アキラのランド節

アメリカ帝国の人民操作法としてのTV番組(その4)  [03/28/2009]


4月が、衝突回避不可能な彗星のごとく接近してきました。1年間の研究休暇という天国から追い出されて、私は、また、この世に生まれ変わります。と、言いながら、この日には会議があって、入学式の後は大学院のオリエンテーション担当で〜初回の講義用のハンドアウトはこの日に印刷して〜〜授業開始日はこの日で〜と、手帳に書き込んでいる私の心はすでに戦闘的仕事モード。

読者の方からメイルをいただきました。Kさん、貴重な情報をお知らせくださり、ありがとうございます。英国では、この大不況に怒り、「なんで、こういうことになるんだ!?」と考え始めて、人々が読書に戻っているそうです。特にアイン・ランドのAtlas Shruggedが、急にまた売れ始めたという記事をBBCが配信しているそうです。(http://www.bbc.co.uk/blogs/newsnight/fromthewebteam/2009/03/anger_night.html

エンロン危機のときも、Atlas Shruggedが急にまた売れ始めたということがありました。頭に血がのぼっていて躁状態になっていたビジネスマンたちが、冷水を浴びせられて、正気になって、「企業家の使命は何か?なんのためのビジネスか?なんのための金儲けだったのか?」と考えるときに、読まれるのがAtlas Shruggedなんですね〜〜今こそ、みなさま、『肩をすくめるアトラス』(脇坂あゆみ訳、ビジネス社)をお読みください。

Atlas Shruggedといえば、「アイン・ランドはフィリップ・ロスチャイルドの愛人で、『肩をすくめるアトラス』は、ユダヤ系国際金融資本家と軍産複合体がもくろむ世界支配の未来図を予言暗示したものである」という言説があります。日本では、太田龍氏が、この言説の伝播に務めておられる言論人の代表です。

この言説のソースは、国際金融システムと軍産複合体を支配して、人類を牧畜化し、新世界秩序(The New World Order)を打ち立てるべく暗躍する「イルミナティ」(The Illuminati)なる秘密結社のメンバーだった(と称する)John Toddという人物が、人類をこの大陰謀から救うべく、教会の講演で話した内容だそうです。YouTubeに、いくつも投稿されていますから、ご興味のある方々は、どうぞ検索してみてください。

この人物が、どういう経歴の人物で、今何をしているのか、生死すら、正確にはわかりませんが、この人物はユダヤ系の大富豪の息子で、The Illuminatiの末端にいたらしく、そのときに仲間から「アイン・ランドはイルミナティの走狗」説を耳にして、「Atlas Shruggedなんか読むな」と、講演して回ったそうです。

まあ、確かにAtlas Shruggedという小説には、奇妙な磁場がある。The FountainheadとAtlas Shruggedは、同じ客観主義という思想を物語化したものとはいえ、随分と基調が違います。私自身が最初にAtlas Shruggedを読んだときに、「同じ作家が書いたとは思えない・・・」と思いました。アイン・ランド個人が書いたのではなく、ある種の「マシーン」が書いたのではないか、つまりランドを中心とした組織的な執筆集団が書いたのではないか?と、私自身が疑いました。その疑念は今も消えてはいません。

しかし、それでも、Atlas Shruggedはすごい小説なのです。それが「イルミナティ」による「アメリカ合衆国まるごと分捕り計画の予告」(USA版『国盗り物語』?)だとしても、だから何だ?So what?所詮は、小説じゃないの。小説は、小説として見るしかないよ。「アメリカ合衆国まるごと分捕り計画の予告」としてのAtlas Shrugged説が、ジョン・トッドなる人物の大妄想であるのか、事実なのか、そういうことは、どーでもいいよ・・・この小説は尋常じゃない。すごい小説だ。それだけで、いい。

本日、新学年度開始に備えて白髪染めのために出かけた美容院で読んだ『文藝春秋』4月号の中に、ポール・クルーグマンが、アラン・グリーンスパンは「エイン・ランド」に影響されてバブルを煽ったと、インタヴュにー答えて言ったと、書かれていました。

10年前の日本ならばいざしらず、Ayn Randを「エイン・ランド」と、未だに表記するライターを天下の文藝春秋社が雇っていることの問題はさておき、このクルーグマンは、Atlas Shruggedきちんと読んだことがないか、もしくは、経済に対する国家介入を推進したくて、ランドを悪者にしている隠れ社会主義者&集団主義者だな〜〜どうせ大学教授だろ〜〜やっぱり〜〜と、私は感じました。

私自身は、あの小説の一種の暗さが好きではないですが、しかし、あの小説は、今の恐慌の原因にされることなんか推奨しておりませんよ。実に道徳的な小説です。読めば、わかります。読まずして、ゴチャゴチャ言わないでね〜〜あの程度の厚さの小説すらサッサカ読破できない程度の頭のくせに、きいたふうなことは言わないでね〜〜それを「無駄口」と言うのだよ。

さて、今回のランド節は、2月に書いたきりのランド節の続編です。現代アメリカのTV番組の話でした。本題に入る前に、お知らせを少しさせていただきます(まだまだ引っ張る)。

(1)花粉症にお悩みの方々へ。 このウェッブサイトの読者の金沢の古書店Duckbillさんに教えていただいた「べにふうき」(紅富貴)という「メチル化カテキン」(意味不明)の緑茶は、目のかゆみとか抑えてくれます。呼吸もらくになりますよ。ただし、私と同じような体質の方に効き目があるであろう、ということですが。Duckbillさん、ご教示をありがとうございました。

花粉症も鬱病(うつびょう)と同じで、スッキリ爽やか全快はあり得ない(今のところ)のですから、テキトーに付き合っていくしかありません。医師が処方する薬なんか、何が入っているかわかりませんから、素直に飲んでいると、もっとややこしい病気にされます。

鬱病さんも、「そろそろ、枕元にうっちゃんが立っている頃かな〜〜うっちゃんも寂しいのかな〜〜」って感じで、仲良くするしかないのではないでしょうか。時には、温かいお布団の中で、ふたりで仲良くお昼寝するしかないのではないでしょうか。

男が代々鬱病になる家系で、オジイチャンは欝病の薬の飲みすぎで自殺しているという鬱病の学生さんには、「うっちゃん元気?」って、私は、気軽にサディスティックに訊いています。「おたくのご先祖さんの男が、大昔に、人様の恨みを買うような軽薄で思慮のない残酷なことしたんだろうよ〜〜あなたが、しっかり勉強して、人格の陶冶(とうや)怠らず、小賢しい打算からではなく真心から、人様の役に立つことをいっぱいすれば、あなたが還暦迎える頃には、お家の悪しき因縁も消えているよ〜〜きっと・・・かなあ」などと、とんでもないことを思っていても口には出さない私。

嫌がっても、怖がっても、来るモンは来るのだ。来ないときは来ないのだ。地震と同じだ。恋と同じだ。死と同じだ。テキトーに仲良くしよう。テキトーに足蹴にしよう。テキトーに抱きしめてキスしよう。

(2)ご家庭に赤ちゃんがいらっしゃる方々へ 金沢の古書店Duckbillさんといえば、去年の11月にめでたく、最初のお子様であるお嬢さんをご出産なさいました。おめでとうございます〜〜♪私は、ガキを生んだことも育てたこともないくせに、赤ちゃんを口呼吸にしないために、ということで西原克成医師の名著『究極の免疫力』(講談社インタナショナル、2004)をご一読くださいと、お節介にも申し上げました。Duckbillさんは、早速『究極の免疫力』をお読みくださり、実践を試みました。そこで、はたと、困ったことが生じたのです。

西原医師は赤ちゃんを口呼吸にしないための方法のひとつとして、<おしゃぶり>を奨めておられます。で、Duckbillさんは、生後数ヶ月が過ぎたところで、ピカピカの赤ちゃんのお口に、<おしゃぶり>を入れてみました。しかし、赤ちゃんは、すぐに、<おしゃぶり>を、ペッと、お口から出してしまいます。何度試みても、非情にも<おしゃぶり>は、お口から追い出されてしまいます。聡明なるDuckbillさんは、なぜなのか?と考えました。

で、Duckbillさんの結論は、こうでした。「日本では歯の形が悪くなるということで、<おしゃぶり>は、あまり売れていない。売れないから、あまり開発改善向上もされていないのではないか?つまり、赤ちゃんからすると、くわえ甲斐がないのではないか?ひょっとしたら、外国の<おしゃぶり>ならば、くわえ甲斐があるのではないか?」と。で、1月8日にニューヨークに行く前の私に、アメリカの<おしゃぶり>を入手してきてくださいと、Duckbillさんは依頼しました。母の愛ですね〜〜♪

で、私はマンハッタンの有名雑貨店チェーン店のDuane Readeの赤ちゃんコーナーの一角にいっぱいあった“pacifier” “comforter” “dummy”(おしゃぶりを、英語ではこう呼ぶ)を、テキトーにみつくろって、何種類かをDuckbillさんにお送りいたしました。アメリカの<おしゃぶり>は、生後半年までのと、半年以上のと、生後1年以上とかで、数個が1セットになって売っています。赤ちゃんのお口の大きさの成長に合わせて数個が1セットになっているのです。お〜〜さすが、おしゃぶり先進国。

会計のためにレジに持って行ったら、レジ係のお兄さんが、「赤ちゃん、いっぱいいるんだね」と言いました。無認可託児所経営者と思われたかな。

私がお送りしたアメリカの<おしゃぶり>を消毒して、Duckbillさんは、すぐにお嬢さんの口に入れてみました。すると、赤ちゃんは、非常に「食いつきよく」満足げに<アメリカ製おしゃぶり>を吸い、口からペッとつれなく出すことはなくなったのだそうです。

みなさま、以下の写真をご覧ください。これは、Duckbillさんが送信してくださった写真を、Duckbillさんの許可を得て転載させていただくのでありますが、右側が日本製の<おしゃぶり>です。左側がアメリカの<おしゃぶり>です。どうでしょうか!一目瞭然ではないですか!どう見ても、左側のアメリカの<おしゃぶり>の方が、いかにも、くわえ甲斐がありそうな形ではないですか!ぷっくりと、ほんとに、むはむはと吸いつきたくなる魅惑的な、このふくらみ!なんと素晴らしい、この似非乳首のふくらみ!★♥

baby

私は、Duckbillさんに、こんな素敵な<おしゃぶり>があるのならば、口呼吸の習慣が治らないオトナ向けの<おしゃぶり>を開発したら売れるのではないか、特許を取ったらいいのではないかと勝手なことを提案しました。何事も研究熱心なDuckbillさんは、早速いろいろお調べになりました。

そこで、オトナ向けの<おしゃぶり>は、すでにアメリカでは販売されている、大人用のでっかい<おしゃぶり>は開発されているということが、判明したのでした。以下のアメリカの赤ちゃん用品のウエッブサイトをご覧ください。http://www.diaperconnection.com/pacifier.html

このサイトの中の「NUK5」というのが、大人用の<おしゃぶり>として適正サイズなのです。私は、この19ドルちょっとする「NUK5」という大サイズ<おしゃぶり>を自分用に購入しようかどうか迷いました。このサイズは日本では販売していません。

と言うのは、実は正しくない。日本でも入手する方法はあるのですが、販売しているのは「オトナの玩具」ショップなのです。SMプレイとか、コスチューム・プレイとかと同種の、「その筋」のお遊びのひとつに、男性が赤ちゃんのお洋服を着てガラガラ持って寝転がって、女性がおむつ交換して、「駄目じゃないの!もっとママに早く知らせなきゃ!」と、男性のお尻をギュッとつねったり、ペンペン叩くみたいなプレイがあるそうです。そういう際に大人用<おしゃぶり>は必要アイテムになるようです。

人間は何でもやりますねえ・・・

口呼吸から鼻呼吸に転換するための道具として、大人用<おしゃぶり>は、いいアイデアです。これは確かです。しかも、「間食回避、小食実行」を守る装置としても有効なのではないでしょうか。しかし、以上の事実を知ってしまった以上、「そんな疑惑」をかけられてまで、私は入手したくない。私は、別に男性のお尻をギュッとつねったり、ペンペンする嗜好はない(やらせてくれるのならば、やってみたいが)。躊躇(ためら)う日々です。

ということで(どういうことかわかりませんが)、本題に入ります。前回と前々回に「TV裁判」番組のいくつかについて紹介いたしました。

ちょっと前のForbes誌に、「2008年最も稼いだ女性20人」という特集が組まれていましたが、あのJudge Judyさんは、9500万ドル(約95億円!!)を稼いで、堂々13位を占めておりました。14位は女優のサンドラ・ブロックです(8500万ドル)。12位は、歌手のブリットニー・スピアーズです(1億ドル)。いいなあ〜〜♪

ちなみに、堂々第1位は、アフリカ系の「TV世論リーダー」のオプラ・ウインフリーで15億ドルです。この女性は自分の名前を関した雑誌も出版していますし、この女性の支援は、オバマ大統領勝利の大きな要素のひとつでしたね〜〜この女性が自分のトーク・ショーで取り上げた本は、必ずベストセラーになります。この女性は、コンドリーザ・ライス女史よりも怖い顔していますね〜〜面構えにすごい迫力がありますね〜〜って、何の話か。

今は、オプラさんの話ではなく、TV裁判の話です。ここで考えたいのは、アメリカにおけるTV裁判には、ものすごい人気があるという事実の意味するところです。なにしろ、あのジュディさんの年収が9500万ドル(約95億円!!)なんですから。視聴者参加番組というのは、視聴者が参加しなくては成立しません。つまり、TV裁判が人気があるという事実は、TV裁判で判決を受けたがる視聴者(応募者)がわんさかいる、ということですね。これは、どーいうことでしょうか?

TV裁判では、ほんとうに深刻なややこしい事例は取り扱いません。民事系の中でも、和解調停の対象にもならないような些細な小競り合い(skirmish)です。そうでなくては、TVの短い時間内にテキトーにおさめられるように編集などできません。

つまりは、TV裁判で取り上げることができる事例は、司法のプロに依頼などしなくても、当事者同士の話し合いや譲歩で決着がつく程度の単純なことなのです。なのに、視聴者たちは、自分たちで解決しようとはせずに、どんどんTV裁判に依頼する。

ですから、たとえTVショーとはいえ、あまりに問題解決能力がなさすぎるのではないかと思うような事例が多すぎて、TV見るしか能のない暇な視聴者(私だ)でさえ、あきれてしまいます。

前々回や前回でとりあげたJudge JudyやJudge Karen以外にも人気のあるTV裁判番組に、Cristina's Courtというのがあって、これは「法律裁判番組部門」(the "Outstanding Legal/Courtroom Program" Category)の昼間放送部門の2008年度のエミー賞(Daytime Emmy)を受賞しています。この番組の魅力は、ズバリ、裁判官のクリスティーナさんの美貌です。十分に女優さんで通用します。蕩けるみたいな、甘美な感じの美人です。アフリカ系のJudge Karenさんは、あくまでも母性的優しさですが、このChristina Perezさんは、ヒスパニック系の美女のスウィートな優しさを発揮します。

そのせいか知りませんが、持ち込まれる事例が甘ったれています。特にアホです。

たとえば、原告は高校生の姉と弟で、被告はその母親という事例がありました。アフリカ系の家族です。子どもたちも母親も小ぎれいで品があり、美貌です。証人として出廷している原告の父親(被告の夫)も、仕立てのいいスーツが身についた姿勢のいい品のいいハンサムな紳士です。こういう家族が、この種のTV裁判に出てくるのは、きわめて稀なことですが。 この姉弟は、母親がものすごく支配的で、何につけても子どもが自分に従わないと激怒し、進路も母親が決めてしまって、子どもの意向は全く無視すると訴えます。直接的には、子ども(弟のほう)が自分で選んだ課外活動であるクラブの遠征旅行を、母親が勝手に土壇場でキャンセルしたので、せっかくアルバイトで貯めて支払った旅行費用がパーになった、だからその費用を弁償せい、と母親に要求しているのです。

このお母さん、長身の美人ですが、見るからに猛烈に気が強そうです。メチャクチャに自信家のようです。いかにも独裁者です。Kitchen’s Queenです。おそらく、家族以外の人々からは避けられ友人もいないので、支配欲を家族に向けるしかないのでしょう。仕事はしていないようです。仕事しているのならば、これほど、家族に過干渉になる暇はないでしょうから。つまり、奥さんが働く必要のない収入をご主人が稼いでくる上層中産階級のいい暮らしをしている家族なのでありますね。 このお母さんは、自分がスポーツができたために、名門大学に入学することができて、奨学金も出たので、子どもたちにも同じことを要求しています。そのことを、このお母さんは法廷でも言います。でも娘も息子も、スポーツには関心がないようです。おそらく、このお母さんにとって、スポーツの推薦入学で名門大学に入学し卒業したというキャリアだけが、人生の勲章なのかもしれません。だから、そこに異常にこだわるのでしょう。

1970年代の日本において、東大出であることだけが自慢の、うだつの上がらない無能な父親が、高校の成績の悪い息子を馬鹿にして、東大以外は大学でないとか言って、息子に金属バットで殺されるという事件が起きたことがあります。この父親は東大卒業しているのに、読書もせずに、唯一の愛読書は「東京大学同窓会名簿」だったそうです。毎晩それだけ読んで(?)いたそうです。それに似ています。

原告側証人として原告の父親(被告の夫)が出廷して、いかに被告(証人の妻)が横暴であるかを証言するのですが、このご主人、絶対に奥さんのほうを見ません。びくびくしています。本気で奥さんを怖がっています。このご主人は、奥さんの毒気を長年の間に浴びたせいか、離婚して逃亡する意欲さえ失われているようです。そういう気の弱い男性であるからこそ、この支配欲のハンパでない女性は、この男性と結婚したのでしょう。蛇ににらまれた蛙です。

この姉と弟は、母親と法廷でも口論を始めます。母親は、きわめて攻撃的です。議論して話し合って、問題の原因を明らかにして、解決するという姿勢は、全くありません。この母親にとって、言葉とは、コミュニケーションの道具ではありません。ひたすら自分を肯定するための言い訳と言い逃れと恫喝(どうかつ)の道具でしかありません。一昔前の田舎の市町村に棲息していたヤクザすれすれのゴロつき政治家に多いタイプかな。

この事例には裁判官のクリスティーナさんも、ほとほと困ったようで、「いったい、どうしてもらいたいの、あなたたちは」と発言したくらいです。Judge Judyさんならば、怒鳴りつけて、この家族を法廷から追い出すでしょうが、そもそも、こんな事例は、”Judge Judy”という番組では受け付けないでしょう。

ともかく、裁判官のクリスティーナさんは、母親にクラブの旅行費の弁償を求めましたが、最後に原告の子どもたちに、こう言いました。「子どもがしてはいけない最大の悪は、母親を無視することです。ちゃんと冷静にお母さんと話し合うように」と。そのとき、「ほら、ごらん」とばかりに、勝ち誇ったように母親が子どもたちをにらみつけました。

もう、こうなると裁判とか司法の裁きとか、そういう水準のものではなくて、裁判官は、近所の「親切な賢いおばさん」にちょっとだけ権威を与えたという趣です。

この母親は、どう見ても病的です。人格異常者です。サイコパスです。この子どもたちがすべきことは、この種のサイコと正面からぶつかって闘うことにエネルギーを注いで消耗することではなく、黙って早く、この母親から逃げることなのです。逃げる準備を着々とすることなのです。ひたすら勉強して、奨学金を得て、大学進学とともに、家から出て、以後は実家に帰らないことなのです。この母親には自浄作用はないですから、反省能力はないですから、捨て置くしかないのです、こんな母親は。この種の人間は、存在そのものが、他人にとってのストレスです。生存していること自体が加害的なのです。うっかりそばにいると、自分の人生を台無しにされます。 裁判官のクリスティーナさんは、子どもたちを誡めましたが、物の道理として、良識として、高校生の子どもたちと母親ならば、責められるべきは、オトナの母親のほうです。弱い立場の子どもたちを、こんなことをするほどに追い詰めたのは、明らかに母親の愚劣さです。それと父親の小心な無責任さです。この父親は、子どもたちの盾にならないのです。父親たるもの、こんな理不尽な女房から子どもを守るために、ときには女房を殴り倒して、蹴飛ばすべきですが、そうするとDVとして訴えられるんだよなあ・・・今は。

やれやれ。殴らないと黙らない女もいるよ・・・世の中には。死ぬまで、周りの人間を比喩的にせよ直喩にせよ、大量に殺しまくる人間もいるよ・・・世の中には。

この裁判官のクリスティーナさんは、「お茶の間道徳」に媚を売りすぎています。慣習とか因習的思考から逸脱しないように気を遣っています。しかたないか。TVに出て稼いでいる人間は真実を言えないか。日本のTVのワイド・ショーのキャスターと同じか。毒にも薬にもならないことしか言わないのは当然か。こんな裁判ごっこ、こんな仕事、カネのためとはいえ、よくやっていられるな〜〜と、私からすれば不思議ですが、やっぱり、カネの魅力はすごいのだろう。

このクリスティーナさんは、ヒスパニック系だから、多分、敬虔なるカトリック信者なんだろうな。駄目だ、こりゃ・・・宗教というのは、人によっては、思考停止装置になります。

サイコパスは、抹消できないのならば、係わり合いにならないように避けるしかないのに。裁判官のクリスティーナさんは、原告のまだ高校生の姉と弟に、「あなたのお母さんには、自分で自分を変える能力はないです。この病気は治りません。ですから、あなたたちは、早く家から出て独立できるように努力しなさい。居場所は内緒にしなさい。サイコの母親など、死んだものと思って諦めなさい。本気で真剣に逃げなさい」と言うべきだったのです。

まあ、しかし言えないよなあ・・・いかにもいかにもの「いい子ぶりっ子」だもんなあ、この人。原告の利益よりも、自分の人気だよなあ。

2009年の1月に、このようなTV裁判番組を集中的に視聴した私は、こう思ったのです。「ひょっとしたら、アメリカの<社会構成力>が衰えつつあるのではないか?」と。

社会とは何か?societyとは何か?これは「自生的秩序」のことです。人間がふたりいるとして、このふたりの人間の間にはいろいろな差異があります。同じで対等ということはありえません。どちらかが、どちからよりも有利な生存条件を有しているでしょう。そこに支配--被支配の関係も生じてきます。

しかし、片方が、もう片方より、いろいろな点で卓越していても、片方が、もう片方の意思や感情を無視して好きにしていると、やはり、トラブルや問題が多々出てきます。ですから、ふたりは話し合って、互いの妥協点を見つけますし、「今後はこういうことにしょうよ」と決めて、ある程度のルールを作ったりします。そうして、ふたりの関係が安定します。これが自生的秩序です。Societyが生まれます。

人間集団の母数が大きくなりすぎて、互いに顔を見て話し合って意志を確認しあうことが困難になると、大きな人間集団を構成している各グループから代表者から選ばれて、代表者どうしで顔を見ながら物事を決めたりします。

そのうち、「こんなことかったるい〜〜決めるのに時間がかかり過ぎるし、俺の好きにならないぞ〜〜」と思った気の短い元気すぎて乱暴な奴が、他の代表者をみな粛清して独裁者になったりします。突出して強くて賢いけど安全な人間がいたら、みなが「あいつにさせておこうよ」ということで、彼を決定者として据える、ということも起きるでしょう。

まず自生的秩序があって、そこから国とか政府とかが形成されます。国や政府の前に、社会があります。国や政府がコケても、社会は営まれるのです。太平洋戦争直後の日本がそうでしたし、つい最近は、ソ連崩壊後のロシアがそうでした。政府がコケても、無政府状態になっても、社会は自発的に生まれ、運営されるのです。あくまでも、社会が先です。社会のない国や政府なんて、不可能です。不条理です。

しつこく繰り返しますが、社会とは、societyとは、ヒトとヒトの顔が見える交際です。結びつきです。結社です。Societyを、「社会」とか「社交」と訳した人間は、えらい!!

しかし、長い歴史の中で、国とか政府とか法とか秩序の起源が忘れられてしまいます。基本は自分たちの主体的な話し合いや調整が秩序を作るのだということが忘却されてしまいます。ヒトとヒトの顔が見える節度ある交通・交際が社会、societyだという認識が消えてしまいます。そうなると、ヒトは、なんでもかんでも、顔を知らない権威者や権威ある機関に、秩序創出や調停を委託するのが当然と思うようになります。秩序創出や調停は、自分の仕事ではないと思うようになります。

そうじゃないって!それは他人の仕事じゃないって!あなたの仕事のひとつだって!

日本のTV法律番組の『行列のできる法律相談所』などを見ていますと、どーでもいいような問題なのに、すぐに「訴えてやる!」と言うではないですか。ああいう発言は、「私にはコミュニケーション能力ありません〜〜話し合い能力ありません〜〜何が問題なのか整理する頭がありません〜〜問題が解決するまで待つ忍耐力ありません〜〜他人と話し合うのが怖いです〜〜自分が譲れるところと妥協してもいいところの区別つきません〜〜だから、他人に面倒見てもらうしかありません〜〜誰か、私の人生を決めて〜〜」と、言っているのと同じです。ものすっごく恥ずかしいことなのです。幼稚なことなのです。

裁判所とか行政に問題を持っていく前に、自分たちで、自分たちの問題の解決を図るのが、あたりまえなんだって!当事者どうしが、時には信頼できる人間を仲介者として、何度も何度も話し合って、頭を冷やしつつ、「まあ、しかたないかな・・・いろいろあるもんな・・・」と納得できるまで、なんやかやとやって、おさまるのが「社会」なんだって!

つまり、何を私が言いたいかといえば、なぜ私が長々とアメリカのTV裁判番組を紹介してきたかといえば、あの種の法律番組は、「家族を含めた人間社会の問題を解決するのは、その社会の成員がするべきことであるし、それは可能なのだ」という基本的知識を、視聴者をして忘却させることに機能しているという点において、人民操作法のひとつ、人民愚民化政策のひとつになっている、ということなのです。

明らかに、アメリカのTV番組は、アメリカから<社会>を衰退させることに寄与してしまっています。

タダで調停してくれるからということで、TV裁判に、何でもかんでも持ち込んで、TVなんかに出ている下司(げす)な裁判官に裁定してもらって、問題の決着をつけられる大量の「市民」と、その姿をTVで毎日見て、疑問を感じない視聴者。

そうこうするうちに、国民は、自分たちで主体的に問題を解決していく「社会構成力」を育成する必要を感じなくなり、そのうち、すっかり人々の「社会構成力」(=自治能力)は衰え、いよいよ、ますますもってして、人々は行政だの司法だのに依存して、ついには政府の奴隷になると。はい、全体主義国家、官僚支配国家のできあがり、と。

そう思いませんか?

現在のアメリカのTV番組のメインは、ここで紹介してきたTV裁判系番組と、CSIシリーズに代表される各種犯罪捜査番組ですが、このどちらもが、societyの衰退を示唆しています。大量に製作されている犯罪捜査番組は、自生的秩序である社会が形成される前の「万人に対する万人の戦い」みたいな暴力社会が、現実のアメリカであるような幻影を繰り出します。これまた、おびただしく放映されているTV裁判番組は、人々の「社会構成力」(=自治能力)の否定を前提としています。

かつてのアメリカTVには、家族にせよ近隣にせよ仕事場にせよ、そこに属する人々の間で起きる問題を、そこに属する人々が解決するプロセスを喜劇として描いたタイプの「シチュエイション・コメディ」(situation comedy)(sitcom)が花盛りでした。1960年代の日本で放映されていた、『うちのママは世界一』とか『パパは何でも知っている』なんてのは、その代表例です。

situation comedyは、単なるドタバタ喜劇みたいな、FriendsとかSex and Cityみたいな、風俗的には面白くありますが、頭の軽い人々がゴチャゴチャやっている類の下らないものばかりではありません。啓蒙的教育的なものが、1990年代の半ばまでは、ちゃんと放映されていました。家族の問題ならば、Family TiesとかFull Houseとか Blossomがありました。学園ものでは、Beverly Hills 90210(『ビバリーヒルズ高校白書』&『ビバリーヒルズ青春白書』)なんか、結構、人種差別とか少数派問題とか硬派な問題を扱っていました。

良質なsituation comedyの脚本を書く人々には、良き志があるな、社会に対する使命感があるな、と思わせるような(日本では未放映の)優れた連続ドラマを、アメリカに行くたびに見つけて視聴するのが、かつての私の大きな楽しみだったのですが。

でも、社会構成力や自治能力育成志向の硬派系啓蒙系situation comedyは、今のアメリカでは、犯罪暴力系や裁判系ほどには人気がないようですし、製作されてもいないようです。

なんかなあ・・・新世界秩序(The New World Order)の人類牧畜化計画は、まずTVからでしょうか。

しかし、考えようによっては、アメリカのTV番組にだって、チャンネル13のPublic TV(公益放送。アメリカにも教育テレビはある。このPublic TVが面白い!『女とお金』なんていうレクチャーをしてくれますし、『道教のすすめ』なんて番組もあります)と同じく、まだまだ、しっかり啓蒙的と言えるかもしれません。

アメリカの犯罪捜査系番組は、少なくとも、「この世界は荒野だ、ジャングルだ、油断しないで生き延びろ!Don’t get fooled again!」というメッセージを視聴者に伝えますし、TV裁判系は、少なくとも「法律はこうカタをつけます」という情報を伝えてくれますから。

ま、何でも解釈のしようによっては、役にたつかな。製作サイドの期待を裏切る効果(可能性)があるというのが、「作品」というものでしょうから。視聴者は、どこを視ているかわからない!何を感じるかわからない!

ともあれ、私たち日本人は、日本のTV番組のつまらなさに、心から感謝しなければなりません。あの凄まじいつまらなさは、明らかに意図的なものです。作為です。日本人をしてテレビ受信機から遠ざけて、読書と思考に誘おうという、TV局とスポンサーさんたちのありがたい思し召しなのです。文部科学省の御指導があるのでしょう(きっと)。ありがとうございます、日本のTV局。YouTubeもあるから、TV局なんか、もう消えてもいいよ〜〜なんて言うと、罰があたります!

今回で、アメリカのTV番組の話は終ります。ご静聴(?)ありがとうございました!