Anthem(1938)全訳
アイン・ランド作/藤森かよこ訳『アンセム』

第十章

我々は、テーブルについている。何千年も前に作られた紙の上に、今こうやって書き記している。明かりは薄暗い。<金色のひと>の姿がよく見えない。古い大昔の寝台の枕の上に一房の金色の髪がかかっている。ここは、我々の家だ。

今日、夜明け頃に、我々はこの場所に出くわした。何日もの間、我々は切れ目なくつながっている山々を渡ってきた。実は、我々が入り込み進んで来た森は、いくつかの崖の間にうっそうと立ちがっていたのだ。草ひとつはえていない岩の野が広がったあたりに出ると、いつでも我々の目前には大きな峰があった。西の方角にも北の方にも南の方にも、我々の目が届く限り、あちこちに大きな峰が見えた。峰はどれも赤く茶色で、それらの上部は緑色の小川のような森を抱き、その森にはヴェールのように青い霞がかかっていた。こんな山々のことなど、我々は聞いたことがなかった。地図でも見たことがなかった。<未知なる森>は、あちこちの<都>とその住人たちから、これらの峰を守っていたのだ。

我々は、野生のヤギでさえ行こうとはしないような険しい道を登った。石が足元から崩れ落ち、その落石が山の斜面の下方にある岩にぶつかり、さらにもっと奈落へと落ちていく音を聞きながら、登った。山々は、落石が岩にぶつかる度にこだました。落石が岩にぶつかる音が聞こえなくなっても、こだまだけは長く残った。それでも、我々は登った。ここならば、誰も我々の追跡などできないし我々を捕まえることもできないとわかっていたから、登った。

それから、とうとう、夜明け頃に、我々は木々の間に白い炎を見たのだ。目前の険しい峰より高いあたりだ。最初、それは炎に見えたので、我々は立ち止まってしまった。しかし、その炎は動かない。なのに、液体状の金属のようにまぶしいのだ。その白い炎に向かって、我々は岩の間を登った。登った先には、広々と開けた頂上があった。背後にはいくつかの山々がそびえている。そこに一軒の家が立っていた。見たこともないような家だ。白い火と見えたものは、その家の窓ガラスが太陽に反射していたのだった。

その家は二階建てで、屋根は床のように平坦で見慣れない形をしていた。その家の壁ほど窓が多い壁というものはなかった。正面の壁にいっぱいある窓は、そのまま角を回り、側面の壁へと続いているのだった。といっても、こんな壁で、どうやってこの家が立っていられるのか、我々には想像もつかなかった。その壁は強固だが滑らかだった。例の地下のトンネルの中で見た、普通の石ではないような石でできていた。

言葉に出さなかったけれども、我々と<金色のひと>は両方ともわかっていた。この家は、<語られざる時代>の遺物なのだ。周囲の木々が、時間と風雪と、時間や風雪よりも容赦ない人間たちから、この家を守ってきたのだ。我々は、<金色のひと>の方を振り返って、訊ねた。

「怖い?」

しかし、彼女たちは頭を振った。だから、我々と<金色のひと>は、扉まで進み、思い切って扉をさっと開けた。その<語られざる時代>の家の中に、いっしょに足を踏み入れた。

この家の中にある様々な事物について学び理解するのに、まだまだ何日も何年もかかるだろう。今日のところは、見て、自分たちの目に映った光景を信じることぐらいしかできない。我々は、まず窓を閉ざしていた重いカーテンを開いた。室内が明るくなったので、その家の各部屋は狭いとわかった。ここでは、せいぜい一二人以下の人間しか住めなかったろう。たった一二人用の住居を建てることを許されたなんて、奇妙なことだと、思った。

それにしても、そんなに光でいっぱいの部屋など、我々はついぞ眼にしたことがなかった。その太陽の光線は、様々な色、いっぱいの色、こんなに多種多様な色がありえるのだろうかと思う以上の沢山の色の上で踊っていた。我々は、それまで白い家と茶色の家と灰色の家以外の色の家を見たことはなかった。壁には、大きなガラスの破片がいくつかはめられていたのだが、それはガラスではなかった。我々がそのガラスを見上げたら、そこに我々自身の体と、我々の背後にある物の全部が見えたのだ。まるで、湖の表面に映っているような具合に。我々が今まで見たこともなくて、その使い方もわからないようなものもいっぱいあった。それから、どこにでも、どんな部屋にも、ガラスの球があった。中に金属の蜘蛛の巣のようなものが入っているガラスの球だ。我々が、あの例のトンネルで見たことがあるものに似ている。

睡眠広間を見つけたが、入り口のところで、びっくりして我々は立ちつくしてしまった。その寝室は実に実に狭いのだ。なんと、寝台がふたつしか置かれていないのだから。家の中には、他に寝台はひとつもない。だから、この家にはかつてふたりの人間しか住んでいなかったということがわかる。これは、理解を超えることだ。いったいどんな世界だったのだろうか?<語られざる時代>の人々が生きた世界とは、我々には想像もつかない。

我々は衣装も見つけた。<金色のひと>は、それを見て息をとめた。それらの衣装は、白いチュニックでも白いトーガでもなく、豊かな色彩でできあがっていたからだ。そして、それぞれの衣装は、どれひとつとして同じものはなかった。我々が触れると、崩れてボロボロになってしまった薄い衣装もあったが、もっと重くて厚い生地でできた衣装もあった。それらの生地は、触ると柔らかく、我々が見たこともないものだ。

床から天井までいっぱいの棚で構成された壁を持つ部屋もあった。その棚には、写本が列をつくって並んでいる。見たことがないほどの大量の写本だ。見たことがないほど不思議な形をした写本だ。それらの写本は、柔らかくもなく、巻物にもなっていない。それら写本は、布と革でできた硬い殻でおおわれている。各ページに書かれている字は、やたら小さくて、なおかつ、その小ささも均一で、字のサイズにばらつきがない。こんな手書きができる人間がいるのだろうかと、我々は驚嘆した。写本のページをぱらぱらと繰って文字を眺めてみた。写本は我々と同じ言語で書かれている。しかし、我々には理解できない単語もたくさん見受けられる。明日は、これらの写本を読み始めてみるとしよう。

その家の内部を全部見終わったとき、我々は<金色のひと>を見つめた。ふたりとも、互いの心の中にある思いが理解できた。  

我々は言った。「この家から離れないことにしよう。この家を奪われないようにしよう。ここは、我々の家だ。もう旅は終わりにしよう。ここは、君の家だよ、<金色のひと>。そして我々の家でもある。この家は、他の誰のものでもない。この大地が広がる限り、どこに住んでいる人間にも、この家は渡さない。我々は、他の人々とこの家を共有することはしない。我々は、他の人々と我々自身の喜びや、愛や、空腹を共有することはない。それと同じことだ。だから、我々が生きる最後の日まで、そのようにする」

「あなたたちの意志は実行されることでしょう」と、彼女たちは応えた。

しばらくして、我々は我々のものになった家の大きな暖炉にくべる焚き木集めに出かけた。窓の下方に木々を縫って流れていた小川から水も運び込んだ。一匹の野生のヤギを殺して、その肉を運び、料理した。この家の厨房に違いなかった驚くべきものがいっぱい備えつけられた場所で見つけた奇妙な銅の鍋で、料理した。

我々は、この作業を我々ひとりだけで行った。なぜならば、我々が何を言っても、<金色のひと>をガラスではない例の大きなガラスの前から離すことができなかったから。彼女たちは、そのガラスの前に立ち、そこに映った自分たちの姿をまじまじと見つめていた。ひたすら見つめていた。

山々の向こうに太陽が沈むと、<金色のひと>は床の上で眠り込んでしまった。クリスタルでできた宝石だのビンだの、絹の花々のような衣装の山の間で、眠り込んでしまった。我々は両腕の中に<金色のひと>を抱きかかえて、寝室まで運ぶ。彼女たちの頭は我々の肩の上にだらりともたれかかっている。それから、我々は一本の蝋燭に火をつけて、写本でいっぱいの部屋から紙を持ってきて、窓辺に座る。今夜は眠れそうにもないと、わかっていたから。

さて、今、我々は大地と空を眺めている。むきだしの岩と沢山の峰と月光の荒野は、まるでこの世に生まれる準備をしている世界のようだ。誕生を待つ世界だ。その広々とした風景は、我々に合図をしてくれとせがんでいるように見える。火花のような合図を、最初の命令を待っているように見える。しかし、どんな言葉をこの光景に命令として与えればいいのか、我々にはわからない。この大地は、どんな行動を目撃することを期待しているのか、我々にはわからない。しかし、それは待っている。それだけは、我々にもわかる。その風景は、我々の前に置くべき素晴らしい贈り物を持っていると、我々に告げているようにも思える。しかし、同時に、我々からの贈り物も欲しがっている。我々は、いつか命令を下す。この風景の目指すべき目標を、この風景に与える。岩と空でできたこの輝く空間に最高の意味を与える。

我々は前方を見る。我々は自らの心に懇願する。声にはならないが、確かに我々の耳に聞こえたこの自然の呼びかけに答えることができるように我々を導いてくれと、懇願する。我々は両の手を見る。何世紀にも渡る埃が目に入る。偉大な秘密も、それから多分、偉大な邪悪も、すべて隠すこの埃。しかし、この埃が、我々の心の中の恐怖をかき立てることはない。ただ、無言の畏敬と憐憫が心にわきあがるだけだ。

知識よ、我々に来たれ!我々の心が理解したのに、我々の目にはっきり明示されないその秘密とは何だろうか。今にも我々にその秘密を告げようともがいているのだろうか。我々の目前に広がる岩と空の空間は、胸の鼓動のように鳴り響いているようだ。