雑文

人類に愛はまだ早い、いや永遠に早い=利他主義なんてやめておけ論 「幸福な王子」は究極のハード・ボイルドだ!(3)


社会派童話だからか?

ひょっとしたら、私がこの小説をいわゆる「社会派童話」と考えるからハード・ボイルドだと考えていると、あなたは思っておられるかもしれませんね。たとえば、私が次のようなことを考えていると、あなたは想像しておられるかもしれませんね。

「幸福な王子」は、野蛮な冷酷な弱肉強食の十九世紀末という時代には、生まれなければならなかった童話だと。王子の刀の柄にあったルビーを与えられる貧しい母と子も、王子の目になっていたサファイアを与えられる貧しい青年やマッチ売りの少女も、王子の体をおおう金箔を与えられる乞食のこどもたちも、それによって助けられるのは一時のことでしかありません。貧しい人々の力となり、まともに暮らしていくようなシステムが整備され機能しなければ、貧困の悲劇は解消されません。個人の悲劇と見えるもののかなりの部分が社会的に構造的に政治的に生み出されたものであり、制度とその運用で軽減できるものであるという考え方が広範囲に広まった現代においては、王子とツバメの行為は、美しいけれど無意味です。貧困の解消とは、一時の優しさや慈善で消えるような問題ではありませんから。

確かにこの童話は、個人の善意とか慈善のような恣意的なものに依存しなければならないほど政治/経済機構が不備であった時代(今でも似たようなものだが)だからこそ、書かれなければならなかった物語です。リアル・タイムでワイルドの童話を享受した子どもたちは、上層中流階級には属していた家庭の子弟です。慈善精神や社会的使命感を育成する余裕と義務のあった層の人々です。この童話からは、社会主義に共感した作者オスカー・ワイルドの、社会の不正と不公平に満ちた実相に対する哀しみが、無力感が、抑制された怒りが、痛々しく透けて見えます。そこで描かれることは実に政治的です。実際的な現実的な行動に人を誘う、一種のプロパガンダ童話である相を持っています。つまり、あいにくと残念ながら、情けないことなのですが、この童話は政治的童話として、二一世紀初頭でも、まだまだ有効です。貧困によって個人の人生を充分歪めてしまうほど、社会のセイフティ・ネットは脆弱です。穴だらけ、ほころびだらけです。理想の時代とは、理想の社会とは、この童話が読者の涙を誘わなくなった時こそ、実現されていることでしょう。現代は、まだまだ個人の善意や慈善精神に頼らねばならないほど、野蛮です。私としては、この野蛮さがいつか人類社会から完全に消えるとは信じていないのではありますが、だから無意味でも慈善は必要だとは思いますが、もう少しはこの野蛮さ、残酷さは軽減できるはずです。

社会派童話としての「幸福な王子」。あなたのご推察はある程度正しいのですが、それだけで、この童話がハード・ボイルドであるとは、私は考えておりません。単に硬派の問題を扱っているから、ハード・ボイルドではないのです。