Anthem(1938)全訳
アイン・ランド作/藤森かよこ訳『アンセム』

第二章

<自由五の三〇〇〇号>・・・<じゆう、ごのさんぜん、ごう>・・・<自由五の三〇〇〇号>・・・

我々は、この名前を記したい。その名を口に出して言いたい。しかし、ささやき声以上に大きい声で言う勇気は我々にはない。男が女に注目することは禁じられている。そして女は、男に気を留めることを禁じられている。しかし、我々は、女たちの中でも、あるひとりの女のことを思ってしまう。彼女たちの名前は、<自由五の三〇〇〇号>だ。他の誰のことも、我々は思い出しもしないのに。

土仕事を課せられている女たちは、<都>の向こうにある<農耕びとの館>に住んでいる。<都>が終わるあたりに、うねうねと都から北に向かって延びる道路がある。我々<街清めびと>は、この道路を最初の一・六キロ地点の標石があるところまで清掃しておかなければならない。この道路に沿って垣根が設けられていて、垣根の向こうにはさまざまな畑が広がっている。畑の土は黒々と、よく耕されている。畑は、我々の前に大きな扇状に広がっている。空の果てにある何かの手の中に集められた何本かのあぜ溝が、その手から放たれて前方に広がり、我々の方に向かって来るにつれて広く大きく開かれているかのようだ。薄緑色のスパンコールをつけた黒いプリーツが何本も広がっているような風景だ。女たちが畑で作業している。女たちが着ている膝上まで届く白いチュニックは風になびき、かもめの翼のようだ。黒い土の上で、伸びやかに翻(ひるがえ)される翼のようだ。

我々は、そこで<自由五の三〇〇〇号>を見た。あぜ溝沿いに、彼女たちは歩いていた。彼女たちの体はまっすぐで、鉄の刃のように細かった。瞳は褐色で、硬質な輝きに光っていた。その瞳には、何かを恐れているような色合いもなく、気弱な優しげな風情もなく、何らかの罪をかかえている屈託もない。髪は太陽のような金色で、風に吹かれて輝いていた。その髪の奔放な動きを抑えようとする人間がいたら誰だろうと敢然と反抗するかのような、そんな無頼な野趣を、そのたなびく金色の髪は放っていた。彼女たちは手から種を投げている。軽蔑に満ちた贈り物を投げつけるかのように、投げている。大地は、彼女たちの足元の乞食であるかのように。

我々は立ちつくした。生まれて初めて、恐怖と痛みを我々は知った。快楽よりも貴重なこの痛みを、落としたりしないように、我々はじっと立ちつくしていた。

そのとき、他の女たちからあがった声が、ある名を呼んだ。「<自由五の三〇〇〇号>」と。彼女たちは振り向き、声がした方向に歩いていった。だから、我々は彼女たちの名前がそれであるとわかった。彼女たちが向こうに去っていくのを、我々はじっと見つめていた。その白いチュニックが青い霞の向こうに消えていくまで、じっと見つめていた。

翌日、我々は北に向かう道路に来ると、畑で働いている<自由五の三〇〇〇号>に目を注いだ。じっと見つめた。それから毎日、北に向かう道路で一時間待つという病気を、我々は知ることになる。毎日、我々は、そこで<自由五の三〇〇〇号>を見た。彼女たちも、また我々を見たのかどうかは、わからない。しかし、彼女たちも我々を見ている、我々に気づいていると、我々は思う。

それからしばらくたったある日、彼女たちが垣根の近くまで来た。そのとき、突然、彼女たちが我々の方を振り返った。くるりと勢いも激しく、彼女たちは振り返った。彼女たちの体の動きは、急に始まったときと同じく、急に止まった。まるで、刀でさっと切ったような、鞭がさっと振り下ろされたような敏捷な動き。彼女たちは、石のように静止して、まっすぐに我々を見つめた。まっすぐに我々の眼を見つめた。彼女たちの顔に微笑は浮かんでいない。我々を歓迎するまなざしではない。しかし、彼女たちの顔は張り詰め、瞳は暗かった。それから、彼女たちはすばやく踵を返し、歩き去って行った。

しかし、そのまた翌日、我々が道路に来ると、彼女たちが微笑んだ。確かに、我々に向かって微笑み、我々のために微笑んだ。それに応えて我々も微笑んだ。彼女たちは頭をのけぞらせ、両腕をだらりとおろした。腕も細い白い首も重い脱力感に急に襲われたかのように。彼女たちは長々と我々を見ていたわけではなく、空を見上げていた。それから、肩越しに我々の方をちらりと見た。我々は、その瞬間、ある手が我々の体に触れたかのように感じた。その手に、唇から足まで優しくさっと撫でられたように感じた。

それからは毎日、我々は互いにまなざしだけで挨拶を交わすようになった。話しかけたりなどはしない。<親睦集会>でグループ分けされたときのメンバーと以外は、他の職種の人間に話しかけるのは犯罪なのだ。ただ一度だけだが、垣根のところに立って、我々は額のところまで手を挙げた。それから、その手をゆっくり動かして、手のひらを下に向けた。<自由五の三〇〇〇号>に向かって。誰か他人がそれを見ても、何も推測できるはずがなかった。我々がしたことは、太陽から目をおおっている行為にしか見えなかったから。しかし、<自由五の三〇〇〇号>は、それを見て理解した。だから、彼女たちは片手を額まで挙げて、我々がしたように手を動かした。こうやって、毎日、我々は<自由五の三〇〇〇号>に挨拶する。彼女たちはそれに応える。そして誰もそれを疑わない。

我々のこの新しい罪を、我々は不思議に思わない。これは、我々が犯した二番目の大きな罪、<何かをより好むという罪>だ。我々は、他のすべての我らが兄弟のことは考えない。ほんとうは、みなを公平に思わなければならないのだが。しかし、我々はひとりの姉妹だけのことを思っている。彼女たちの名は、<自由五の三〇〇〇号>。なぜ、彼女たちのことを考えてしまうのか、我々にはわからない。ただ、地上が善なるもので、生きることは重荷ではないと、今の我々は感じている。

我々は、彼女たちのことを、もはや<自由五の三〇〇〇号>とは思っていない。我々は、彼女たちに名前を与えた。いろいろ考えた末にひとつの名を決めた。我々は、彼女たちを<金色(こんじき)のひと>と呼ぶことにした。人間に、他人と区別できるような名を与えることは罪だ。それでも、我々は、彼女たちを<金色のひと>と呼ぶ。なぜならば、彼女たちは他の誰とも違うから。<金色のひと>は、他の誰かと同じではない。

<交接期>以外には、女のことを男は考えてはいけないという法律がある。しかし、そんな法律など、我々は気に留めない。<交接期>とは、毎年の春のその時期のことをさす。二〇歳以上のすべての男と一八歳以上のすべての女は、ある晩に、<都交接宮殿>に送られる。<優生学協議会>によって、男たちはそれぞれに、女たちのひとりをあてがわれる。子どもたちは、よって冬に生まれることになる。しかし、女たちが自分の産んだ子どもたちに会うことはない。子どもたちは、自分の両親を決して知ることがない。我々も、二度その<都交接宮殿>に送られたことがあったが、それは醜く恥辱に満ちた経験だった。そのことを思い出すのは、嫌だ。

我々は、実に多くの法を破った。今日、我々はもうひとつ法を犯した。今日、我々は、あの<金色のひと>に話しかけてしまった。

他の女たちは、畑のはるか遠くにいた。我々が道路脇のそばの垣根で立ち止まったときのことだ。<金色のひと>は、ひとりで堀のところで跪いていた。畑の中に、その堀は巡らされている。彼女たちが、水を唇にもっていたとき、その手から水滴がこぼれ落ちた。その水滴が、太陽に照らされて、火花のようだった。そのとき、<金色の人>が我々を見た。

彼女たちは身動きせず、そこに跪いたまま、我々を見つめる。光の輪がいくつか彼女たちの着ている白いチュニックの表面で戯れている。堀の水面に映った太陽がその光の輪を作っている。凍りついたように空中で静止している彼女たちの指から、きらめく水滴が一粒こぼれ落ちる。

それから、<金色の人>は立ち上がり、垣根まで歩いて来る。まるで我々の眼にこめられた命令がほんとうに耳に聞こえたかのように。我々の編成隊のうち他のふたりの<街清めびと>は、道路から百歩ほど離れたところにいる。<国際四の八八一八号>は、我々を裏切ったりはしないだろうし、<団結五の三九九二号>は、事態がわからないだろうと、我々は思う。だから、我々はまっすぐ正面から<金色のひと>を見つめる。彼女たちの長いまつげが、彼女たちの白い頬に影を落としているのが見える。彼女たちの唇に太陽の光がきらめいているのが見える。

「君は綺麗だ、<自由五の三〇〇〇号>」

彼女たちの顔は動かない。目をそらすこともない。ただ、彼女たちの瞳が大きくなり、目の中に勝ち誇ったような何かが浮かんだだけだ。しかし、それは我々に対する勝利ではなく、我々には推測できない何かに対する勝利のようだ。  

そのとき、彼女たちは訊ねる。

「あなたたちのお名前は?」

「<平等七の二五二一号>」と我々は答える。

「あなたたちは、私たち兄弟のひとりではありません、<平等七の二五二一号>。なぜならば、私たちは、あなたたちにそうあって欲しくはありませんから」

彼女たちが何を言ったのか、我々にわかるはずがない。彼女たちが何を意味しているのか、彼女たちの言葉からはわからない。しかし、そのとき我々は、言葉で表されなくても、彼女たちの言わんとしていることがわかった。

「そう、君たちも我らが姉妹のひとりではない」と、我々は答えた。

「あなたたちはたくさんの女たちの中にいる私たちを、見分けることができますか」

「見分けることができるよ、<自由五の三〇〇〇号>。この地上のすべての女たちといっしょにいても、君たちのことはすぐ見つけられる」

すると、彼女たちはこう訊ねる。

「<街清めびと>の方々は、<都>のあちこちに配属されるのですか?それとも、いつも同じ所で作業なさるの?」

「いつも同じ所で作業する。誰もこの道路の担当を我々から奪うことはない」と、我々は答えた。

「あなたたちの目は、誰の目とも違います」と、彼女たちは言った。

それから突然、我々は冷気を感じる。腹の底まで届く冷気を感じる。脈略もなく我々の心に浮かんだ思いのために。

「君たちは、いくつ?」と、我々は訊ねる。

 彼女たちは、我々が何を考えたかわかる。なぜならば、そのとき初めて、彼女たちは視線を下ろしたから。

「一七歳です」と、彼女たちは小さな声で告げる。

重荷が下ろされたかのように、我々はため息をつく。我々は、なぜか<交接宮殿>のことを思い出していたからだ。我々は、<金色のひと>を<交接宮殿>に送りこませてなるものかと思う。どうやってその事態を阻止したらいいのか、どうやって<協議会>の意志に逆らえるのか、我々にはわからない。しかし、突然に、やろうと思えばできると気がつく。なぜ、そのような考えが浮かんだのか、わからない。あんな醜いことが、我々と<金色のひと>に関係があるなんて。彼女たちが、あんな関係に耐えられるはずがない。

まだ、理由もないのに、我々は垣根のそばに立っていたのだが、そのとき唇が憎悪で硬くひきつるような感じがする。我らが兄弟すべてに対する憎悪が、突然心にわいてくる。<金色のひと>は、それを見て、ゆっくり微笑む。彼女たちの微笑みの中に、我々は彼女たちの中に見たことがない悲しみを初めて見る。<金色のひと>は、女たち特有の知恵から、我々が理解できることよりもはるかに多くのことを深く理解できるらしい。

そのあと、畑に我らが姉妹たち三人の姿が見える。彼女たちは道路の方に向かって歩いてくる。だから、<金色のひと>は我々から歩き去って行った。彼女たちは、種のはいった袋を手に取り、歩き去り遠ざかりながら、地面のあぜ溝に種をまいた。しかし、種は荒々しく吹き飛んだ。<金色のひと>の手が震えていたから。

それでも、<街清めびとの館>に戻る道を歩きながら、我々はわけもなく歌でも歌いたいような気持ちになる。だから今夜、我々は食堂で叱責されてしまった。自分でも気がつかないうちに、大きな声で、聞いたこともないようなメロディーを歌ってしまったからだ。<親睦集会>以外に、理由もないのに歌うのは不適切なことなのだ。

「我々は幸福なので、歌っているのです」と、我々は、叱責した<館協議会>のひとりに答えた。

「君たちは、それは確かに幸福だ」と、彼らは答えた。「我らが同胞のために生きるときほど、幸福なときが我々にあろうか?」と。

そして今、ここ、我々のトンネルに座りながら、あの<館協議会>のひとりが言った言葉について、我々はいぶかしんでいる。それは禁じられているのだ。幸福でないことは、禁じられている。その理由が、我々に説明されたことがあった。人間は自由である。地球は人間のものだ。地上のすべての事物は、すべての人間のものである。人間すべての、人々全体の意志は、あらゆるものにとって良きことである。だから、すべての人間は幸福に違いない。幸福でなければならない、と。

しかし、夜になって睡眠広間に立ち、就寝のために衣服を脱ぎながら、我々は我らの兄弟を見渡し、不思議に思う。我らが兄弟たちの頭は下げられている。彼らの目は鈍重だ。互いに目を見交わすこともしない。我らが兄弟たちの肩は丸く、筋肉は引きつっている。まるで肉体がどんどん縮んで、体が見えなくなればいいと思っているかのようだ。我らが兄弟を眺めていると、ひとつの言葉が我々の心の中に忍び込んでくる。その言葉とは、恐怖。

睡眠広間に漂う空気の中に宙ぶらりんになっている恐怖がある。街の通りの空気の中に宙ぶらりんになっている恐怖がある。恐怖が、街中を、<都>のいたるところを、徘徊している。名前も形もない恐怖が徘徊している。すべての人々は、その恐怖を感知しているのだが、誰ひとり、それをあえて口に出す者はいない。

我々も、またその恐怖を感じる。<街清めびとの館>にいるときになど感じる。しかし、ここ我々のトンネルでは、我々はもはや恐怖など感じない。地下では空気も綺麗だ。人間の匂いがしない。ここで過ごす三時間は、地上で過ごす時間を耐える力を我々に与えてくれる。

我々の体が、我々自身を裏切りつつある。<館評議会>が、我々を疑惑の目で見ているから。あまりに大きな喜びを感じたり、我々の体が生きていることを喜んだりすることは、良くないことである。なぜならば、我々の存在など問題ではないし、我々が生きようが死のうが、我々にとっては問題ではないからである。我々の生死は、我らの同胞が望むようにあるべきものなのだから。しかし、我々<平等七の二五二一号>は、生きていることが嬉しい。もし、これが悪徳なのならば、ならば我々は美徳など欲しくはない。

しかし、我らが兄弟たちは、我々とは違う。すべてのことが、我らが兄弟たちにとって、うまくいっていない。たとえば<友愛二の五五〇三号>は、聡明で優しい瞳をした物静かな若者だが、彼らはわけもなく、昼間だろうが夜だろうが、見境なく突然に号泣する。彼ら自身、説明できない嗚咽(おえつ)で彼らの体は震え揺れる。<連帯九の六三四七号>は、頭のいい若者だが、昼間は恐怖にかられることもないのだが、睡眠中に金切り声で叫ぶ。大声で泣き叫ぶ。「助けて、助けて、助けて!」と。夜に向かって叫ぶ。その声の響きは、我々の骨まで凍らせる。しかし、<薬師びと>は<連帯九の六三四七号>を治せない。

蝋燭の薄暗い光のもとで夜に衣服を脱ぐとき、我らが兄弟たちは無言のままだ。彼らは自分たちが思っていることをあえて口に出したりはしない。なぜならば、すべての人間が、すべての人間に同意しなければならないが、彼らが考えていることがすべての人間の考えと同じであるかどうかわかるはずはない。だから、彼らは自分たちの思いを話すことを恐れている。それゆえに、消灯で蝋燭の光が消えるとき、彼らはホッとして嬉しい。しかし、我々<平等七−二五二一号>は、窓の向こうの空を眺める。空には平安がある。清浄さも尊厳もある。<都>のはるか向こうに、草原が広がっている。その草原の果てには、暗い夜空のもっと向こうの闇には、あの<未知の森>がある。

我々は、あの<未知の森>を調べてみたいわけではない。あの森のことを考えたいわけではない。なのに、我々の眼は、空の向こうのあの黒い区域に戻っていってしまう。今まで人々が、あの<未知の森>に踏み込んだことはない。あそこを探検するだけの力がないのだ。恐怖がいっぱいつまった防護物のようなうっそうとした古代樹林の中を進むべき道がないのだ。百年に一度か二度、<都>の住人の誰かが、ひとり逃走し、あの<未知の森>に、やみくもに目算もなく逃げ込むらしい。そういう噂はささやかれてきた。しかし、彼らは戻ってこなかった。彼らは飢餓で死ぬか、<未知の森>を徘徊する野獣たちのかぎ爪の餌食になるのだ。しかし、こんな話は伝説に過ぎないと、我らが<協議会>は言う。いくつもある<都>が点在する間の地には、たくさんの<未知の森>があるという噂を聞いたことがある。それらの森は、<語られざる時代>の多くの街や都市の廃墟の上に木々が育ったものであるという噂も聞いたことがある。木々は廃墟を飲み込み、廃墟の下に埋もれる幾多の骨を飲み込み、破滅したすべての事物を飲み込み、それが<未知の森>になったのだという噂である。

我々は、夜、<未知の森>を見上げるとき、<語られざる時代>の秘密について考えをめぐらす。その時代をめぐる秘密は世界から失われてしまったが、どうしてそういうことになったのだろうかと、我々は不思議に思う。大きな争いの伝説をいくつか耳にしたことがある。多くの人間がある側について戦い、数の少ない一派が別の側について戦い、数の少ない一派は<邪悪なる人々>であり、彼らは征服されたというのだ。そのとき、巨大な火が国中に燃えさかり、その火の中で、<邪悪なる人々>と邪悪さによって生み出されたすべての事物は、焼き滅ぼされたというのだ。その火こそ、<大復興の夜明け>と呼ばれるもので、それは<焚書の大火>でもあった。その火は、<邪悪なる人々>の書物をすべて焼き尽くした。<邪悪なる人々>のすべての言葉ともども、すべて焼き尽くした。大きな山々のような火が、あちこちの<都>で三ヶ月もの間燃えさかり、火柱が立ち、それからあの<大復興>が到来したという。

<邪悪なる人々>の言葉・・・<語られざる時代>の言葉・・・我々が失ってしまった言葉とは、何だろうか?

<大評議会>が、我々を憐れんで下さいますように!我々は、このような疑問を書き記したくはなかった。こうやって、それを書いてしまうまで、自分たちが何をしているのか、我々は気がついていなかった。我々は、この疑問を問わないことにしよう。もうそれについては考えないことにしよう。我々が失ってしまった言葉とは何なのか、と考えることはやめよう。我々の頭上に死を招くことはやめよう。

しかし、それでも・・・それでも、やはり・・・

ある言葉がある。ひとつの言葉だ。人間の言葉ではないのだが、かつてはそうであったらしい言葉だ。これは、<口に出せない言葉>である。誰も口に出してはいけないし、耳にしてもいけない言葉だ。しかし、時々、まれにではあるが、時々、どこかで、誰かがその言葉を発見する。古い写本の屑の中に発見することもあれば、古代の石の欠片(かけら)に刻まれているのを発見することもある。しかし、それを口に出したりしたら、死に追いやられる。この地上には死をもって罰せられるような犯罪はないのだが、これだけは例外である。<口に出せない言葉>を口に出すという犯罪だけは、死刑を科せられる。

<都>の広場で生きたまま焼き殺された、<口に出せない言葉>を口に出した罪びとを我々は見たことがある。その無残な光景は、長年、我々の心に残り、我々にとり憑き、どこまで行ってもまとわりつき、我々の心の休息を奪ったままだ。そのとき、まだ我々は一〇歳の子どもだったが、他の子どもたちや<都>の住人全部といっしょに、刑場となった大きな広場に立った。その火あぶりの刑の執行を注視するべく召集されたのだ。役人たちは、その<罪びと>を広場に引っ立てて、火刑用のまきの山のところに連れてきた。彼らは、<罪びと>の舌を抜きとってしまったので、<罪びと>はもう何も言えなかった。その<罪びと>は若くて長身だった。金色の髪をして、清清(すがすが)しい朝を思わせるような青い瞳をしていた。彼らは、まきの積んである所まで歩いたが、彼らの足どりには、たじろぐところがなかった。その広場にいる人々の顔の中で、その<罪びと>に対して金切り声を立て、叫び、つばを吐きかけ、呪いをかける人々に比べれば、その<罪びと>の顔がもっとも平静で幸福そうだった。

火刑柱にその<罪びと>の体が鎖で巻きつけられ縛りつけられた。炎がまきの山につけられた。その<罪びと>は<都>を見渡した。唇の端からは、細い糸のような血が流れていたが、その唇は微笑を浮かべていた。そのとき、我々の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。その考えはそれ以後、我々の脳裏から去ったことがない。我々は、それまでにも<聖者>について教えられたことがあった。<労働の聖者>がいるし、<各種協議会の聖者>がいるし、<大復興の聖者>がいる。しかし、我々は実際のところ<聖者>なる人間に会ったことはなかったし、<聖者>の顔というものは、かくあるものという実例も見たことがなかった。しかし、そのとき、我々は思った。あの火刑場に立ちつくしながら思った。聖者の顔というのは、我々の目前の炎の中に我々が見ている、あの顔なのではあるまいかと。<口に出せない言葉>を言ってしまった、あの<罪びと>の顔なのではあるまいかと。

たくさんの炎が立ち上ったとき、あることが起きた。我々の目以外の誰の目にもとまらなかったことである。他の人間に気づかれていたら、今ごろ、ここに、我々はこうして生きてはいないはずだから。おそらく、それは錯覚だったのかもしれない。我々が勝手にそう思っただけのことかもしれない。しかし、我々には、どうしてもそう思えてならなかった。あの<罪びと>は死刑見物の群集の中から我々を選び、まっすぐに我々を見つめていた、と。その<罪びと>の目は苦痛を訴えてはいなかった。彼らの体が苦悶で歪むということもなかった。彼らの中には歓喜しかなかった。誇りしかなかった。人間の誇りにふさわしいものよりも、はるかに聖なる誇りが、彼らの中にはあった。まるで彼らの瞳は、我々に炎の中から何ごとかを告げようとしているかのようだった。言葉にならないある言葉を我々の眼に送ろうとしているかのようだった。彼らの瞳は、その言葉を推量しろと我々に懇願しているようだった。その言葉を決して我々が失ってはいけないと、この地上から、その言葉を消してはいけないと、訴えているようだった。しかし、炎はさらに立ち昇り、我々はその言葉を推量できなかった・・・

何なのだろう?あの火あぶりのまき山の上の<聖者>のごとく、焼き殺されなければならないとしても・・・消して失ってはならない言葉とは何なのだろうか?あの<口に出せない言葉>とは。