Anthem(1938)全訳
アイン・ランド作/藤森かよこ訳『アンセム』

作者前書き

この物語は1937年に書かれた。

今回アメリカで出版するにあたって、私は1938年に英国で出版されたものに改訂を施した。しかし、改訂は文体だけにとどめている。何節かの文章は書き換えたし、いささか極端な表現は削除したが、思想や出来事をつけ加えたり、省いたりはしていない。主題、内容、構成はオリジナルのままである。あらすじも変えていない。いわば改装はしたが、屋台骨や精神は改めなかったわけである。それらを改装する必要などはないからだ。

この物語が書かれた当初、私が集団主義(collectivism)の思想に対して公平でないと評した読者もいた。集団主義が説くことや、それが意図することは、こういうものではないと、彼らは言った。この物語に描かれているようなことを、集団主義は目指していないし、提唱もしていない、誰もそんなことは言っていないと、彼らは評した。

私は、この批判に対しては、次の事実を指摘しておこう。「有用性のために生産を、価値のために生産でなく」というスローガンは、今や常套句のように、しかも適切で望ましい目標を宣言する言葉として、ほとんどの人々に受け容れられている。このスローガンの中に、理解可能な意味が識別できるとするならば、それは何か?人間の仕事の動機は自分以外の他人の要求を満たすことであり、その人間自身の要求や欲望や利益のためではないという思想ではないとしたら、他のどんな思想がこのスローガンに含まれているというのか?

今や、強制労働徴用は、地上のあらゆる国で実践され提唱されている。これは、いったい何を根拠になされているのか?ひとりの人間が他の人々にとって有用であるかどうか、そのような有用性が唯一の考慮の基準であり、かつその人間自身の目的や欲望や幸福は無視されてしかるべきであり、重要性などないと決定する最高の権利は、国家に存するという思想がなければ、こんなことは起きようがない。

我々の世界もまた、この物語に登場するような<天職協議会><優性学協議会><世界協議会>を含むあらゆる<協議会>を有している。これらの組織がまだ我々に全体的な力を及ぼしていないとしても、だからといって、それを可能にしたいという意志が、この世界に欠如していることにはならない。

「社会的利益」「社会的目標」「社会的目的」などは、我々の言語の日常に使用する陳腐な言葉となった。あらゆる活動やあらゆる存在物を社会的に正当化する必要は、当然のごとく考慮されている。ある作家が、著作について、これは、何やら定義できない方法での、「社会全体にとっての利益」のために書いたのだと主張すれば、その作家は丁重なる尊敬に満ちた傾聴と称賛を受けることができる。しかし、作家としてはこれほどに言語道断なる提議というものはない。

なかには、次のように考える読者もいるだろう(私は断固としてそうは考えないのであるが)。この物語が英国で出版された九年前には、世界が向かいつつある方向を直視しないための何らかの言い訳が人々にはあったのだと。今日、証拠は明々白々なのだから、もはや誰にも、そのような言い訳が主張できるはずがない。そのことを直視するのを拒否する人々がいたとしたら、彼らは単なる盲目とか無知というわけではないのである。

現代世界における最大の罪は、道徳的怠慢により集合主義を受け容れる人々のそれである。自分の立場を採る必要から逃げるために保護を求める人々は、自分たちが受け容れつつあるものの本質を認めるのを拒否している。奴隷制を達成するべく特別に考案された計画を支援する人々は、自分たちが自由を愛する者だと言うが、彼らはそのような空虚な肯定の背後に身を隠しているのだ。彼らが言う自由という言葉には何の具体的な意味もありはしない。彼らは、様々な思想の内容は検証されなくてもよいと考える人々である。原則など定義される必要はないと信じる人々である。目を閉じたままにしておけば、事実は消えると信じる人々である。この人々は、自分たちが血なまぐさい破壊や強制収容所にいることを発見すると、道徳的責任から逃げようと期待する。「だって、そんなつもりじゃなかったんだ!」と言いながらメソメソと泣くことによって。

隷属を望む人々は、それを適切に名づけるという名誉を担うべきである。彼らは、彼らが提唱し、許しているものの十全なる意味を正視するべきである。集合主義の十全で正確で特殊な意味を。それが論理的には実は何を意味しているのか、その十全で正確で特殊な意味を。集団主義が依拠している原則の十全で正確で特殊な意味を。これらの原則が導く究極の結果の十全で正確で特殊な意味を。

彼らはそれに直面し、彼ら自身がほんとうに、それを望んでいることなのかどうか、決定しなければならない。

アイン・ランド
1946年春