Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

人間支配術、もしくは「人間依存症患者の告白」(その1)  [03/01/2009]


There are many ways. Here’s one. Make man feel small. Make him feel guilty. Kill his aspiration and his integrity. That’s difficult. The worst among you gropes for an ideal in his own twisted way. Kill integrity by internal corruption. Use it against itself. Direct it toward a goal destructive of all integrity. Preach selflessness. Tell men that he must live for others. Tell men that altruism is the ideal. Not a single one of them has ever achieved it and not a single one ever will. His every living instinct screams against it. But don’t you see what you accomplish? Man realizes that he’s incapable of what he’s accepted as the noblest virtue---and it gives him a sense of guilt, of sin, of his own basic unworthiness. Since the supreme ideal is beyond his grasp he gives up eventually all ideals, all aspiration, all sense of his personal value. He feels himself obliged to preach what he can’t practice. But one can’t be good halfway or honest approximately. To preserve one’s integrity is a hard battle. Why preserve that which one knows to be corrupt already? His soul gives up its self-respect. You’ve got him. He’ll obey. He’ll be glad to obey---because he can’t trust himself, he feels uncertain, he feels unclean. That’s one way. (14 of Part Four in The Fountainhead)

( [人間支配の]やり方は沢山あります。まずは、これだな。自分のことを、ちっぽけな存在だと感じさせること。罪の意識を感じさせること、だな。その人間が持っている憧れとか高潔さとか、そういうものを殺すのです。これは、難しいですよ。君たちのような連中の中でも最低の部類に入るような人間でさえ、歪んだやり方ではあっても、心の中では、ある理想を求めていますからね。その人間の内部から、その人間が自発的に、自らの中にひそむ高潔さを腐敗させていくようにするのです。そういう形で高潔さを殺すのです。自らの中にある高潔さを嫌うように、高潔さそのものを利用することです。すべての高潔さを破滅させるような目的に向かって、方向を定めてやるのです。だから、無私無欲を教えるわけですよ。人間は他人のために生きなければならないと教えるのです。利他主義こそ理想なのだと言うわけです。実は、そんなもの達成できた人間など、ひとりもいなかったし、これからもいないでしょうがね。人間の内部にあるあらゆる本能は、利他主義など、他人のために生きることなど、真っ平御免と声を限りに泣き叫んでいるのですから。しかし、自分がどれくらい何かを達成したか、なんて目には見えないでしょう。だから、人間は悟るわけですよ。もっとも高貴な美徳として自分が認めたことが、自分にはとうてい達成不可能だとね・・・・そうなると、人間というのは、自分が悪いとか、罪の意識を持つようになるのです。自分は根本的に価値のない存在だと思うわけ。人間というのは、最高の理想が自分の手に届かないのだから、ほかの理想も諦めてしまうのですよ。すべての憧れも、自分は独自の価値があるという実感も、捨ててしまうのですねえ。あげくのはてには、自分が実践できないことを説き教える義務が、自分にはあるのだなどと感じるようになってしまう。しかし、人間というのは、中途半端に善良でいることとか、だいたいのところ正直でいるなどということは無理ですよ。自分の高潔さを保持すること、つまり自分の中に真の正直さを保持することは、これは辛い辛い闘いなのです。すでに腐敗してしまっているとわかっていて、どうやって保持などできますか?すでにもう、その人間の魂は自尊心を失くしてしまっているのだから。そうなれば、しめたもの。これで、そいつらは、こちらのもの。もう何でも、その人間は従いますよ、従うことが嬉しくなるのです・・・・なぜならば、その人間は、自分自身のことを信頼できないのですからね。自分のことを、確固としたものが欠如している、汚れていると、感じているのですからね。尊敬できない自分自身に従うより、他人に従属することを選ぶわけです。まず、これが人間支配の方法のひとつです。)

★更新が遅れがちで申し訳ありません。2月は調子が悪かったです。起床したり、寝転がったり、寝返りをうったりすると、かる〜〜く眩暈(めまい)がします。なんで?すぐにおさまるのでありますが、部屋が回っているのは気色悪い。「不調」って、いろいろな出方をします。10代の頃は呼吸が苦しくなり、20代のときは円形脱毛症でした。あの頃は、ストレスがかかると100円玉大ハゲができました。あれは、毛髪が抜け出すときが痒い!よく、かきむしったものです。30代は、肺結核と間違えられるほど咳ばかり出ました。40代は花粉症。50代は白内障に&軽い眩暈か。60代は麻疹かしらん。ま、何でもいいですわ。

★それはさておき、何につけても、我を忘れて集中するどころか夢中になるというのは、めったにないことではありますが、変な姿勢を長時間固定させて「腰痛もどき」になってしまうほどに、翻訳作業に私が夢中になってしまった箇所というのは、The Fountainhead(『水源』)の中にいくつもあります。上記の箇所は、そのひとつです。

★小説の終盤である「コートラント住宅爆破裁判」の前に、エルスワース・トゥーイーは、ピーター・キーティングの家までやってきて、彼を問い詰めます。コートラント住宅の設計をしたのは、キーティングではなく、ハワード・ロークだということを、キーティングに自白させます。その後、<これほどにも寄生虫やってきて平気でいられるとは、ほんとに君は、感嘆するほど見事なほどに下劣であって、大したもんだ、まさに私の人間観を君ほど素晴らしく証明してくれる人材はいない>というような内容の皮肉を、たっぷりと、トゥーイーはキーティングに浴びせます。

★そのあと、トゥーイーは、確信犯的偽善者の温厚慈愛洒脱に満ちた仮面をはずし、自分の本性をさらけ出します。いつもは、「おしゃべりのカーテン」&「雄弁なる無駄口」で、人々を煙にまくトゥーイーですが、珍しく、ここでは真実を語ります。歴史的に伝統的に継承されてきて、いよいよ現代が完成させつつある「人間支配法」を開陳します。

★そのひとつが、まず「自分のことを、ちっぽけな存在だと感じさせること」なのです。「罪の意識を感じさせること」なのです。その人間が持っている「憧れとか高潔さとか、そういうものを殺すこと」なのです

★「社会改革派の代表的良心的知識人、実は、愚民化政策推進者」のエルスワース・トゥーイーは、キーティングの作品は、みなロークか、過去の建築家の作品のパクリであることを、最初から見抜いていました。にもかかわらず、キーティング賛美を、マスコミに垂れ流してきました。ロークを無視し迫害してきました。つまらないものを、つまらないと承知しながら賞賛して流通させ、優れているものを優れているとわかっていながら、侮辱し社会的に抹殺してきました。

★そうすることによって、人々の真偽善悪美醜の価値判断を撹乱(かくらん)してきました。人々が自分の判断に確信が持てないように仕向けることは、エルスワース・トゥーイーの人間支配の第一歩です。そうすれば、人々を操作し支配することが容易になるからです。

★そうすることには、エルスワース・トゥーイーなりの大義もあります。<人間存在は神や大自然の前では、ちっぽけなものなのだから、優れているといっても、誇るほどのことではない。劣っているといっても、人間はみな劣っているのだから、誰が他人を責めることができようか。優れた者が存分に力を発揮したら、格差は広がるばかりだし、優れた者によってもたらされる社会の進化変化や発展についていけない弱者を生産するので、社会が停滞しても、「みんな、いっしょの優しい平等な社会」を形成するべきなのだ、人間存在は、罪深いものなのだから、傲慢にも自らの力を過信してはならない> これが、エルスワース・トゥーイーの見解です。もっともらしい見解です。いかにも頭の悪い優等生が共感しそうな見解です。

★もちろん、これは「大義名分」というものであって、建前というものであって、本音にあるのは、支配欲です。権力欲です。手段としての支配が必要だから支配したいのではなく、単なる支配欲です。手段としての権力を必要としているから権力を求めるのではなく、単なる権力欲です。つまり、自分に従う他人が、自分を必要とする人間が、いつでもどこでも沢山いないと満たされないということです。これは一種の人間依存症です。極度に歪んだタイプの「甘えのお化け」です。

★エルスワース・トゥーイーは、「神や大自然に比較すれば、人間存在は、ほんとにちっぽけなものなのだ、確かに。つまり、神や大自然は、あまり偉大すぎて、人間のことなど構っていられないだろう〜〜もともと卑小極まりない人間が偉大なる神の領域を侵すことなんかできやしないのだから、どんどんメイッパイ進化すればいいのだし、しても構わないのだ、いや、せっかく神から与えられた生命なのだから、どんどん進化させるのが義務でしょう〜〜」という発想はしません。

★なぜ、そういう発想ができないかといえば、エルスワース・トゥーイーは、人間が卑小な存在だと、「本気で」「真剣に」考えていないからです。同時に、どれだけ人間が進化しても追いつかないほどのものすごい存在としての神も信じていないからです。本気で、人間の卑小さと神の偉大さを信じていれば、先のような発想をするはずです。エルスワース・トゥーイーには、真の信仰も敬虔さもありません。

★自分以外の他人が、「人間というのは卑小な存在だ、僕なんて、私なんて、なにもできやしないのだ」と思い込めば、自分自身に都合がいいから、神だの何だのと言い立てるだけなのです。ほんとうに、神の偉大さに思考をめぐらしている人間は、安易に便利に神のことなどネタにして話しません。人間の卑小さなど話題にもしません。そんなこと、当たり前のことではないですか。だから、何だ?人間の卑小さは、そのまんま人間が卑小でいていいことの証明になりませんし、その言い訳にも、なりません。

★また、エルスワース・トゥーイーは、「優れた者には、どんどん能力を発揮してもらって、いろいろ達成してもらい、そうでない者は、その達成を大いにありがたく活用させてもらいましょう〜〜馬鹿が何千人集まっても知恵も何も出ないから、賢い人がガンガン考えてくれたら、私ら協力しますから、足を引っ張るような真似しても、私らに利益ないですし、ともかく互いの持ち場で互いの立場で互いができることをそれぞれにやりましょう〜〜みんな、それぞれ、できることが、ちゃんとありますって〜〜無力非力な赤ちゃんは、存在して笑っているだけで大人たちを癒し和まし励ましますからね〜〜」という発想はしません。

★なぜ、そういう発想ができないかといえば、エルスワース・トゥーイーには、勝者 vs 敗者としての人間関係か、支配者 vs 被支配者としての人間関係しか想像できないからです。つまり、彼は、互恵的な人間の絆というものを想定できません。なぜ、想定できないかといえば、そういう絆を他人との間に形成したことがないからです。もしくは、そういう絆に生き甲斐や歓びを感じないのです。なぜ、感じないかといえば、彼にとっては、他人は常に彼を脅かすものだからです。他人は憎悪の対象でしかありません。なぜそうなるかといえば、支配欲と権力欲しかない甘えのお化けであるエルスワース・トゥーイーの心の奥深くにあるものは、とてつもない恐怖だからです。とてつもない「寄る辺のなさ」=孤独だからです。

★ロークやロークのような人間は、トゥーイーや彼のような人間を、極度に苛立たせます。ロークやロークのような人間の持つ自己充足ぶりは、トゥーイーや彼のような人間の内なる空虚をあぶりだします。ロークやロークのような人間の、無駄に恐怖や不安を抱かない、夢もなく怖れもない真の意味での現実的な姿勢は、トゥーイーや彼のような人間が抱く恐怖や不安の根拠のなさを、露にします。

★ロークやロークのような人間は、自分の人生がかけがえのないものであると本気で思っています。誰の人生とも交換できない徹底的に個別的なものだと真剣に思っています。この意味において、自分の人生は、徹底的に自分個人のものであって、自分がナントカしなくてはならないものであること、自分に責任があることを自明の理としています。こういう人間は「自分の実感」から遊離しません。自分が納得できるか、ほんとに自分にとって気持ちいいか、自分が自分自身に恥じないかを、常に自分に問うことを習慣にしています。自分が求めているものは何なのかを問い詰めていくだけの、自分に対する容赦のなさ=自分に対する正直さがあります。

★ロークやロークのような人間は、自分自身が体験することを、ひとつひとつ吟味して、その意味を考え、そこから得た知見を蓄積して、そこから自分自身の価値基準を形成してゆきます。自分自身が納得できないことは考え続けるか、考えても、よくわからないことについては、ひとまず保留して、容易には判断を下しません。

★ロークやロークのような人間は、付和雷同しません。流行や風説に左右されません。「専門家」や「知識人」や「世間」(って何だ?単に暇な口うるさいオジンにオバンのことだろー)が言っているからといって、それが事実とか真実とは思いません。自分自身が真摯に生きてきたからこそ、他人の中にある真摯さを見出し、探り出す感受性があります。だからこそ、他人に対して共感できるし、他人との絆も作ることができます。

★一見すると、ハワード・ロークは単純で、子どもっぽく理想主義的に見えます。一方、エルスワース・トゥーイーは複雑で、すれっからしに洗練された世渡り上手のオトナに見えます。違うのです。実は、ロークの方が、はるかに複雑で成熟しています。トゥーイーの方が、はるかに他愛がなく幼稚です。

★『水源』を読んでくれた同僚のひとりが、「エルスワース・トゥーイーってカッコいいね〜〜〜」と私に言ったことがあります。その同僚は、そう言うのが納得いくほどに、他愛なく幼稚な人物です。あ、これ悪口じゃないですよ。単なる事実の指摘です。ははは。

★エルスワース・トゥーイーが開陳する人間支配の方法は、彼自身の人間観に立脚していますが、それはとりもなおさず、彼自身が、彼の人間観どおりの人間であるからです。支配者と被支配者は、同じ価値観を共有しているからこそ、支配--被支配の関係を形成できるのです。トゥーイーや彼のような人間は、ロークやロークのような人間を支配できません。トゥーイーとロークは、人類という、ほ乳類の種としては同類ですが、霊的には全く違う次元にいます。

★エルスワース・トゥーイーが、ハワード・ロークと二人きりで会う機会があったときに、ロークに、こう尋ねます。「あなたは、私のことについて、どう思っておられますか」と。そのとき、ロークは、次のように答えるしか、ありませんでした。「僕は、あなたのことを考えたことがありません」と。トゥーイーは、ロークを迫害し続けますが、ロークが、トゥーイーのことに悩むとか、憎むとか恐れるとか、そんなことは小説のどこにも全く描かれていません。ロークは自分の人生を生きることに忙しくて、トゥーイーのマインド・コントロールなどに付き合ってはいられないのです。

★何が言いたいか、ですって?要するに、馬鹿と同じ水準に立つな、ってことです。あなたの心を萎縮させるような、あなたの思考をクローゼットに押し込むような類のことをいう奴は、相手にするなってことです。わざわざ敵にする必要もなく、ただただ黙って無視して、忘れろってことです。

★特に、お若い方々に申し上げておきます。まっとうな人間は、わざわざ、あなたのところにやって来て、「私はいいんだけど、私は気にならないのだけど、他の人がさ・・・みんながそう言っているから・・・」などと切り出して、不愉快なことを伝えにきません。頼まれてもいないのに「忠告」などしません。この種の人間を、まともに相手にしてはいけません。「いい人」かもしれませんが、「どうでもいい人」です。