アキラのランド節

9月14日第5回「東京アイン・ランド読者会」大阪で開催!  [05/01/2014]


唐突に、本題に直進する。

今年の佐々木一郎さん主宰「東京アイン・ランド読者会」は、9月14日(三連休の真ん中の日曜日)に開催される。私は、また講演をさせていただく。

会場は、大阪市の淀屋橋である。午後に開催である。

懇親会は、難波でやるぞ〜〜〜道頓堀のグリコの近くでやるぞ〜〜〜♪

2014年は、アイン・ランド(Ayn Rand:1905-1982)のThe Fountainhead(1943)の翻訳『水源』が出版されてから10年目である。だから、『水源』について講演させていただく。

『水源』について語るのは、私にとって難しい。とてもとても難しい。体重を減らすよりも難しい。

「この小説だけは、翻訳して出版してもらわないと、死んでも死にきれない!!」と思いつめて翻訳した小説について、語るのは難しい。

私は、『水源』についてだったら、際限なくしゃべり散らかすことができる。私の人生を変えた小説だもの、47歳の私の全細胞を活性化してくれた小説だもの、いくらでも話せる。ぶっつづけで5時間でも6時間でも話せる。

が、常識的には講演時間は2時間だよな。ほんとは90分ぐらいが適切なんだろう。

でも『水源』についてだもの!!2時間ぐらい話させて!!!

が、何を話そうか。あまりに好きな小説だと、何を話していいのか、わからなくなる。

何をテーマに『水源』について講演するのか、まだ私は決めることができない。すみません!!

何事にも決めるのは早い私であるのに。迷うということが、ほとんどない私であるのに。

しかし、せっかくの『水源』出版10周年である!!聞いていただく方々にとって、決して時間の無駄にならないような質の講演をしたい!!しなければならない!!

私は、誰がなんと言っても、小説としては、『水源』の方が、『肩をすくめるアトラス』より、生命が長いであろうと確信している。

それは、なぜか? そんなことをお話したい。

とはいえ、私がこの小説を読んだときから13年が経過している。翻訳していた頃からだと、11年が経過している。

その10年間以上の間に、私のアイン・ランドに対する敬意は深まったと同時に、アイン・ランドの考え方と私自身の考え方の差異も、はっきりしてきた。それでも、それだからこそ、私は、アイン・ランドの考え方に共感できる。

そこんところも、お話したい。

たとえば、私は無神論者ではない。「死んだら終わり」と思っていない。

なんで「無神論者」でいられるんだ?

「死んだら終わり」と思っていたら、安心して死ねないんじゃないの?死ぬのが怖くなって、いつまでも無意味に無駄に生存したがるだけの生ゴミになるんじゃないの?

「死んだら終わり」と思っていたら、生きている間に思いっきり面白いことしようと思ってドタバタしなきゃならなくなるでしょ? 眠るのがもったいなくなるでしょ?いずれ永遠に眠るんだから、なるたけ起きて、いろんなことしようと、覚せい剤を飲んで遊ばなきゃならなくなるんじゃないの?

「死んだら終わり」と思っていたら、生きている間に、世界中を旅しないと損だ!損だ!損だ!でもカネがない!暇がない!とイライラしなきゃいけなくなるんじゃないの?

「死んだら終わり」と思っていたら、与えられたこの人生をきちんと生きていけばいいんだ、この世の次元で損だの得だのとセセコマシイ計算なんかしなくていいんだと、「ケツをまくる」ことができなくなるんじゃないの?

「死んだら終わり」とほんとに思っていたら、いかに他人を傷つけようが、搾取しようが、使役しようが、自分の快楽と享楽と安寧を守り継続させることに汲々とするんじゃないの?ロックフェラーさんになっちゃうんじゃないの?

また、私は「理性」(利性)というものに重きを置いていない。よくよく考えないと、わからない人間は馬鹿であると思っているのが私という人間である。

ほんとうの知恵や洞察は、ひらめくものであって、外からか内からか知らんが、どこかから啓示のように届けられるものであって、考えて出てくるようなもんじゃないと思っているのが、私という人間だ。

アイン・ランドの言うように「長期的視野で自己利益をはかり、それを追求する」ということは、当然であると思いつつ、長期的視野って何年のスパンなんだ?100年くらいならば、もう私には手が負えんわ・・・と考えることを放り出して、まあ、損してもいいわ、どうってことないわ・・・と動いてしまうのが、私という人間だ。

なにしろ、損すると、「これだけ損しているんだから、どこかで帳尻があって、大難は避けられるだろう〜〜大難が小難になるだろう〜〜」なんて、希望的観測ばかりしているのが、私という人間だ。

ぶっちゃけて言うと、「ひょっとして、神様なんていないんじゃないの・・・?」なんて疑問は、一度も脳によぎったことのない脳タリンが私である。

かといって、他人と「神は実在するか!?」と議論する気もないし、無神論者と議論する気もないし、「神を讃える」話を他人としたいわけでもない。

教祖だの、宗教組織だの、経典だの、教義だの、そんなもん必要じゃないんだよ、私は。そんなもん必要じゃないほどに、度し難く宗教的な人間だもの、私は。

教会とか神社とか寺なんかに頻繁に通うほど、聖職者と長々と対話をするほど、暇じゃないということもあるけれども、なんで、そんな建物やメンターが必要なんだ?あほらし。

私には、幽霊も悪霊も見えない。天の声も、お告げも、なんも聞こえない。が、いろんな存在が、そばにいることを当然のことと感じているのが、私という人間だ。

つきあう人間は、直感で決めるのであって、いくら「いい人」であっても、直感が「やめとこう〜〜」と言えば、関わらない。いくら「いけ好かない奴」でも、直感が「別にいいじゃん」と言えば、つきあうんだ、私は。

というわけで、私は、その意味では、21世紀に生きる中世人なんである。アイン・ランドに蹴飛ばされるような類の人間なんである。

じゃあ、私は、中世人だから、ゴリゴリの近代主義のアイン・ランドに憧れたのだろうか?

いやいや、そうじゃない。

では、いったい、どういうことか?

そこんところも、講演では、お話したい。

何しろ、そこんところが、アイン・ランドの『水源』の引力なんだから。

引力というか、重力というか、読者を鼓舞してやまないパワーというか、ハワード・ロークの能天気というか。

何を言っているかわかりませんが。

ともあれ、みなさま、お気が向いて、ご都合がおつきになるのならば、是非とも、第5回「東京アイン・ランド読者会」にご参加ください!!

当日に唐突に来てくださっても、いいんじゃないかなあ・・・だって、「東京アイン・ランド読者会」の主宰者の佐々木一郎さんは、「38名」も入れる会議室を借りちゃったみたいだし。

この第5回「東京アイン・ランド読者会」については、夏に、あらためて、また宣伝させていただきます!

すみません、すみません。「アイン・ランドとNWO陰謀論(2)は、まだ書けないです。アイン・ランドを貶める陰謀論を、煮込まないといけないのに。

いや〜〜ほんと、3月も4月も忙しかったんである。

3月の春休みだって、論文作成のために休めなかった。4月からは、怒濤の労働が再開したし。

能力や才能が、こんこんと泉のごとく湧き出てくる人はいざ知らず、私みたいな凡人以下の人間は、還暦過ぎて身体もガタガタの人間は、生活費獲得労働以外のことをする場合、「ほとんど使い切った練り歯磨きのチューブ」になんである。

どーいうことか?

「ほとんど使い切った練り歯磨きのチューブ」は捨てる前に、グイグイと指で押して、中身を搾り出すじゃないですか。スペアを置いていない場合は、しかたないから、ハサミでチューブを切って、まだ残っている中身を出したりするじゃないですか。

つまり、今の私は、もうない能力を絞り出して、絞り出して、「ああ、まだ使える!あった、あった!」と喜んでいる状態である。

自分という、くたびれ、ペシャンコになり、よじれたチューブをグイグイ押して、中身を搾り出すのは、しんどい。とても、しんどい。

だから、すみません。「アイン・ランドとNWO陰謀論」(2)は、お待ちください。

ところで、右脚の不調は相変わらずだ。ただし、2月の終わり頃から、名古屋に帰るたびに名古屋の某整体院に通い始めたおかげで、杖をつかずに歩けるようにはなった。サッサカと軽やかに歩くのは無理だけれども。

「謎の整体師」さんによると、私の骨盤は相当に歪んでいるそうだ。しかし、背骨は、まっすぐなんだそうだ。

普通は、「これだけ骨盤が歪んでいると、背骨も曲がる」んだそうだ。しかし、私の身体は、断固として、背骨を曲げることに抵抗したらしい。だから右脚と左脚の長さが3センチ以上も差が出てしまって、歩行困難になったらしい。

なんだ、それ?よく、わからん。

「どーしたら、こんなふうに歪むかねえ?」と整体師の先生に質問された。

知りませんがな。

その謎の整体師さんの施術のいいところは、時間が短いところだ。チャッチャと10分ほどである。

1時間もタラタラ施術されたら、かなわん。私は、かなりのイラチで短気だからね。いつも通っている美容院の先生に、「10分ですむところもありますよ〜〜」と教えていただいて、すぐにアポイントメントを取った。

それまで、妹とか友人知己とか同僚とかから、整形外科の名医とか、整体を含むマッサージとか、カイロプラクティクスとか、鍼灸とか、親切にいろいろ助言をしてもらった。そのたびに、「そうですねえ・・・はい・・・」の感じだったけれども、「10分整体」情報には、ピンと来た。

おかげさまで、杖は使わずに歩けるようになった。

でも、やっぱり歩行困難は疲れるね。とても疲れやすいね。

疲れを癒してくれるのは、iPadで見まくるYouTubeの映像だ。ここ数日間は、女警部補「姫川玲子」が24ヶ月ローンで購入した中古85万円の赤いオータクロア(エルメスのバーキンの元の形のバッグ)を持って走りまくる『ストロベリーナイト』の映画版の視聴だ!

『ストロベリーナイト』というのは、テレビで連続ドラマ化されていたらしいけれども、そっちは見たことない。だって、主役の「姫川玲子」役の竹内結子さんは、原作のヒロインとはイメージがかなり違うもん。原作の姫川玲子は、身長170センチの大女で、華奢じゃない。

でも、ああいう清楚な華奢な美人が、飾り気のないブラウスに黒いパンツスーツを着た女性刑事を演じるのが、いいんかな?もっと綺麗な格好してもらいたいな〜〜

なんで、テレビドラマに出る女刑事は、黒いパンツスーツなんだ?赤いドレスを着てはいけないのか?

なんで、テレビドラマに出る女刑事は、髪が長くて、ザンバラなのか?忙しいのだから、ショートカットにすればいいのに。カチューシャでとめちゃいけないのか?シュシュでまとめていてはいけないのか?

そもそも、「女刑事」って、日本の警察に存在するの?「婦人警官」と「女刑事」って違うの?

原作は、誉田哲也(ほんだ・てつや:1969 -)の『インビジブルレイン』(光文社、2009)ね。

YouTubeで、この映画をなんで何回も見るかと言えば、暴力団の幹部役の「大沢たかお」(1968-)がいいんですよ〜〜♪ 

すっごくいいのよ〜〜〜♪

『JIN-仁-』なんかの時は、ドラマ自体はいいけれども、綾瀬はるかちゃんは、いいけれども、この俳優さんはいいとは思わなかった。

変態少女暴行殺人犯を福岡から東京まで輸送するSP警官を演じた『藁の楯』(三池崇史監督2013年)を見たときも、特にいいとは思わなかった。

この男優さんは、明るい好青年を演じると、なんか微妙に無理っぽく見える・・・嘘っぽく見える・・・と、私は思う。けれども、「悪役の大沢たかお」は、とてもいい!!

だいたい、この男優さんには、爬虫類っぽい優雅さがあるでしょ。トカゲって優雅でしょ。熊やゴリラのような哺乳類より、はるかに優雅ですよ、爬虫類は。

だから「インテリ極道」とか「紳士的に見える極道、実はものすごく残酷〜〜〜乱暴〜〜♪ とかの役だと、そのヌメっとした肌の質感が、「怖い〜〜〜怖いけど素敵〜〜〜」って感じで活かされるのよ。

(映画版『ストロベリーナイト』は、ほとんど雨のシーンばかりです)

原作では、「身長191センチの48歳の暴力団の組長」の役を、「大沢たかお」にキャスティングした人はえらい!

いや、ほんとうは、絶対に頭に浮かぶはずないんだよ、原作を読んだならば、「大沢たかお」なんて浮かぶはずない!

このキャスティングした人物は、韓国の歌手のミュージック・ヴィデオMVのMy Firstを見たに違いない!

この韓国のMVは、東京が舞台なんだよ。ソ・ジソブ(1977-)が演じる自分の子分を殺害しちゃう暴力団の親分の役を演じたのが大沢たかおさん。

このMVの大沢たかおさんの爬虫類的魅力を、映画版『ストロベリーナイト』の監督とかが、どこかで観たに違いないんだ!

ソ・ジソブ(1977-)って知っていますか?私が、愛してやまない映画のひとつ、2008年発表の韓国映画『映画は映画だ』で、カン・ジファン(1977-)とともに主役をはった人。

この『映画は映画だ』っていう映画はいい! 映画を映画にしたメタ映画なんよ。「しょせん、映画は現実にはかなわない。映画は、しょせん映画だよ」ってことを示した映画だ。

極道みたいな気の荒い映画俳優(カン・ジファン)が、ほんとうの極道(ソ・ジソブ)に出会い、その生き方の苛烈さに触れて、いい気になっていた自分の軽薄さを、とことん思い知らされる話だ。

「しょせん、映画は現実にはかなわない。映画は、しょせん映画だよ」なんて、あたりまえだって?

そうかなあ・・・私たちの脳は、けっこう商品としてのフィクションにしっかり洗われてしまっていて、現実をそのまま受容することができなくなっているんじゃないかなあ・・・

「人生はこうじゃなくちゃいけないのに!」とか、「恋愛って、こんなもんかしらん!違うんじゃないかしらん!」とか、「こんな青春・・・おかしい!」とか、「家庭って、こういうもんだとは思えないけど・・・」とか、「こんなに淡々とした退屈な日々って、虚しい・・・」とか、生きる過程でいろいろ感じる不満は、ひょっとしたら、ドラマや映画が、あなたの脳に埋め込んでしまったイメージから、発生しているのかもしれない・・・

そのイメージと現実との差異に、あなたは苛立っているのかもしれない・・・

私たちの現実受容力や、現実直視力は、物語によって弱体化、劣化しているのかもしれない・・・って、プラトンみたいなこと言っていても、しかたないか。

(『映画は映画だ』のポスター。白いのはカン・ジファンさん。黒いのがソ・ジソフさん。)

あかん。元来が怠惰なミーハーな私。ガキの頃からテレビしか見ていなかった私。映画大好きな私。こういう話題になると、話が止まらん。おあとがよろしいようで。

9月14日の第5回『東京アイン・ランド読者会』をお忘れなく、お願いいたします!!