義務教育の公教育の教師という人材の確保が可能なのです。

ですから、みなさん、自分ではできない「御奉仕」を先生方に要求しないように。猿を人間としての集団生活になれさせて亜人間にして、やっとこさ人間らしくする「近代社会維持に不可欠な大仕事」を学校に押しつけて知らん顔しちゃって、ずるいですよ。フェアじゃないですよ。はっきり言って、不正合格など瑣末なことです。悪いことに決まっていますが、「公務員業界」から、この類のことは消えません。

実は、唐突ですが、今日の私が何を言いたいかといえば、あまりの飛躍と思われるかもしれませんが、公の政府主導による義務教育の歴史的役割はそろそろ終焉を迎えつつあるのではないか、ということなのです。

政府が独立行政法人学校を経営したいのならば勝手にやってりゃいいけれども、義務教育というパッケージで、一律な教育内容を国民に強制するのは、もうやめてもいい頃ではないでしょうか。義務教育って、英語ではcompulsory education「強制的教育」です。この「強制」とは、どういう意味でしょうか。国家が国民に付与しなければならないという、国家に対する「強制」でしょうか。国民が「強制される」教育ということでしょうか。おそらく、後者なのでしょうね。

強制でもしないと、子どもに教育を受けさせない親が圧倒的に多かった時代には、義務教育=強制的教育は素晴らしい制度でした。今だって、その素晴らしさは生きていると思うのですが、そろそろ限界かな・・・とも思わされるような状況があります。

compulsory educationならば、勉強しないで授業中の教室を徘徊する子どもとか、学級崩壊をなんともできない教師とか、いじめのために授業を受けることができない生徒が放置されることとか、そういう現象はあってはならないはずです。「強制的にそういう現象を無くして、強制的に勉強させる」のが筋です。

しかし、いつしか、「どんな馬鹿アホ狼藉も許すのが義務」である教育が「義務教育」となりました。義務教育だからどんな混乱も理不尽も犯罪も怠惰にもペナルティがないという無法地帯が義務教育の現場ということになりました。どこに「強制」があるのか?禁止&抑止機能があるのか?どこで意味が変わってしまったのか?

これだけ塾が繁栄しています。ビルに空室ができると、そこに入るテナントは学習塾です。もう、ほとんどの親も子どもも、学力指導を学校に期待しておりません。期待できないのです。学級崩壊しています。すごいことになっているそうではないですか、現場は。

都会では、学級の30パーセントを占める私立中学受験組は、塾でうんとレヴェルの高いこと勉強しているけれども、学校の授業内容は平均以下の生徒に授業内容をあわせなければならないから、退屈でしかたがない。かつ家庭教育が失敗している生徒は、その退屈さを我慢できないから、授業なのに歩き回る。そこに学力の低い落ち着きのない生徒が加勢する。義務教育だから、そんな生徒も学校は排除できない。学級崩壊を放置しても教師は公務員だから解雇されない。国立大学の教員は、セクハラしても解雇されないのと同じです。桃山学院大学では辞職必至ですが。私立は厳しいんだぞ〜〜自浄作用なければ倒産するんだぞ〜〜

今や公立の義務教育機関は、よほど居住地域を選ばないと、壊れたガキたちの収容施設でしかない。初等教育の公教育機関が、まっとうな知力学力養成所として完全に機能不全であることは、もう公然の秘密です。

だから、無理してでも、親は子どもを私立中学に入れたがります。もっとカネがあればインタナショナル・スクールへ。さらにカネがあれば、海外の全寮制私立学校へ。今は、ほとんどの親は、政府に言われずとも、子どもの教育に投資を惜しみません。変転する世界状況の中で、親が子どもに残せるものは教育だけですから。「学歴」というより、「教育内容が形成する人間としての人間が豊かに生き延びてゆく力」とでも言うべきでしょうか。

少なくとも、将来の社会生活と自立した経済生活をおくるのに必要な基礎学力を近代国家の小国民に与えることは、もう十分に民間でできることです。「どうしても税金でやらなければいけないこと」ではないです。学力養成に関しては民間に任せていいです。すでに塾の実績は証明されています。塾ならば、もっと柔軟に対処できます。

学力に自信があるのならば、親や祖父母が子どもに教えてもいいです。こういう家庭学習は、すでにアメリカでは試みられています。

文部科学省の規制なんか不要です。現場知らない役人や教育学者崩れの文部官僚なんか無用です。文部科学省が、自分たちは何もできない、教育現場を混乱させるだけという事実を受け入れて素直に消滅して、規制がなくなれば、いかほどに風通しがよくなることでしょうか。

教師に関しても、幅広い分野から人材登用できます。教員免許など持っていなくてもいいではないですか。いろいろな人材雇用が可能なほうがいいではないですか。教師としての人材の多様化のおかげで、子どもはいろんなオトナに接することができるようになります。

たとえば、定年退職した優秀な人々の学識を生かせないのはもったいないです。高齢者の方々に年金で遊んでいてもらう余裕なんか、ほんとうは日本にはありませんので、しっかり孫&ひ孫の世代の教育の面倒も見てください。過労で倒れて亡くなれば、黄金の晩年です。お葬式でみんな泣いてくれます。長々と介護させて死ぬと、誰も泣いてくれません。思い出すと不快になるので思い出されもしません。老後こそ、めいっぱい身体を酷使していいのです。心配と恐怖から解放される時代です!

パートならば教育活動できる「育児中のママ」いっぱいいます。一日中赤ちゃんや幼児の相手を、「自分ひとりだけで」していると、お母さんは狂ってきます。わが子とはいえ、オムツした猿に24時間翻弄されるのは苦痛です。時に、蹴飛ばして、張り飛ばしたくなります。聞き分けのない不細工なガキが騒いでいるのを目撃すると、こいつ、バンバンぶったたいたら、どんなふうに泣くかな、なんて私でさえ想像しますもん。ははは。子ども虐待を防ぐこともできますね、このシステムならば。もちろん、塾とかには託児所がついています。

規制がなくなれば、教育に志のある人々なら誰でも、自分の方針に基づいて開校できます。規模は、どんなに小さくたって、そういう形態でしたいのならば、またそれがいいと希望する子どもと親がいればOKなのです。少人数の私塾形式ならば救われるタイプの子どもも多いと思います。21世紀の「寺子屋」です。

規制がなくなれば、科目にしろ、時間帯にしろ、カリキュラムを自由に編成できます。学習キットでパソコンで自宅学習できるのならば、そのほうがいい子どもも多いでしょう。朝が極端に弱い子は午後からとか、夕方からとか学習するのも、いいと思います。絶対に出席しなければならない「通学システム」とか、決まりきった時間帯にそこにいなければいけない「時間割制」とか、同じ教室で(教師にせよ級友にせよ)同じ顔ぶれと1年間つきあわざるをえないなんて、どうして、そんな必要があるでしょうか?

同じ場所に同じ猿(みたいな子ども)たちを入れておくのでは、その閉塞感とストレスから、「いじめ」も起きやすくなるでしょう。塾ならば、どの地域の塾でもいいのだから、「いじめ」をするような歪んだ欠陥人間と顔を合わせなくてもいいでしょう。また、そういう人間(歓迎されざる顧客)は、他の顧客に適切な教育サーヴィスを提供する邪魔になりますので、お引取り願えばいいでしょう。騒ぐことしかできないほんとに猿みたいな、生まれっぱなしのガキは追放すればいいです。義務教育じゃないから、引き受ける義務ないです。行くところなくなれば、そんな馬鹿とその馬鹿親も少しは考えるでしょう。

子どもによっては、国語は集団授業でいいが、算数や理科は個人教授のほうが理解しやすいとかあるでしょう。国語と社会科とパソコンと家庭科の調理だけの、食べていくためにギリギリ必要な学科しか勉強したくないのならば、それでもいいではないですか。理科ばかりやりたいのならば、それもいい。図工と組み合わせて、何か発明してよ。

私なんか、義務教育機関で勉強したことで、今でも役にたっていることは、基本的な算数と辞書や辞典での調べ方と漢字だけ、つまり国語だけです。義務教育は、ほんとは徹底した国語教育だけでOKなのかもしれません。どんなマニュアルでも法律文書でも科学書でも読解可能で、かつ達意で平易な文章構成力を養成する国語教育ね。国語の教科書を文学研究者だけに編纂させるな。国語教育が歪む。

教育が自由化すると、15歳にならずとも、12歳くらいで高校受験合格、15歳で大学合格というのも出てきますね。義務教育なくなるのですから、そういうケースも出てきます。まあ、人それぞれですから、いいじゃないですか。エリートはエリートで、普通人に邪魔されずにドンドン伸びればいいです。優秀な方々にはそれゆえの重荷と義務があるのです。嫉妬しないで、足引っ張らないで、伸びていただきましょう。その中から、名実ともに「公僕」になってくださる方も出てくるでしょう。1500万円のホテル代踏み倒す外務省官僚みたいな公務員を生産してきた日本の教育界も、真の競走にさらされて変わってくるでしょう。

引きこもりたい子どもは、「出張教授」「遠隔教育」というサーヴィスをパパやママに買ってもらいましょう。引きこもりたい子は、引きこもってもできる仕事に従事すればいいのですから、その方面の勉強をすればいいでしょう。コンピューターなんか徹底的に勉強すればいいではないですか。あと高度な熟練の手仕事系科目も向いていますよね。引きこもっても経済的には自立するんだよ!でないと、ただの寄生虫だ。

個人差に応じた学習サーヴィスを買うことができれば、「学校嫌い」と「勉強嫌い」をゴッチャにする愚も避けられるでしょう。学校に行くのは嫌いだが知的興味は深い子ども、学校は大好きだが勉強はしたくない子どもとか、学校も勉強もテキトーに好きでテキトーに嫌いとか、いろいろなのですから、選択肢が多いと便利だと思います。

昔ならば、義務教育がなければ国民は劣化したでしょうが、今は教育産業は百花繚乱ですし、独学用のツールも多彩です。就職したり、起業したりするのにも、高度な技術の習得や知識は必要ですから、国民が学ばなくなるということはありません。もっと一層に教育産業はしのぎをけずって、教育サーヴィスを開拓するでしょう。消費者は自分が金出すのですから、真剣に教育サーヴィスという商品の中身を検討するでしょう。もともと、日本には、民間の自主的教育機関である「寺子屋」の伝統があるのです。

つまり、教育の自由化が日本人をパーにすることはないのです。現在の、閉塞感のある不自由な学校システムのおかげで、勉強嫌いな子どもをいっぱい生み出していることや、型にはまった硬直化した希望のない教育環境の中で関係者が疲弊し荒(すさ)んでいることのほうが、よほど問題だと思います。

規制がなくなれば、さまざまなスポーツ・スクールとかダンス・スクールも参入して多彩な体育科目も提供できます。ラジオ体操なんか、面白くもなんともないよ。塾が農家と提携して、子どもが農作業体験するのもいいし、商店と提携してお店に立つ体験も勉強になるでしょう。市役所に行って職員や議員がサボってないか監視する「市民教育」もありですね。

そうだ、児童ポルノとか児童猥褻で逮捕される人間は、「団体職員」っていう例が多いから、その「団体」ってところに行って、「こういう顔したオッサンは危ないかも・・・」と職員をじっくり見学観察するのもいいでしょう。性犯罪で逮捕された人間を眺める留置所ツアーなんかで成立する「危険防止講座」を開設してもいいのではないでしょうか。

私なんか、前世が中国人だかなんだか知らないが、ガキの頃から人相学&手相学やっていたんで、大人になんかなつく気が全然なかったというか、相手が教師だろうが親類だろうが隣のオッサンだろうが、じ〜〜〜と顔見て「この顔は駄目だ・・・」と思っていたものだが、やはり、実地で、犯罪者の顔というものを観察するのはいい勉強になると思います。

骨董品だって、本物をいっぱい見ると、偽ものに対して勘が働くというではないですか。女の子にとって、痴漢顔&DV顔&意志薄弱顔の見分けに習得するのは教養のひとつです。「性犯罪で逮捕された人間を眺める留置所ツアー」いいですね〜〜夏季休暇中に実施すると、背筋が涼しくなるでしょう。

なんと華僑系の銀行は、貸付相手は「人相で選ぶ」と、マダム・ホーさんが書いておられましたよ(『世界一愚かなお金持ち、日本人』Discover社、2008年)。個室で折衝する担当者以外に、マジック・ミラーの向こうで、じっと「借り入れ希望者」の人相を見ている人が複数いるそうです。すごいなあ。特に「借り入れ希望者」が男性の場合は、奥さんの人相が決め手になるそうです。人相の悪い女を女房にしている男には、運も未来もないからです。それは、そうだよな。

マダム・ホーさんによりますと、アメリカの銀行は、クレジットで買ったものの返済をちゃんと間違いなく過去にしてきたという「返済記録」で判断するそうです。クレジット・カードで買った人間の銀行口座から、翌月に代金を引き落としできなかったら、その人間は信用できない奴である。その記録を金融機関の人間は閲覧できる。だから、そいつには貸さない。事実は雄弁でシンプル。まさにcredit、信用ですね。

一方、日本の銀行は、「どなたの御紹介ですか」とか、そこの銀行に定期預金しているかどうかばかり気にするそうです。紹介者が偉くても、本人がパーならしかたないのに。預金なんか解約はすぐできるのに。リスクはとらないというか、見る目がないというか、どうでもいいというか、まあ、いかにも「日本の銀行」らしいですねって、何の話か?

そう、義務教育という官の規制がはずれたあとの教育の自由化の話です。何よりも、義務教育が自由化されれば、淘汰機能が活きてきます。駄目な塾は消えます。駄目な教師はすぐに解雇できます。解雇されて悔しかったら、自分が開校すればいいです。誰も来ないと思うけど。ならば、昼間は売れない私塾の先生で、夜はゲイ・バーで働くとかいう手もあります。生き生きとした社会科を教えることができるでしょ〜〜

ビジネスになるとわかれば外資も参入して塾の外国語教育は充実するでしょう。外資系塾だと移民の子弟の教育はうまい(だろう)から任せましょう。外資に負けたくなければ、民族系塾もM&Aで、いよいよもって頑張るでしょう。

男の子だと、中学生ぐらいならば(息子を放置するか、過干渉するしか能がない)親から離して、規律ある集団生活を経験させたほうがいいので、寮形式の塾に放り込んだほうがいいでしょう。さもないと、親への腹いせに、高速バスをハイジャックしたり、書店や駅で包丁を振り回し他人を殺傷します。ちゃんと親に刃向かえよ、他人を巻き添えにするなよ。親子だけで抗争して家族で自給自滅してろよ、もう。

今までは無責任に公教育に丸投げして家庭教育もなおざりなくせに文句だけ言っていればよかった親は必死でリサーチして、どこの塾にすべきか決めなければならなくなります。でも、それはいいことでしょう。「自分は親としてこの子に教育内容は何を与えるべきか?」と考えることは必要でしょう。「子どもは社会の子どもなのだから、そこは社会が考えるべきであって・・・」なんて、アホな無責任なこと言っていては駄目です。結局は、責任は「個人」がとるしかないのです。

太平洋戦争ボロ負け後に、(たとえ名目上でも)最高責任者が責任を負わなかった日本では、以後しっかりと、エリートほど責任を問われない「ひき逃げ体制」になってしまいましたが、私たち庶民は責任を負わねばなりません。

考えることが面倒で、ずっと思考停止していたい親は、政府経営の独立行政法人学校というものがあれば、とりあえず、そこに子どもを入れておけばいいでしょう。受益者負担ですから、「公教育直接受益者消費税」は支払ってね。「あかんわ、これは」と思ったら、無駄な税金は払わずに、「あなたのお子さんにぴったりの塾お探しいたします。ご予算と地域をご指定ください」と申し出てくる教育コンサルタントに依頼しましょう。そういうビジネスだって立ち上がりますよ。

ところで、近代国家の国民に基礎的学力を与えること以外の初等教育学校の機能といえば、集団生活のなかでの自分の立ち位置の確保の練習=社会生活の予行演習をするというものがあります。はっきり言って、日本の義務教育の学校は忍耐力養成の機関としては、素晴らしい。確かに、あの強制的集団行動の不自由と不快に慣れて自分を失わずに対処することは、大事な訓練です。こういう「通いのゆるい刑務所」みたいなものを提供するのは、行政は得意でしょうね。

しかし、こういうのだって民間で、できるでしょう。各塾が連合して、そういう機会を提供するサーヴィスを始めるでしょうし、外部委託もできるでしょう。サマー・キャンプとか、「大不自由忍耐力強化合宿」とか集団行動の企画をイベント会社や旅行会社が売り込んできますよ。

さて、でも、税金運営の義務教育が消えたら、子どもの教育にカネを出せる親の子どもはいいが、親がビンボーな子どもは教育を受けられないのではないかという心配はあります。たたでさえ格差社会なのに、教育格差のおかげで、なおさらに階層化が進行するという危惧もあります。今でさえ、給食費は払わないとか、モンスター・ペアレントが問題になっています。

カラオケでしょうもない歌謡曲を歌うのが趣味みたいな親の子どもでも、義務教育のおかげで、バッハもモーツアルトも学べます。どんな僻地に住む子どもでも、情報や文化的刺激の多い都会の子どもと同じように、文部科学省が定めた水準の教育内容を義務教育で学べます。確かに、義務教育がなくなることに不安を覚える人々も多いでしょう。

まあ、でも何とでも、やってゆくのですよ、人間は。志ある富裕層の寄付などで、きわめて安い授業料で運営する塾なども設立されると思いますし、奨学金も設立されるでしょう。心配ないと私は思います。近所の老インテリが無料で教えてあげるっていうのでもOKなのですから。親がどんなんでも、見込みのある子どもならば、学びます。周りの心ある大人がほっておきません。子どもは、自分の力で食ってゆくために役立つ実(じつ)のあることならば、学びます。

しかし、どんなシステムでも、2割ほどの人間は救えません。全部は救えません。キッパリ。教育の自由化が実現すれば、個人の水準に応じた教育も受けやすくなるかもしれませんが、どうやっても、勉強しない人間はいます。彼らの中から犯罪者という社会的お荷物が出るかもしれませんが、しかたありません。収穫物の果物の10個に2個ぐらいは市場に出せないものでしょう。それは、一種の「社会的コスト」です。人間社会にユートピアはありません。

日本人は画一的で個性がないと言われますが、突出した才能が育たないとか言われますが、教育の自由化がなされれば、いろんな人間が登場するでしょう。良くも悪くも。そう、「良くも悪くも」。今は、国内でも海外でも使えない学級崩壊学校育ち自己規制力ゼロの人間(と親)ばかりを、税金で大量に生産しているのだから、「悪くも悪くも」です。「良くも悪くも」の方が、ずっとましでしょう。

ともかく、現在より、はるかに教師にとっては実力本位になり、教育内容は実質本位になり、いい意味で子どもも親も甘やかされなくなります。うんと、日本は面白くなると思います。格段に社会が活性化すると思うなあ〜〜♪大人たちは、よってたかって子どもの教育に乗り出すぞ〜〜♪

そりゃ、当座の一時期は慣れないから混乱するでしょう。自分で選ぶことをしてこなかった「定食」ばかりあてがわれてきた国民が、「レタスいれますか?トマトは?ベーコンは?チーズは?マスタードは?ケチャップは?パンの種類は?」と、いちいち選ばなくてはならないのですから。でも、すぐに慣れます。そうやって、刻一刻と選択し決定するのが人生だとわかれば、日本人の脳も稼動し始めるでしょう。

義務教育って、もう無用です。無用というより、無理です。国民健康保険制度とか国民年金制度が無理なのと同じ。政府は、できもしないことを、なぜ約束できるのか?国民は、できもしないことが明々白々な約束を、なぜ信じたがるのか?無理を続けているから、今の教育論議は非現実的な空論か嘆息ばかりになります。現場の良心的な教職員は非人間的な負担に心身をすり減らしています。子どもは混乱し、親はうんざりしています。やめちゃえ〜〜やめちゃえ〜〜♪

機能不全は機能不全として認めて、延命装置ははずさないと無意味で無駄な医療費がかかります。そろそろ、昇天タイムです。さようなら、お役目は終りました、今までありがとうございました、安らかにお眠りください、義務教育&文部科学省。