Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

人間支配術、もしくは「人間依存症患者の告白」(その2)  [03/08/2009]


Here’s another. Kill man’s sense of values. Kill his capacity to recognize greatness or to achieve it. Great men can’t be ruled. We don’t want any great men. Don’t deny the conception of greatness. Destroy it from within. The great is the rare, the difficult, the exceptional. Set up standards of achievement open to all, to the least, to the most inept---and you stop the impetus to effort in all men, great or small. You stop all incentive to improvement, to excellence, to perfection. Laugh at Roark and hold Peter Keating as a great architect. You’ve destroyed architecture. Build up Lois Cook and you’ve destroyed literature. Hail Ike and you’ve destroyed the theater. Glorify Lancelot Clokey and you’ve destroyed the press. Don’t set out to raze all shrines---you’ll frighten men. Enshrine mediocrity---and the shrines are razed. (14 of Part Four in The Fountainhead)

(もうひとつのやり方があります。価値判断を行使する感覚を殺すという手があります。偉大さを認識する能力とか、偉大なことを成し遂げる能力を殺すのです。偉大な人間というのは支配されませんからね。我々には偉大な人間は不要です。ただし偉大という概念そのものを否定してはいけません。内部から、人間が自分自身から偉大さという概念を殺すように仕向けていくのです。偉大な人間とか、他人の言うとおりにならない人間とか、例外的な人々というのは、めったにいませんよ。だから、人間に期待されること、人間が為すべきことの水準は、みんなが達成できるような程度のものに設定しておくのです。最低の能力の人間でも成就できるような程度にね。もっとも愚劣な人間でも大丈夫なようにね。すべての人間の中にある、より高いものをめざし努力する意欲、推進力を止めるのです。大きな力だろうが、小さな力だろうが、すべてね。向上しようという励み、卓越しようという意欲、完璧をめざそうとする意志、こういうものすべてを止めること。だから、ロークを嘲り、ピーター・キーティングを偉大なる建築家として持ち上げるのです。そうすれば建築というものが破壊されるでしょう。ロイス・クックを讃えれば、文学を駄目にできる。アイクを売り出せば、舞台芸術を堕落させることができる。ランスロット・クロウキーに名誉を与えれば、出版界そのものを劣化させることができます。人間の中にある偉大さへの憧憬(しょうけい)をぶち壊すために神殿とか寺院とか聖堂とかを倒壊させてはいけませんよ。そんなことをしたら、怖がられてしまいます。世間の人々は臆病ですからねえ。凡庸さというものを神聖なものとして、あがめ奉ればよろしい。そうなれば、神殿とか寺院とか聖堂というものは、自然に壊されていきますよ。)

★相変わらず、花粉症の症状はきついです。しかし、それはそうとして、なんとかやっと頭がはっきりしてきました。『利己主義という気概』の出版後、疲れが出まして、まともな読書も集中してできませんでしたが、やっと、アイン・ランド関連の次の仕事に取り掛かることができるようになりました。アイン・ランドの思想に関する学術研究書の翻訳です。これは、私が翻訳するしかないです。アイン・ランドのきちんとした評伝を私が書き上げることができるのは、まだ先になりそうです(60歳までには出版します)。

★取り掛かり始めたアイン・ランドの思想に関する学術研究書の翻訳本は、広く読まれて売れるような類のものではないですから、出版社にとって出版しても利益などありません。ですから、ビジネス社にお願いできません。勤務先の出版助成金を申請して、このような出版助成金頼みの本を扱うことに慣れた出版社にお願いして、2010年内に出版できるように努力します。学術書ではあっても、読者にとって、日常の現実と思考とを前向きにリンクさせることの一助となるような本にします。

★56歳にもなってしまうと、世間一般の娯楽とかが、どんどん退屈になってきます。世界の大きな仕組みとかが、もれ見えてくると、ほとんどの出版物の記述や、映画やTVが生産するおびただしい数の物語も、虚偽の垂れ流し&虚偽の再生産でしかないとわかるので、単なる暇つぶしにも事欠きます。もう、ほんと私には(勉強を含めた)仕事しか面白いと思えるものがなくなってしまいました。これは、実にシンプルで充実していますが、ある意味において、どんどん浮世離れしてしまうので、その点がマズイです。

★たまに、昔の教え子と食事することがあります。そうすると、彼女や彼の方が、はるかに「世慣れて」おります。「すれっからし」に世間にどっぷりつかっています。現象だけを問題として、それ以上は考えずに、表層的に生きております。私から求めるのは、ひたすら自分を慰撫しチヤホヤしてくれる言葉だけです。そんな程度の言葉を繰り出すのは、私にとっては実に簡単なことではありますが、それは、また実に退屈な作業でもありますので、ついつい私の言葉に熱意がこもらなくて、せっかくの会合(?)が濁ります。

★以前に、私より10歳ぐらい年上の男性の同僚が別の男性の同僚に、「やっぱり人間は、恋しなきゃ駄目よ〜〜一生恋しなきゃだめよ〜〜〜」と話しているのを漏れ聞いたことがあります。ああいう顔で、ああいうこと公言できる大胆さに感心すると同時に、それで暇がつぶれて楽しいと思えるほどに軽薄に他愛なく、浮世を楽しんでいられるというのは、羨ましいことだなあ、と思いました。うそ。「アホか、こいつ」と、思いました。ははは〜〜♪なんか文句ある?

★それはさておき、更新が遅れがちではありますが、この『アイン・ランド語録』は50回までは続けるつもりです。最後まで読んでやってください。今回も、ちょっと長いですが、読んでやってください。

★『水源』の終盤で、「社会改革派の代表的良心的知識人、実は、愚民化政策推進者」エルスワース・トゥーイーが、確信犯的偽善者の温厚慈愛洒脱(しゃだつ)さに満ちた仮面をはずして、歴史的に伝統的に継承されてきた「人間支配の方法」をピーター・キーティングの前でしゃべりまくる場面の続きです。

★言葉というものは、表現の手段でもありますが、同時に「表現しないこと」の手段でもあります。エルスワース・トゥーイーが得意とする、「理想的知識人」の物言いの本質は、「事実を隠す華麗なるおしゃべりというカーテン」です。まあ、ある種の文学作品とか、メディアに氾濫するある種の言論は、みな「事実を隠す華麗なるおしゃべりというカーテン」です。そのような言語のカーテン(=雄弁なる虚偽)の向こうにあるものを推量することこそが、「聴く姿勢」であり「読む姿勢」です。

★講演や、ワンマン・ショーや漫談でもないのに、他人との対話の際に、ペラペラと火がついたようにしゃべり倒す人間とか、やたらに雄弁な人間というのは、だいたいが嘘をついているか、何かを誤魔化しているか、何かから逃げようとしているか、これらのどれかだ、ということは、みなさんも先刻ご承知だと思います。

★ですから、私たちは、不必要に雄弁な人々には警戒します。じっと、その言葉に耳をすませて、動作や目の動きや顔の表情筋(という言葉があるかな?)の動きに注視して、どこまでが本当で、どこからか嘘か、油断なく観察することを習慣としています。それと同じで、マスメディアが、火がついたように、ある問題について、ペラペラ雄弁になり始めたら、警戒しないとまずいですよね〜〜♪最近は、特に多いですねえ・・・

★しかし、この場面での、エルスワース・トゥーイーのおしゃべりは、稀有なことに「正直さ」に満ちております。私がいちいちコメントする必要もないほどに、一目瞭然です。ではありますが、ここに関しては、私はしつこくコメントしたい。させてください!

★前回で、最初に開陳された人間支配の方法のひとつは、「自分のことを、ちっぽけな存在だと感じさせること」でした。そうすることによって、罪の意識を感じさせ、人間が持っている憧れとか高潔さを殺す、ということでした。「あたしみたいな、ちっぽけな人間は、生きてるのも恥ずかしいんだわ。生まれてこない方がよかったんだわ。ましてや、どうにかなりたいとか、どうこうしたいとか、そういう身の程知らずなこと思っちゃいけないんだわ。人間なんて所詮その程度の生き物なんだから、私だけが例外的に駄目なわけでもないし・・・」と、自然に自発的に思うように誘導する、ということでした。

★ちっぽけであることは、「状態」です。その事実は、それ以上のことも、それ以下のことも意味していません。「だから、何?」であります。「それで?」であります。

★状態は永遠ではありません。変わります。ちっぽけであるという普遍的で不変の本質があるわけではありません。「美しい花」という個別の状態はありますが、「花の美しさ」という普遍的で不変な本質が存在しているわけではありません(この花の例は、小林秀雄だったかな?忘れた)。

★問題は、「人間は、ちっぽけだ」という状態の事実を指摘してから、どうするのか?ということです。その状態を変えるのか、変えないのか、変える気があるのか、ならばどう変えるのか?そこが肝心です。事実の指摘には価値判断は含まれませんが、じゃあ、どうするのか?と考えることには、価値判断が作用します。

★ちっぽけだから、ちっぽけのままで、すまそうとする。あるいは、ちっぽけだから、もっとちっぽけになる。あるいは、もっと大きくなる。もっともっと大きくなる。あるいは、ちっぽけだろうが、大きかろうが、自分がやれるだけのことをする。人間が非力で小さい存在だという事実に対して、どう対応するかは、個人が選択します。個人の価値判断に基づいて、個人が選択し実践します。その選択と実践の結果を引き受けるのも、その個人です。

★それに対して、ただただ他人に対して、「あんたは、ちっぽけな存在だから、なんもできないよ・・・身の程知らずなことは考えないほうがいいよ・・・」といい続けるというのは、どーいうことでしょうか?誰も尋ねてもいないのに、そーいうことを、普遍的で不変の真理のように言い立て、書き立てるとは、どーいうことでしょうか?

★こういう類の言説に対して、「あんたが、そう本気で思っているのならば、勝手に黙って自分でそう思っていればいいじゃんか。何をペラペラ、他人にそんなことしゃべってんの?あんたって、そんなに暇なの?どういう必要で、他人にそんなこと話すの?そんなに他人が必要なの?自分の言葉で動く他人がいないと、困るわけ?あんたって人間依存症だね〜〜私は買い物依存症なのよ〜〜特にバッグが好きなのよ〜〜ははは〜〜♪」と、心の中で黙って笑うのが正しい反応です。

★そうです。思想、信条は自由です。勝手に何でも考えていればいい。何を信じていてもいい。しかし、なぜ、それを他人に言い立てるのか?書き立てるのか?それは、言い立てる必要があるからです。書き立てる必要があるからです。

★「人間存在はちっぽけだけど、でも、できることはいっぱいあるんだよ。ちっぽけだからこそ、もっと大きくなろう。ちっぽけだから、まだまだ大きくなれる。恐れずに大きくなろう。大きくなっていいんだよ。大きくなれなくても、そのように志向することは、確実にあなたの人生を変えるよ、面白くするよ。でもさ、ちっぽけな人間が、なんで、ここまでの世界を作れたんだろうね?大したもんじゃない?私はお米作ってないけど、お米食べることができる。お野菜も食べることができる。そういう流通機構が能率的に機能している。お米をおいしく炊いてご飯にしてくれる炊飯器もある。手紙をポストに投函すれば、確実に届く。本を買えなくても、公立図書館に行けば、読み応えのある本をいっぱい貸してくれる。トイレは水洗だよ、肛門洗浄機つきの便器だよ。新幹線の時刻表は正確に守られている。女がひとりで夜道を歩ける。引退した方々がのんびり旅を楽しんでいる。まあ事実ではないにしても事実の一部くらいは報道するメディア網も整備されている。いずれ、石油や原子力に頼らずに環境も汚染しないエネルギー製造装置も開発されるよ。人間って、そう、ちっぽけでもないんだよ、結構、頑張ってきたんだよ。ちっぽけですます人間と、ちっぽけではすまさない人間がいるんだよね。でもって、ちっぽけではすまさない人間たちによって、この世界はここまで来たんだよね・・・素晴らしいね。だから、あなたも、私も、ちっぽけなところから始めて、ちょっとでもいいから大きくなろうよ」

★と、言い立てて書き立てる姿勢の根底には、人間の尊厳に対する敬虔さがあります。愛情があります。だから害はないです。ハワード・ロークがスティーヴン・マロリーを諭すことの背後には、人間に対する愛情があります。マロリーの才能と努力に対する敬意があります。

★そーではなくて、ただただ「あんたは、ちっぽけな存在だから、なんもできないよ・・・身の程知らずなことは考えないほうがいいよ・・・」とだけ言い立てて捨て置くというのは、どーいうことでしょうか?

★実は、「あんたは、ちっぽけな存在だから、なんもできないよ・・・身の程知らずなことは考えないほうがいいよ・・・」といい続ける人間は、根底では、誰よりも、「人間が(あなたが)ちっぽけな存在ではない」ことを知っている人間です。

★この種の人間は、他人が、ちっぽけな存在でいることから抜け出そうとして、それを実現させることが、何よりも嫌な人間です。それが怖い人間です。つまり、自分以外の人間は、みんな馬鹿で不幸で、ちっぽけなままでいたほうがいいと思っている人間です。

★前の回にも言及しましたが、しつこく繰り返しますが、この種の人間は、勝者 vs 敗者としての人間関係か、支配者 vs 被支配者としての人間関係しか想像できません。こういう人間は、互恵的な人間の絆というものを想定できません。もちろん、人間関係が、そこにあるということは、互恵的な関係がそこに(潜在的にせよ、不可視なものにせよ)あるからだと洞察することなど、ありえません。

★なぜ、想定できないかといえば、なぜ洞察できないかといえば、そういう絆を他人との間に形成したことがないからです。正確に言えば、そういう絆を形成してきたからこそ、生きることができてきたくせに、その絆に無自覚なのです。すっごく鈍感です。すっごく頭が悪いです。左脳ばかりで右脳が駄目です。こういう「正統派の秀才」さんが、官僚になって、税金の浪費にいそしんで、テロで殺されても、私は同情しません。

★この種の人間にとっては、他人は常に彼や彼女を脅かす存在です。彼や彼女の心の根底にあるのは、他人に対する、とてつもない恐怖です。世界に対する恐怖です。なんで、そんな恐怖を抱いているかといえば、他人にとんでもないことをされたから、ではありません。自分が、とんでもないことを考えているし、してきたからです。

★ある種の男は女が怖いです。馬鹿息子は母親が怖いです。無能亭主は良妻が怖いです。しかも、自分の恐怖に無自覚です。チンケに横暴さをふりまきながら、厄介事の尻拭いを女にさせてきた駄目男が、女を怖がるのは、自分の影を怖がるのと同じです。白人種が有色人種を怖がるのと同じです。宗主国の人間が植民地の人間を怖がるのと同じです。イスラエルがパレスチナ人を怖がるのと同じです。どちらにしても、恐怖というのは大きな力があるものであって、恐怖に突き動かされている人間は、冷静にものを見ることや考えることができません。まず冷静に物事を見るためには、「夢もなく、怖れもなく」という心的状態になることが必要です。

★この種の人間は、誰かに「あんたは、ちっぽけな存在だから、なんもできないよ・・・身の程知らずなことは考えないほうがいいよ・・・」といい続けることによって、自分の世界に対する恐怖(=自分に対する不信、自分の残虐さに対する自己嫌悪)を、他人に投影するばかりでなく、他人に伝染させます。自分でも意識していない自分の心の奥にある寄る辺なさ、孤立感を他人に伝染させます。そうやって、人々を傷つきやすい状態(vulnerable)にして、自分を守るだけで精一杯だと思い込むような余裕のない状態にして、「夢はなく、怖ればっかり」という状態にして、冷静な価値判断をすることから遠ざけるのです。

★価値判断ができなくなった人間は、価値判断ができないままに漂流しているわけにはいきません。生きることは、すべて刻々の価値観に基づいた選択と、その実践の蓄積なのですから、どうしても価値判断せざるをえません。ですから、自分の価値判断に信頼が持てなくなったのならば、「権威ある人々」、もしくは「権威があるという身振りをする人々」が繰り出してくる言説が提供する価値判断に追従するしかありません。追従していることを忘却するまでに、その捏造された価値観を内面化するしかありません。

★だからこそ、人間依存症患者であるところの、支配欲のための支配欲や、権力欲のための権力欲しかない類の「権威ある人々」とか「権威があるという振りをする人々」のすべきことは、人々の「価値判断を行使する感覚を殺す」ことになります。

★ただし、あからさまに、価値転覆的な価値観など提示しては駄目です。「世間の人々は臆病」なのだから、偉大さを否定したりするようなラディカルなことはしてはいけません。あからさまに愚劣なものを賛美するような革命的なことに対しては、人々は「ドン引き」してしまいます。一部のオッチョコチョイの新奇な物好きは、新しいものには、何でも反応しますが、この種の馬鹿な「業界人」は、どうでもいいです。お馬鹿タレントかゲイノー人にでもなっていればいいです。問題は大多数のフツーのまっとうな堅気の市民です。

★フツーの人々が受け入れやすいものは、やはりフツーのものです。ですから、凡庸なものを賛美するというのが、もっとも有効です。「ありきたりのものに幸福がある」とか、「ふつーのささやかな日常にこそ真理がある」とか、「自然なままでいられる人間関係がいい」とか、「ありのままの私がいい」とか。

★ありきたりのものが面白いはずないだろーが!ふつーのささやかな日常なんか退屈なだけだろーが!そんなもん繰り返しているだけならば認知症になるわ!自然なままでいられる人間関係って、何だ?人間関係ってのは、親兄弟だろうが、夫婦だろうが、気を遣いあってあたりまえだ!家族に無礼でいるような馬鹿な人間が、なんで他人に礼儀正しくできるんだ?(私の教えた男子学生の中に、母親のことを、名前で呼び捨てにしていたのがいました。こいつの父親は、自分の妻を呼び捨てにする息子を殴り倒すべきだ!あいつの嫁さんは確実に不幸になるだろ〜〜)

★ありのままの私がいい?生まれっぱなしの自分でいて、どうするんだ?生まれっぱなしのままですますことができる人間なんて、この地上にいるのか?狼に育てられた少女だって、努力して学習するんだぞ!

★というようなことを言うのは、「保守反動で反民主的で時代遅れで人間の格差を助長する輩」ということにしておけば、エルスワース・トゥーイーの思う壺です。

★そうこうするうちに、人々の価値観が狂ってきます。狂ってくるというより、人間としてまっとうだと認知される水準が低くなります。「人間としてクリアすべきこと」のハードルが低くなります。「この程度でOK」となると、そう思い込むようにコントロールされると、実際そういう価値観が内面化され、その程度で終ります。

★greatnessに憧れる尊敬心、畏怖する心、そのgreatnessの一部でもいいから自分自身も手にしたい、実現させたいと思う向上心や意欲がなくなります。反対に、そのような向上心や意欲は、身の程知らずの傲慢さであり、非現実的な鼻持ちならない強欲さ、ということになります。「そうなれば、神殿とか寺院とか聖堂というものは、自然に壊されていきますよ」ということになります。

★しかし、そこまで行くと、エルスワース・トゥーイーも困ることになるんではないでしょうか?そこまで行くと、坂道を転がり落ちるように、人々の価値観はどんどん劣化し、ついには完璧な価値転倒が起きるのを通り越して、無規範(anomie)になるのではないでしょうか?人々の言動がどんどん低きに流れるあまり、モラル・ハザードが進行するのを通り過ぎて、無規範になるのではないでしょうか?「このルールを守れば、このような利益を得られる。こういうルールがあるから、こういうことは起きない」という約束事が機能しなくなるのですから、社会は混乱します。「何でもあり」になると、いずれ、何も機能しなくなります。

★人々が、自分で価値判断することを回避して、トゥーイーのような類の人間が提示する価値観を内面化して、トゥーイーのような類の人間の支配下になるまでは、まあ、勝手にやってちょーだいでありますが、それを通り越して、無規範になったら、トゥーイーのような寄生虫が寄生できるだけの安定した「秩序ある」社会が維持されるのでしょうか?価値観のない「空っぽなヒト」は、奴隷にも家畜にもなれません。この種の人類は、本能というストッパーのある動物でもありません。あとは戦争とか、天変地異への対処機能不全ということで、その社会は消滅するしかありません。

★長期的に見れば、合理的な自己利益に鑑みれば、エルスワース・トゥーイーの人間支配法は、自己破滅に至ります。だから、エルスワース・トゥーイーは、他愛がなくて幼稚だと、私が前回に書いたゆえんです。

★あと1回でこのテーマを終るつもりでしたが、あと2回、このテーマが続きます。次回の「人間支配法」は、「笑いで殺せ」です。