アキラのランド節

3月11日以後の以後  [07/20/2011]


昨日、Twitterやめた。

「今日、ママが死んだ」(カミュ『異邦人』)のパクリです。

ソファにひっくり返って、iPadで入力して書けるような」程度の短文ばかり書いていると、私の場合、余計に脳が悪くなるようだ。だから、スカスカの隙だらけの緩んだ不用心な放言が多くなる。

そうなると、匿名で身元隠しても跋扈(ばっこ)できるTwitter界の魔にひっかかる。フォロワーしてくださる方が2000名を越すと、私がフォロワーさんに送ったつぶやきを、自分に宛てて書かれたかのように捏造(ねつぞう)して、つぶやいているストーカー&変質者に遭遇することになる。

気持ち悪い〜〜〜きもいわ〜〜サイコ〜〜〜って、最高じゃないですよ。サイコパス(psychopath)のことですからね。

コロンビア大学の大学院を修了したと、Twitterで(誰にも問われていないのに)自慢しているような「優秀な方」に、なんでそんな異常なことやっている暇があるんでしょうかね。狐が憑いているのでしょうか〜〜♪タヌキが憑いているのでしょうか〜〜♪ プルトニウム霊ですね、もしくはセシウム霊か。

しかし、やはり、文というものは、きちんとデスクについて背を伸ばして書くものでありますね。

はあ・・・安心できる古巣に帰ってきたような気がする。事実そうなのだけれども。ここは聖域。結界はってあるぞ。

この6月や7月に、(大したことではないけど)気持ち悪いことをいくつか体験した。これは。偶然とは思えない。

3月11日の東日本大震災に続く東電核分裂発電所(福島原子力発電所って言わないの!)事故のショックで、私がクルクルパーになってしまっことは、5月に書いた。それがいまだに治っていない私の心の真空が、そこに巣くった魔が、6月や7月に経験した不快なことを呼び寄せた、と思うのよん。

最近の私は、意地悪です。

桃山学院大学で去年教えた学生さんたちのうち、15人くらいが、今現在に、アメリカやカナダやオーストラリアに語学留学している。その中の一人が、英作文を添削してくれと、最近になって依頼してきたけど、黙殺した。

前の私ならば、忙しくとも、どんなひどい英文でも添削して、サンプル文までつけて送り返していたのに。

「留学しているんだから、そばに母国語が英語である人間はワンサカいるんだから、誰かに頼みなさいよ、そんなことを頼むこともできずして、留学する意味があるのか。そりゃ、わかっているよ。あなたも辛いと思う。欧米諸国は、日本や他のアジア諸国に比較すると、外見で人を決める。留学生でも、背が高くて、(わかりやすい明るい)容姿であれば、相手にするという度合いが大きい。あなたは容姿で勝負できるタイプじゃないし、英語の発音も明瞭じゃないから、あなたの言っていることは、相手の耳に届かないことが多いと思う。あなたは、自分の話ばかりして、相手の話を聴く習慣がないから、あなたと話す人は、あなたと話しても楽しくないから、あなたを相手にしなくなる。あなたの相手をするのは、だから、教師ぐらいしかいない。でも、あなたが通っている某国の某大学付属の英語学校の先生は、正規のクラスの義務以外に、そんなことはしてくれないと思う。なんでかというと、先生から、正規の義務の労働以外のことをしてもらえるように、個人的好意を先生から引き出せる努力を、あなたはしていないだろうから。あなたは、自分しか見えていないのではなく、自分も他人も見えていないから」

「それに、そもそも、なんで別の大学に移った私に英文添削を依頼するのか?あなたが所属している大学の教員に頼むのが筋ではないか?」

と、前の私ならば、「この忙しいのに・・・」と思いつつも、メイルで長々と説教したに違いない。しかし、今の私は返信もせずに、無視だ。

面倒くさい。

前に交換留学生で桃山学院大学に来ていたカナダ人男子学生のメイルも無視した。彼は優秀な人で、将来は医師になるつもりであるが、美人のガールフレンドが宝塚歌劇と日本アニメが好きで、日本に1年間留学したいというのを、じゃあ僕も・・・と付いてきて、私と知り合った。しかし、日本語能力が伸びたのは、彼のほうだった。

彼は、たった半年日本に滞在しただけで、日本語の読み書きが、かなりできるようになった。私へのメイルは日本語と英語半々だけれども、その日本語は、ちゃんと敬語や丁寧語を正確に使おうと努力している。だいたいが正確な日本語だ。すごいよ。

カナダに帰国後しばらくしてから、バンクーバーで「日本語スピーチ・コンテスト」があるので、スピーチ原稿を見てくれないかと依頼された。タイトルは、「神道と私」だった。

神道と私??

こいつ、何を考えとるんじゃ・・・と思いつつ、私は、サッサと日本語添削して送信した。残念ながら、そのコンテストでは、優秀賞を取ることはできなかったが、日本領事館の人や在カナダ日本人の聴衆の方々が、スピーチあとに、非常なる好意を、彼に示してくださったそうだ。神道に敬意を払うカナダ人秀才青年だもん。

彼は、私が引率(?)して連れて行った伊勢神宮の内宮で、「天照皇祖大神」と書かれた掛け軸(税込み1万円)を購入して、自室に飾っているそうだ。私がテキトーにプレゼントした岡本天明著・中矢伸一訳『日月神示』(ひつきしんじ:前は市販していなかったけれども、今はヒカルランドが出版してる)上下巻を、読み進めている。私は4部も持っているだけで、読んでないです。

こういうカナダの若者もいるのだ。喜ぶべきか。あきれるべきか。喜ぶべきだな。

でも、先日、神道に関する英文エッセイのコンテストに応募するから、エッセイ見てくれと依頼された時は、ザッと、そのエッセイを読んだだけで、黙殺した。

面倒くさい。

彼の神道理解について、いちいち、「あなたも知っているように、日本の神道には聖書もないし、カテキズム(教理問答)もない。清浄であれば正常でいられますよ、不浄=魔に入りこまれませんよ、ぐらいしか共通ルールがない。あなたが、考える神道について書けばいいでしょう。私が、とやかく言うことはないですよ」と、書くのも面倒だった。

単に、彼は、「こんなすごいエッセイ書きましたよ〜〜僕は優秀でしょう〜〜?」と自慢したかっただけかもしれない。カナダから、アメリカはボストンにある医学部進学準備の予備校に、家族や友人や恋人と離れて、夏季休暇の間にいるのが、ちょっと寂しいのかもしれない。

でも、今の私は、「だから、何よ? あんたのことを褒めちぎってお守りする義務が、私にあるのかよ」という気分だ。

この「面倒くさい」と捨て置く気分が、「魔」であります。

この「面倒くさい」と思う感情は、別名、「不寛容」もしくは「自閉」とも言います。

6月に大阪府某市(吹田とは書けないわん)の男女共同参画センターで連続3回の講演をしたときも、この「不寛容」と「自閉」が出ましたね〜〜(って、他人事みたいですが)。

私の講演の内容をまとめる担当のスタッフの女性が、講演終了後に、ニコニコ笑いながら(ヘラヘラと言うべきか)、「あの〜〜フェミニズムって、何ですか?」と質問しに来たときも、面倒くさかった。だから、「インターネットで検索すれば、いくらでも出てきますよ」と、超テキトーに、無責任に、答えておいた。

だって、驚くじゃないですか。フェミニズムの意味を知らない人間が、男女共同参画センターのスタッフをしているなんて。男女ニューハーフ混浴センターのスタッフじゃないんだからさあ。

こんなの、あり得ます??? 男ならばしかたないよ。「男は、自分の安楽な消費生活を支える下部構造である」と信じて疑わずに実践できる搾取系女ならば、しかたないよ。

あのね、ここで、私は、フェミニズムという思想のおかげで、女の生きる状況がどれくらい緩和されてきたことか・・・なんて優等生みたいなことを、言いたいわけではないの。

むきだしの事実としては、女性の社会(公的領域)進出の一番大きな原因=物質的条件は、フェミニズムという思想じゃない。もちろんのことだ。

産業社会、資本主義社会の進展のおかげで、炊飯器も、冷蔵庫も、洗濯機もできて、女が家庭内労働に費やす時間が大幅に減った。その資本主義社会という体制は、すべての男が女・子どもを養うことができるわけではない社会(=勝ち組と負け組がある社会)であることを促進するので、自己防衛上、しかたないので女も家庭外賃金労働せざるをえない。女も働かせて税金取ってやれ〜〜税金を搾りとれる奴は多ければ多いほどいい〜〜という各国政府(の背後にいる世界の動向を決める勢力?)の思惑もある。この3つが、女性の社会進出の主たる原因である。

フェミニズムなんか知らなくとも、社会で活躍する女は多い。フェミニズム学んでも、なにも生産せず、人さまの生み出すものに寄生しているだけの女もいる。それは私。

ではあってもだ、なんで高等教育を受けた女性が、しかも、「男女共同参画センター」に勤務する女性が(正規採用ではないかも)、フェミニズムについて知らないのか?

でも、こーいうことは、ありえる。原子炉の専門家がいない電力会社が、核分裂発電所をいくつも所有して管理している。だから、ありえないことは、ありえる。十分に、普通に、ありえる。It happens. しつこいわ!

だから、びっくりした私が、あまりにナイーヴで無知である。私が悪い。以前の私ならば、ちゃんと一瞬の間に、思考をめぐらせて、「ま、しかたない・・・」と、驚きを鎮(しず)めて、フェミニズムの意味を、無料で、懇切丁寧に教えていたに違いない。いろいろ例もあげたりして、わかりやすく。ここぞ、伝搬活動と思いつつ。

しかし、今の私には、そういう忍耐も寛容もない。馬鹿は捨て置け、という気分である。念のために話しておこうか、まだ若いんだし、悪い人ではなさそうじゃないの・・・という気分にならないのよん。

ついでに、後日、なんかの広報に載せるとかで、このお役所さんが、スタッフがまとめたという私の講演要旨を、「チェックしてください」と、Emailで送ってきた。その短文は、何も言っていないに等しいものだった。だから、「御参考までに、私ならばこう書きます」とことわって、全文書き直したものを送信しておいた。

まもなく、「講演要旨のまとめは、スタッフ育成の訓練でもありますので、スタッフが書いたものを採用します」という返信が来た。

意味わからん。ならば、なんで、いちいち、スタッフの書いた、わけのわからん文を、私に送ってきたんだよ!私は、暇じゃないんだよ!

自分が書いた全文を削除否定された馬鹿スタッフの立派な肥大したプライドが一丁前に傷ついたのか、泣き崩れて厚化粧も崩れたのか、なんか知らないが、税金使って、このお役所は、何をやっているんだか。

しかし、こんなことだって、前の私ならば、「こいつ、思いっきり馬鹿だなあ〜〜」と思いつつ、「簡潔にまとめてくださり、ありがとうございました。これで問題ありません」とか、サッサとテキトーに書いて返信していたに違いない。だって、どうでもいいといえば、どうでもいいいことだからさ。

でも、今の私は、駄目なんよ。そーいう、わけのわからんことに、つきあう気力がないのよん。素直に、サッサとむかついて、サッサとそのむかつきを露わに出すのよん。

というわけで、私の中の「もっともかもしれないが、この世では不寛容と否定されるであろう怒り」が、じわじわと蓄積されていた真夏の朝に、私は、カラスの呪いを受けるはめになった。瀕死のカラスの断末魔の鳴き声につきまとわれ、とり憑かれるはめになった。

私は、職場までの2キロを歩いて通っているが、7月のある朝に、でっかいカラスが、自動車にはねられたのか、飛んでいるときにビルの壁にでもぶつかったのか、変なもの食って中毒になったのか、道ばたに座り込むような形で、へたりこんでいた。

私は、日傘を深くさして歩いていたので、そのカラスにかなり接近してしまってから、カラスの存在に気がついて、ギョッとした。

カラスは、間近で見ると、頭もでっかくて体もでっかい。当たり前だが、カラスだから真っ黒だ。そいつが、へたりこんで、ギャアギャア鳴いていた。なんと不吉な鳴き声。なんと禍々(まがまが)しい目に嘴(くちばし)。なんと暑苦しい真っ黒な姿。しかも相当なデブのカラス。

カラスは、野鳥保護だかで、人間が危害を加えないので、人間をなめている。環境をなめている。(人間を含む)環境をなめている動物は、まったく可愛くない。都市に住むカラスに、天敵はいない。天敵がいないカラスは、ついつい環境をなめてしまい、油断が過ぎて、なにかの事故にあって、へたりこむはめになる。自業自得じゃ。普段の心構えがさもしいんじゃ。

カラスを天敵とする小さな鳥は多い。カラスが、数羽でグルになって、一羽のすずめを追い込んでいるのを目撃したことがある。あいつらは、無駄に賢い。気持ちが悪いほど賢い。デリバティブとか、債権の証券化とかの、金融工学を考えた人間のように、無駄に賢い。カラスなんか大嫌いだ。

だから、私は、カラスがへたりこんで、痛いのか苦しいのか、ギャアギャア鳴き叫んでいるのを見て、「ゲッ・・・通勤途中にいやなもの見ちゃった。みっともない醜いカラス。きもいわ!あ〜〜気持ち悪い!!」と思い、サッサと急いで、その場から立ち去った。

ところが、そのカラスの鳴き声は、ずっと私を追いかけきた(ような気がした)。そのカラスは、まともに目があった(?)生き物であった私に、断末魔のなかで、ともかく何かを訴えたかったのだろう。黙って悟って静かに死ぬ気にはなれなかったのだろう。何とも切実に、私の背に向かって、泣き叫ぶしかなかったのだろう。

が、わたしは無視した。だから、どうせいというのか。私にできることはない。鳥は触るのも厭だ。私は、朝から暑いのに、醜いカラスの断末魔なんかを目撃するはめになった自分の間の悪さを呪った。

その日は、なにか調子が悪かった。その日から数日間、カラスの断末魔のしつこい鳴き声は私の耳に聞こえていた。なにやら背中にべったりと重苦しいものを感じた。

カラスの呪いだ〜〜〜

これが、「呪い」(というか、生き物の切実な思い)ならば、あのカラスは、霊能者のカラスである。無駄な能力じゃ。

Twitterで、「カラスの呪いはどうしたらいい?」と質問したら、「塩を自分にかけて、玄関の外に盛り塩して、家の内部の4隅にも盛り塩をしなさい」と教えて下さったフォロワーも方がいたので、素直にそうした。

そうしたら、それまで私の耳に聞こえ続けていたカラスの鳴き声が小さくなり、肩や背中がスッキリしてきた。塩パワー恐るべし。

小動物の呪いくらいならば、塩で効くらしい。私は、ニガリを使用してないほんとうの自然塩しか使いませんからね〜〜♪ 「真生塩」だけ。味塩なんか使いません。入浴するときに使うアンデスの岩塩は効くかな?

めでたくカラスの呪いをおさめた後(のち)、私は大いに反省した。以前の私ならば、たとえ、とても醜くく、かつウオール街の金融の鬼のように悪賢いカラスとはいえ、「死ぬときは、やはり怖いんだろう、寂しいんだろう、辛くて寂しくて、絶叫するんだろう、悲しいなああ・・・生き物って」と思い、離れ去ってから、立ち止まって祈ったに違いないのだ。

「苦しまないで死なせてあげてください。好きで、自分で選んで、この世界に生まれたんじゃない。生まれたら死ぬまで生きていかなきゃいけない生き物が抱えている哀しさは、カラスも人間も同じです。みんな、可哀そうです。生きてるってことは、ほんとに可哀そうです。神様、どうか、あのカラスを苦しまずに死なせてあげてください」と。

なのに、私の停滞した心が生んだ停滞した日々が生んだ、私の心の魔は、他の生き物のために心をこめて祈るという余裕を失っていた。

で、極めつけは、Twitterだった。次に登場した、「瀕死の断末魔のカラス」は、私にしつこくからんできた変質者だった。

第一線でガンガン仕事していて、それが社会的にも高い評価を得ている人間は忙しい。自分がフォローしているわけでもない見知らぬ無名の他人のつぶやきに、しつこくからむようなことはしない。そんな暇はない。変質者は偏執狂。で、ついでに孤独。だから暇に決まっている。だから相手にしてはいけない。

以前の私ならば、「あ、この人は、自分の人生の不如意に対する鬱屈を、私にぶつけているのだな」と判断して、無視できたのに。無視というのは、こういう場合の、有効な手段なのに。

すべては、自分がまいた種である。

3月11日ショックでクルクルパーになった私が、いつまでもクルクルパー状態に停滞しているのが諸悪の根源である。自分を甘やかして、Twitter界でウロチョロして放言していたからこそ、こういうはめになるのである。

ここは、意地でも、その停滞から絶対に抜け出そうと、自分に巨大なる負荷をかけて努力するしかない。

というわけで、私は、ずっと心身ともに疲れているという自覚症状はあるのだが、もうそんなことに構っていられなくなった。停滞を、じっと待っていても、停滞のままだ。そこに魔が入り込む。

明日、死ぬかもしれない時代だ。この天変地異が花盛りの時代に、なにを悠長に、いつまでも、「プチうつ」を、やっているのか。日本もアメリカも債務不履行(かも)、円もドルもユーロも暴落(かも)、忍び寄る食糧危機と水不足(これは確実)、さらなる失業率上昇(これも確実)と、ややこしくなるのは、これからだ。「停滞」や「プチうつ」という贅沢が許される身ではなかった、私は。何も持たないプロレタリアートですがな。

ということで、また、このウエッブサイトに帰ってきました。今度こそ、もっと頻繁に短いものをドンドン書き更新します。今度こそ、ほんとうです。この長き停滞の4カ月間以上、ほんとうに集中できたのは、読書よりも、書くことだったことは、はっきりしている。ならば、結界の張られた清浄なるこのサイトこそが、私の居場所だ。

みなさま、これからも、「日本アイン・ランド研究会」をよろしくお願いいたします。「アキラのランド節」を、読んでやってください。次回は、「3月11日以後の以後の以後」は、書きません。