Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第9回 意識、意識、意識!!  [08/17/2008]


Most people hold their desires without any context whatever, as ends hanging in a foggy vacuum, the fog hiding any concept of means. They rouse themselves mentally only long enough to utter an “I wish,” and stop there, and wait, as if the rest were up to some unknown power.

What they evade is the responsibility of judging the social world. They take the world as given. “ A world I never made” is the deepest essence of their attitude---and they seek only to adjust themselves uncritically to the incomprehensible requirements of those unknowable others who did make the world, whoever those might be. (“The ‘Conflicts’of Men’s Interests” in The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism)


(ほとんどの人々は、何につけても文脈というもののない欲望を抱くのが常である。もやもやとした真空、もしくは手段という概念を隠す霧の中にぶらさがっている目的のような、具体的な方法をいっさい考えないまま設定する目的のような欲望を抱くのが常である。ほとんどの人間は、「私は願う」と発声するのに十分なくらいには精神的に自らを立ち上げておくのだが、そこで止まってしまう。あとは何やら未知の力におまかせするかのように、願いが実現するのを、ただただ待つのである。

ほとんどの人間は、人々が織り成す社会という世界を判断する責任を回避している。彼らは、世界というものを所与のものとして受け取っている。「私が決して作らなかった世界」という意識が、彼らの態度の奥底のそのまた根底にある。だから、彼らは、この世界を作った見知らぬ誰か他の人々、それがどんな人々にせよ、その人々の不可解な要求に無批判にも自らを適応させることだけにやっきとなる。)


★「アキラのランド節」において、自己啓発本の二大潮流として、「自己啓発本」と「自己啓発を否定する自己啓発本」について書きました。このふたつには、それぞれ下位区分がありまして、「自己啓発本」にも、ふたつの種類があります。「理性で現実を把握して目的合理的に行動せよ」と言う本と、ベストセラーのロンダ・バーン著『ザ・シークレット』 (山川 紘矢・山川 亜希子・佐野 美代子訳、角川書店、2007) に代表されるように、「恐怖や懐疑や不安に意識を囚われることなく、願いや夢を、いつも思い描きなさい。そうすれば適切なときに、自然に身体や状況が動き、願いは実現しますよ」と言う本です。

★この引用文は、アイン・ランドが、「恐怖や懐疑や不安に意識を囚われることなく、願いや夢を、いつも思い描きなさい。そうすれば適切なときに、自然に身体や状況が動き、願いは実現しますよ」説に反対している証拠のように見えます。ランドが言っていることは、そういうことではないのです。

★「恐怖や懐疑や不安に意識を囚われることなく、願いや夢を、いつも思い描きなさい。そうすれば適切なときに、自然に身体や状況が動き、願いは実現しますよ」説を実地に試してみると、わかりますが、「恐怖や懐疑や不安に意識を囚われることなく、願いや夢を、いつも思い描くこと」ができるのには、相当な意志力が必要です。ボケッと「心ここにあらず」の状態でいては、「思い描く」ことはできません。いつだって自分の夢を意識して思い描いていれば、じっとなどしていられません。自然に、願望実現のための方法を考えてしまうし、その方法を調べてしまいますし、実践してしまいます。すると、願望が実現されてしまいます(合理的でまともな道徳的願望ですよ。向上心に限りなく近い欲望ですよ。誰それさんをどうにかしたいとか、一攫千金とかの類のくだらない願望じゃないですよ)。

★表層は正反対に見える「理性で現実を把握して目的合理的に行動せよ」説と、「恐怖や懐疑や不安に意識を囚われることなく、願いや夢を、いつも思い描きなさい。そうすれば適切なときに、自然に身体や状況が動き、願いは実現しますよ」説は、同じことなのです。

★アイン・ランドが言っているのは、「ちゃんと意識しなさい。あなたの人生なんだから、当事者意識を持って、あなたの生き方をめいっぱい意識しなさい。あなたが生きていくこの世界をめいっぱい意識しなさい。他人や社会や政府のせいにしちゃいけない。あなたの人生はあなたに責任があるのだから、意識を全開して考えなさい!」ということなのです。

★当たり前のことですって?そうでしょうか?ほんとに、その当たり前のことをしているのでしょうか?このことが、どういうことであるのか、あなたはちゃんと意識しているでしょうか?慣習や風習や類型的な見方や、陳腐な人間観、社会観にマインド・コントロールされていませんか?「世の中ってこんなものよ」とか「女なんて、みんないっしょだって」とか、「戦争は絶対になくならない」とか、いかにも世間を知っているような人間を知っているような顔した無知蒙昧馬鹿やっていませんか?そうやって、心と人生を狭めて貧しくしていませんか?そのことによって邪気を世界に流していませんか?

★先日、私は年下の敬愛する友人とランチをいたしました。そのとき、彼女から、「東京学芸大学の60代の教育学部の教授が、学生と不倫関係になって学生が精神的におかしくなって退学して、教授を<学習権>の侵害で訴えて、大学側はその教授を懲戒免職にした」という事件を教えてもらいました。懲戒免職って、退職金が出ませんからね〜〜勤め人にとっては最悪の罰です。大学がよく決断したよなあ・・・国立大学(独立行政法人大学か)も進化している!

★それは、さておき、私は、「この大学教授には、世の中の役にはたたないクズ知識はあっても、意識はないのだな」と思いました。男なんだから、可愛い女子大学生に恋することもあるでしょう。そのとき、この教授が意識をめいっぱい稼動させていれば、自分の欲望は欲望でそのままにしながら、広く深い視野で、自分と彼女のことを見たはずです。自分の欲望から意識を分離解放して、広い高い視野から状況を見渡せば、自分の人生と、その学生の人生が見えたはずです。その学生に自分ができることは何か、できないことは何か、ということが見えたはずです。その学生が好きならば、その学生の人生にとって益にならないことは、自分にはできない、と思えたはずです。

★「教師のくせに」とか「いい年して若い子に恋なんかするな、みっともない」とか「セクハラだと訴えられたら人生終わりでしょ?」と言いたいのではないのです。「意識を全開して考えろ!自分の欲望という狭い意識の中に自分を閉じ込めるな!欲望したっていい、好きになってもいい、だけど、狭い意識の奴隷にならずに、あなたの思考のキャパシティを広げよう!そうすれば、違った光景が見える。その大きな光景の中に、あなたもいるし、彼女もいる。あなたの思いは孤独じゃない。彼女の人生が、あなたの心の中で自由に飛翔するくらいに、あなたの心を拡大させよう!自分の意識が閉ざされていると、他人の人生も閉ざすことになるし、世界も閉ざすことになるよ」って、言いたいのです。

★新聞の社会面を見ると、中途半端でなく、ちゃんと意識して生きていれば起きるはずのない事件が、いっぱい記述されています。「愚行」は、みな、狭い小さな意識の中に閉じ込められているから起きることです。人間の問題、社会の問題、世界の問題、これらすべての原因は、「意識を稼動させていない」ことから生まれるのです。「愛」なんて、意識の解放の後から、ついてきますわ。

★世間の大多数の人間より、ものを考える習慣を身につけているはずの大学の教師が、「意識を広げる」ことを習慣にできずに、結果として、ひとりの女子学生の人生を冒涜したのは、同業者として実に残念です。この大学教員は、「自由恋愛だから、懲戒免職は重すぎる」と抵抗しているそうです。ほんとうに「恋愛」だったら、訴えられないの!それだけの人間関係が構築されていたら、訴えられないの!「男は我慢できないから」とかの愚劣な風説を利用して意識を広くもつことを怠り、性器の管理をしなかっただけの話だろーが!「オトナとして若い人に配慮する」だけの意識力もない、恋愛能力なんか金輪際ない前近代的愚民が、何をカッコつけているのか?

★こういう「やらずぶったくり」で学生に与えるのでなく、学生を搾取するばかりの教師って、高偏差値大学に栽培されやすいと私は思います。また、高偏差値大学の学生さんは、お勉強はしたんだけど、意識力養成は怠ってきて、世間の定説を疑わないうえに、軽薄な打算には長けているから、もっと打算ばかりの加齢臭のオッサンの口先に騙されるんだろうなあ。類は友を呼ぶというか、つまらん奴はつまらん奴に騙されるというか、どっちもどっちというか。「知恵が足りない」ってさあ、「無用心」ってさあ、「意識力が足りない」ってことなんだけど。

★ところで、私は先月に、長年お世話になった「日本英文学会」と「日本アメリカ文学会」から退会いたしました。両学会に感謝しつつ、意識をうんと拡大したら、自然とそうなってしまいました。ははは。