アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その13)  [12/28/2014]


「新しいアメリカの夢?」
2014年1月19日「山陽新聞」朝刊備後版(藤森コラム番号37)

アメリカの人気番組に『スージー・オーマン・ショウ』がある。金融アドヴァイザーとして知られるスージー・オーマンという六〇代はじめの女性が、視聴者の金銭問題に関して助言を与える番組である。

オーマンは、自己破産の申請方法なども教えてくれる。今のアメリカの経済問題のひとつは、就職ができないので、ステューデント・ローン(学資の借金)を返済できない若い人々の窮状である。アメリカの法律では、ステューデント・ローンだけは、自己破産しても返済しなければならない。だから、この問題は深刻なのだ。

オーマンは、法律を変えようと、政治家に働きかけている。だが、道のりは厳しいようだ。ちなみに、英語のスカラシップ(奨学金)というのは、返済の必要のない給付金のことである。日本で言う「奨学金」の多くは、実際は「奨学金」ではない。返済しなければならないならば、ステューデント・ローンである。

『スージー・オーマン・ショウ』は、二〇〇二年に放送開始された。しかし、本当に人気番組になったのは、二〇〇八年のリーマン・ブラザーズの経営破綻後である。なぜか?リーマン・ショックのために不況がアメリカを襲ったからだ。多くのアメリカ人が、それまでの旺盛な消費生活から撤退を余儀なくされたからだ。節約と借金返済に勤しまなければならなくなったからだ。

スージー・オーマンは、そのような人々に、節約と借金返済の方法を教える。さらに、「新しいアメリカの夢は、お金の問題から自由になることです。自分の貴重な労働によって獲得したお金を失ってはいけない。ちゃんと自己管理して自律することこそが、今のアメリカの夢なのです」と唱える。

従来の「アメリカの夢」は、能力さえあれば、無一文からでも億万長者になれる機会が万人に開かれている、というものであった。しかし、「新しいアメリカの夢」は、身も蓋もないくらいに現実的である。地に足がついている。こういう「アメリカの夢」も私は好きだ。

★これは、「ランド節」にも書いたネタだ。あんなにポジティヴ・シンキングで、行け行けどんどんを推進していたアメリカで、急に「節約!!」と言っても、急には止まれない。それに、普通の人々にとっては、カネ使って消費することしか「自己実現」の方法なんて、見つけられない。多くの人々がファッションカネかけるのは、身を飾ることが、一番手っ取り早く努力のいらない「自己実現」の方法だからだ。

★だから、ついついアメリカ人は、消費する。ものを買うことで、自分の人生を確かめる。誰か他人が商品として生産したものをカネ出すことで入手することでしか、テンションが上がらない。

★収入以上のものを買うためにクレジットカードで借金することに依存することから脱出するためには、相当に「コスモを上げる」ことが必要だ。よほどの大きな目的とか大義とか、ほんとうにテンションを上げるようなこと遭遇しないと駄目だ。遭遇しても、それに挑めるような能力や体力や気概がないと駄目だ。

★ということで、やはりアメリカ人のかなりの部分は、借金して物を買うことから抜け出せないでありましょう。ラーメン。



「教育をめぐる誤解」
2014年2月2日「山陽新聞」朝刊 備後版 (藤森コラム番号 38)

言葉の定義は世界共通のはずである。ところが、「教育」については違うようだ。インターネットの辞書とも言える「ウイキペディア」の英語版は、「教育」をこう定義している。「広義の意味での教育は、個人の脳や人格や身体的能力を形成することに寄与する影響力を持つ行為や活動のすべてである。技術的意味においては、教育とは、社会が次世代から次世代へと、社会が蓄積してきた知識や技術や価値観を意図的に伝える過程である」と。 

一方、日本語版ウイキペディアは、こう定義している。「人間がよりよく生き、またそれによって社会が維持・発展するように、人の持つ能力を引き出したり、新たに身につけさせたりする活動」と。

同じウイキペディアの定義なのに、ニュアンスが、英語版と日本語版では、かなり違うのではないか?英語版の定義では、教育の主たる目的を、「社会が蓄積してきた知識や技術や価値観を意図的に伝える過程である」と言っている。一方、日本版定義では、「人がよりよく生きること」や「個人の持つ能力を引き出す」のが教育の目的だと強調しているように、私には感じられる。

ひょっとしたら、このあたりが、学校というものへの数多くの批判の原因のひとつかもしれない。批判というのは、裏返せば、それだけ学校教育に多くの人々が期待している、ということである。ンスター・ペアレントと呼ばれるような類の、学校や教師に際限なく要求する人々がいる理由のひとつも、このような学校という機関への期待が大きいからなのだろう。

現行の文化は英米中心文化である。だから、英語版定義の方が世界基準である。つまり、「教育」の機能は、世界基準では、「社会が蓄積してきた知識や技術や価値観を意図的に伝えること」なのだ。言い換えれば、社会にとって都合のいい人材の育成が、教育の機能である。自分の内なる能力を引き出そうとしない学校を批判しても時間の無駄である。自分の能力は、自分で引き出すものだ。

★この文は、副島隆彦氏編著『日本のタブー』(KKベストセラーズ、20101)に収録されている「教育は洗脳である」という拙文のリサイクルだ。使いまわしできるものは、使いまわししないとね!


「アメリカの法廷ショー」
2014年3月1日「山陽新聞」朝刊備後版 (藤森コラム番号39)

日本のテレビ番組の多くは、アメリカのテレビ番組の真似だ。しかし、日本のテレビ局が真似しようにも真似できない番組がある。それは視聴者参加の「法廷ショー」だ。本物の裁判官が、スタジオに設けられた法廷で、民事訴訟を裁く。この種の「法廷ショー」は、アメリカではいろいろある。アメリカでは、裁判の録音も中継放送も禁じられていない。

私が、これらのアメリカの「法廷ショー」を見て驚くのは、参加する視聴者たち、つまりテレビ法廷の原告と被告の羞恥心のなさだ。原告と被告は、多くの場合、家族か親類か、友人恋人愛人どうしである。その彼らや彼女たちがテレビ法廷で裁判官に訴えるのは、ほとんどが金銭トラブルである。

たとえば、五〇代終わりの母親が、三〇代の息子を訴える。「息子に(日本円で換算すると)三百万円貸した。息子は二百万円しか返済しなかった。残金を返して欲しい」と。一方、息子夫妻は、「残りの百万円は、母が死んだときに備えて葬儀会社に支払った。母のために使ったのだから返済する義務はない」と言い張る。このケースでは、裁判官が息子夫妻にカンカンに激怒して、息子に返済を命じた。当然ではあるが。

こういうケースもあった。四〇代の女性が元交際相手の三〇代の男性を訴えた。交際中に貸したカネを男性が返済しないからだ。被告は、「確かにカネはもらった。しかし、あれはプレゼントだ。借用証はない」と主張する。この女性の訴えは却下された。女性の裁判官が原告の女性に「もっと大人になりなさい」と最後に言い放った。なかなかに厳しい。

もちろん、このような「法廷ショー」に、訴訟問題を持ってくる視聴者は、アメリカ人の中でも質のいい人々ではないのだろう。ショーだから面白おかしく作っているのだろう。確かに非常に面白い。が、このような法廷ショーを見るたびに、私は身につまされる。この世の問題は、ほとんど金銭にまつわるものであり、かつ金銭で解決するしかないものであるらしい。

★これも、2009年初頭に「ランド節」に書いたもののリサイクル。まだまだ使いまわしできるネタはあるはずだ!!探そう。

★800字税抜き2,500円のコラム原稿だけれども、800字書けば2,500円だもんね。2,500円は貴重だ。2,500 円あれば、デリバリーのピザのLサイズ1枚を注文できるぞ。