アキラのランド節

『山陽新聞』備後版のコラム原稿です(その14)  [12/29/2014]


「パラレルワールド」
2014年4月12日「山陽新聞」朝刊 備後版(藤森コラム番号40)

現在は二〇一四年である。しかし、実際は、世の中はパラレルワールド(平行世界)である。心は二二世紀を生きている人もいるかもしれないし、反対に、心はまだ近代以前や原始時代のままの人もいる。人権思想が生まれたのは十八世紀であるが、「自分も他人も、誰もが生まれながらに持っている、より良く生きる権利」という概念を心に根づかせる機会に恵まれずに、心は十八世紀前のままである人々は、二一世紀にも多い。

三月に福山市立大学内で、外部講師を招いての人権委員会主宰講演会が開催された。日本の大学は、キャンパス内の人権侵害であるハラスメントを防ぐための講習を、学生対象にも教職員対象にも、毎年必ず開く。そのような講演会で私が学ぶことは少なくない。

その講演のテーマは、「家庭内の人権侵害」であった。家庭内人権侵害といえば、子ども虐待や、夫から妻への家庭内暴力などが知られている。しかし、最近の問題は、高齢の母親に対する息子の暴力だそうだ。長い不況のために非正規雇用が増えている。成人しても経済的自立ができずに、独身のままに親の住居に同居する男性は少なくない。その場合、母親が家事万端をすることが多い。それで母親が高齢になり身体が弱り家事ができなくなると、家事能力を身につけてこなかった息子がパニックになり、母親に暴力をふるう。子どもが娘の場合は、そうはならないそうだ。

親だろうが配偶者だろうが自分の生活のための便利な道具ではない。家族も、別の人格を持ち、かけがえのない人生を生きる「他者」である。成人ならば、男女問わず、家事能力は身につけているべきだ。教えられずとも、自分で学ばなければならない。自分で何でもしてしまう親は、ほんとうに子どものことを思っているのだろうか。どう生きようが個人の自由ではある。パラレルワールドで構わない。しかし、自分と他者の区別もつかない原始人のような心で生きるのは、せっかく二一世紀に生きているのに、もったいない。

★不況も長引き、格差は拡大し、血縁共同体も地域共同体も壊れると、個別の家庭、家族を形成する人間の資質によって、その家庭や家族の社会性の差が出てくる。つまり、うっかり親が育て損ねると、子どもがとんでもないことになり、修復が効かない。

★戦後日本みたいに「父なき=規範なき社会」になってしまうと、個別の家庭の中に、子どもにルールと秩序と自制と自律を強いる「父なる存在」がいないと、子どもは、もう狼少年以下になる。

★「父なる存在」は、母親が担ってもいい。女もいろいろであり、その辺の男よりもはるかに男らしく「私が法よ」みたいに生きる女もいる。そういう女が「お母ちゃん」である場合は、いいけれども、だいたいの日本の女には、そんな根性はない。脳もない。カネもない。ということで、「駄目息子」は激増するんだろうなあ。

★まあ、そういう人々は互いに滅ぼし合って滅亡するしかない。こうやって、人類は、淘汰されていくのだ。救いようがないよね。救える??無理でしょ。



「世界への借りを返す」
2014年5月22日「山陽新聞」朝刊 備後版(藤森コラム番号41)

人間は、成人するまでに、親を含めた他者から、いっぱいの愛情や厚意や心遣いを受けて育つ。でなければ、赤ん坊は20歳にはなれない。人間は、社会システムに支えられて育つ。行政組織も教育制度も郵便制度も医療制度も交通機関も金融機関も工業も商業も物流も、自然に発生しなかった。長い時間をかけて先人が作り上げ、努力し維持してきたものだ。人間は、食べ物も含め、自然から多くの物を与えられて生きる。太陽も水も魚も野菜も、人間が創造したものではない。

だから、無事に成人したということは、いっぱいもらってきた、ということだ。生まれて育ってきたということは、それだけで他人や世界に「借りがある」。「私は、誰の世話にもならず、ここまで来た」という言葉は、視野狭窄から生まれる。財布を落としても、ほとんどの場合は誰かが拾って交番に届けてくれるような日本で生まれ育ったということは、もう法外にもらいっぱなしで、生きてきたということだ。

この「世界への借り」は、どうすれば返済できるのだろうか?それは、やはり、他人に愛情や厚意や心遣いを与えることで返済する。社会システムの運営と維持に参加し責任を全うすることで返済する。人間が創造したものではないものから受けた恩恵については、返しようがないので、感謝することぐらいしかできないが。

「働く」ということは、いわば、社会システムの運営と維持に参加し、責任を全うすることである。「働く」ということは、確実に「世界に借りを返す」行為である。家事労働であろうが、ヴォランティア活動であろうが、労働は、「世界に借りを返す」行為である。

本音の本音では、日本人は働くことが嫌いではない。日本人の多くは、「働くのはカネのためだ」とは、本気では思っていない。なぜならば、多くの日本人にとっては、「世界へ借りを返す」行為としての労働は嬉しく楽しいことだからだ。日本人が、そのような労働観を持っている限り、日本は大丈夫である。

★この種の綺麗事は、地方新聞のそれまた地方版のコラムに実にぴったりだね。でもさ、こういう精神性でいる人間が、まだあちこちに残っているから、組織だって社会だって、回っていくのだよ。そこんとこ、よろしく。


「女の子の勘」
2014年6月15日「山陽新聞」朝刊備後版(藤森コラム番号42)

女の子には、不思議な「勘」があるのではないか?

以前に勤務していた大学のゼミの女子学生が、ボーイフレンドとドライブに行った。ところが、なぜか自動車が動かなくなった。彼女は、すぐに同じゼミの男子学生に電話をし、助けを求めた。その男子学生はバイクで飛んできてくれた。自動車のボンネットをサッサと開け、エンジンに入り込んでいた猫を取り出してくれた。

その話を耳にした私は、その女子学生に質問した。「なんで、○○君に電話したの?助けてくれそうな男の子は他にもいるのに」と。彼女は、可愛らしい女性で、人柄も良かったので人気者だった。彼女は、「なぜだか、○○君の顔が浮かんだから」と答えた。

彼女は、ボーイフレンドのことは、最初からあてにはしていなかったようである。ボーイフレンドは、競争倍率がすこぶる高い某大都市の市役所職員採用試験に合格した優等生であったのだが。

それで、私は思い出した。小学校一年生のときの出来事を。下校のときに、私は、上履きが入った手提げ袋を振り回しながら歩いていて、袋を小川に落としてしまった。そのとき目の前を五、六人の同級生の男子が歩いていた。私は、とっさに、そのひとりに声をかけた。「佐久間君、袋、落としちゃった」と。

その「佐久間君」は、サッサとそばにいた大人に声をかけてくれた。川から手提げ袋を棒でひっかけて取ってもらえないかと頼んでくれた。おかげで、袋.は私の手に戻った。

あれは不思議なことだった。私は「佐久間君」と仲が良かったわけではなかった。「佐久間君」は、ハンサムでもなかったし勉強ができるわけでもなかった。目立たない子だった。しかし、あの瞬間に、私は、助けを求めるならば「佐久間君」だと即座に判断したのだ。

女の子には不思議な勘がある。成長しても、打算や虚栄心などでその勘を鈍らせることなく、いざというときに助けてくれる(元)男の子を見つけ確保することが、(元)女の子の幸せである。

★この話は、最初は、Facebookに投稿したものだった。そしたら、想定外に、多くの方々から「いいね!」をいただいた。で、このコラムに転用した。

★女というものは、非常に幼い時から女であるらしい。自分を助けてくれる男は、ちゃんと幼いながらも見抜けるものらしい。この「自分を助けてくれる男」は、必ずしも「自分が好きな男」とは一致しないかもしれない。しかし!! そんなことはどうでもいいのだ。クルクルパーの自分が好きな男なんて、しょせん、クルクルパーである。

★幸福な結婚をしたいならば、自分のしょうもない知的水準からの判断による好みとか、学歴とか、社会的立場とか、身長とか、そんなことよりも「いざというときには、自分の味方になって、自分を助けてくれる男」を選ぶべきだと思う。それは、虚心坦懐になってみれば、わかることだと思う。

★このあたりから、担当記者さんから全くクレームがつかなくなってきた。「新聞」のコラムというものは、非政治的であらねばならない。毒にも薬にもならないものであらねばならない。しかし、ほんのちょっぴり、人生の真実を垣間見せるようなものでなければならない!!