雑文

人類に愛はまだ早い、いや永遠に早い=利他主義なんてやめておけ論 「幸福な王子」は究極のハード・ボイルドだ!(4)


愛は人類の手に負えない

私がこの童話をハード・ボイルドだと考える理由は、この童話がとても「苛酷」で「非情」だからです。「暴力的」でさえあります。恐いようなあぶない童話ですよ。そう私が考える理由はふたつあります。ひとつは、愛というものは、何かを介在しないと不毛だという思想を、この童話があらわにしているから。もうひとつは、その何かを介在しないと、その何かを成就させないと成立しない愛というものを成立させるためには、その何かを介在させるために、その何かを成就させるために、皮肉なことに人は、自分のみならず、愛する人を犠牲にしてしまわざるをえないという思想を、この童話が前提としているからです。話が少々まわりくどくなるかもしれませんが、順を追って説明させてください。

「幸福な王子」という童話には、世間一般に考えられている「恋愛」とか「結婚」というものの内実の貧しさへの風刺があります。たとえば、ツバメが仲間がエジプトに飛んでいったあとも、秋になったのにぐずぐずと北の国に留まっていたのは、川べりに生える葦に恋したからでした。そのほっそりとした腰にひきつけられたからでした。結婚の申し込みまでツバメはしました。仲間たちは、彼を嘲笑しました。葦には財産はないけれど親戚だけは、やたらいますから。葦というのは群生しているものですからね。結婚相手に係累が少なくて財産がある者が望ましいのは、結婚が生活手段である限り当然です。手段としてはできるだけ有効で利益の高いものがいい。係累が多ければ交際も煩雑になり、援助も期待さかねないので出費も多く、財産でもなければ引き合いません。結婚相手の親との同居に広い二世帯住居提供を要求する女性や、ひとり娘との結婚に財産の継承や新居購入資金の援助を相手の親に期待する若者と、十九世紀末の結婚事情とは、本質的に同じです。

それはさておき、葦に恋したツバメも、葦に次第に飽きてきます。葦が無口だし、風とたわむれていて浮気っぽく見えるし、旅が好きそうでないからです。葦は植物だし、細いから風に吹かれやすいし、地面に根を張っているのだから移動はできません。葦自身にはどうしようもない理由で、ツバメは葦が嫌いになり、葦から去ります。恋愛というものが、相手のありようを受容することではなくて、自分の思いこみや幻想を相手に投影して右往左往する現象であることを、この童話は皮肉っています。

「幸福な王子」の王子とツバメの関係が同性愛的であるという見解は、先に引用した記述や、作家が同性愛者であったという伝記的事実から証明できますが、と同時に、童話に示唆されている「異性愛中心主義」批判も、その証拠と言えます。男女間の恋愛は賞揚されて、男どうし(女どうし)の恋愛は「変態」とか「異常」と分類され、同性間の結婚など荒唐無稽なスキャンダルとして遇されるような状態を、「異性愛中心主義」と呼びます。異性間の結婚とか恋愛だけが、なぜこうも一方的に美化されてきたのか不思議といえば、不思議なことです。その内実の貧しさについては、古代から人々が知っていたからこそ、逆説的に美化してきたのでしょうか。

とにもかくにも、「幸福な王子」のツバメと王子の関係が同性愛的であることや、異性愛に風刺的であることなどは、この童話の大きな要素であることは確かでしょう。しかし、それは最も大きな要素、主題ではありません。そこを間違えると、この童話が提示する童話にはふつりあいな愛に関する苛酷な思想を見落とします。

ツバメと王子の関係はなぜ美しく見えるのでしょうか?もう一度、確かめましょう。同性愛だからですか?同性愛が異性愛よりは、卑しさや打算が介入しにくいからですか?確かに、ツバメと王子の関係において、ツバメは王子から結婚という生活手段を得るわけでもないし、王子に勝手な幻想を、自己の欲望を投影できるわけでもありません。それどころか、王子が思いを遂げることを手助けして死んでいきます。愛というものが、無私なまじりっけのない奉仕と献身であるのならば、これは確かに無私な行為であり、確かに愛なのでしょう。ところで、その無私の愛は、ツバメと王子が同性愛だから成立したのでしょうか?現行の文化システムにおいて、「結婚」や「恋愛」が推奨される異性愛と、そうではない同性愛とでは、生活上の世俗的な実際的な利益や世間の承認がない同性愛の方が、純度が高いといえるでしょう。しかし、打算から比較的遠いから、純度が比較的高いから、無私であるとは断言できません。勝手な幻想や欲望が投影されたり、打算がまじるのは、異性愛だろうが、同性愛だろうが同じことです。卑しさや身勝手は、同性愛だって当然あります。人間のすることですからね。

ツバメと王子の関係は、ツバメにとっても王子にとってもなんの利益もなく、彼らの関係が貧しい人々を助けるという「志」のささやかな実現のためにのみ、成立しているからこそ美しく見えるのです。ツバメと王子は、利他的なこと、いわば何らかの大義を介在させて、その成就のためにしか関係しません。ツバメは、厳密に言えば、王子のために飛ぶのではありません。王子の実現させたい義に共感し貢献するから王子のそばに留まります。王子はツバメ自体に関心があるわけではありません。自分が実現したい義に共感し貢献してくれるツバメだから愛するのです。彼らが美しく見えるのは、彼らが互いのために生きているからではなく、何か意味あることを介在させて、何か意味あることの実現の方向をめざしていて、そこに彼らのエゴが介入する隙間がないからです。エゴイズムや自己増殖や自己愛の偽装ではない愛の関係は、美しく見えるのです。なぜならば、私たちは、一般的にエゴイズムや利己的欲望については、「醜い」「汚い」と感じる価値観の世界に住んでいるからです。「真実の愛」という純粋な何かがあるにちがいないと想定する世界に住んでいるからです。

『ベルサイユのバラ』という一九七〇年代半ば頃に非常に人気を博した少女マンガがありました。『オルフェスの窓』もお描きになり、現在は声楽家として活躍中の池田理代子さんの作品です。このマンガは宝塚歌劇で上演され大ヒットしました。その挿入歌には「愛」ということばが満載されていました。それが、あの当時の私の耳に、あまりにも甘ったるく、あまりにも少女趣味に、つまりアホらしく響かなかったのは、このマンガの主人公であるオスカルとアンドレがフランス革命の成就という大義を介在させ、ふたりともその大義に殉じて死んだ恋人たちだったからです。こうした関係にある当事者たちは、互いに互いがその大義に殉じることで滅びていくのを、受け入れ傍観しなければなりません。ときにはそれを互いに強制しあわなければなりません。それは冷酷で薄情に見えますが、義の実現のために成立している関係という意味での愛を立ち上げるためには、選ばねばならない態度なのです。愛を立ち上げるために非情になるのです。その非情さや無情さは、もちろん両刃の剣であり、もちろん自分にも向けられるものでもあります。真に無私な行為の非情さ。無情さ。これは究極のハード・ボイルドです。

ここまでくると慧眼のあなたならば、お気づきになるのではないでしょうか。キリスト教で言うアガペー、神的な愛、最高の兄弟愛というものは、こういう構造の愛だということを。ユダがキリストを裏切ったのは、こうした愛のあり方が理解できなかったからかもしれません。ユダは、私たちに似ています。ふつーの自己愛まじりの純度の低い愛を求め、それで結構満たされる気になる人類一般なのです。私たちは、ぐじゃぐじゃに柔らかい、もろい割れやすい生卵です。Humpty Dumptyです。

キリスト教的兄弟愛という思想の、苛酷さとその非情さは、人類離れしています。こんな思想を古代に言い立てたイエス・キリストという人(が実在したとして)の頭の中身は、どんなものだったでしょう。ほんとに、こんなことを提唱したのかなあ?なんで、こんな無理なこと提唱する気になったのかなあ?ひょっとして、キリストって、生きていたくなかったのかもしれないなあ。自分ひとりで勝手におもっている分にはいいけれど、こういう無理な思想を世界に広めてくれるのは困るなあ。ま、世界に広めたのは弟子なんだけどさ。

もし、キリストが、そのような「愛」を説いた「天才」だったのならば、この介在してくる義が神の領域に属するものではなくて、悪魔の領域に属することもあるかもしれないという危険や戦慄も予感できたはずですよね。二千年の時間が経過しても、この思想は人類にはまだまだ手に負えません。この思想を信じた人間、そして自らにも非情になれた人間が、世界史において多大な貢献をしたことも、なかったわけではないだろうと思います。しかし、とんでもない災害をもたらしたこともありました。キリスト教(会)の歴史は、キリスト教で呼ぶアガペーが、いかに人類には先端的すぎる過激な思想であったか、を、またその思想が悪魔の領域の行為の実現の拍車にもなったことを、如実に示してきたではありませんか。

ここで、私はキリスト者にまま見受けられる偽善について、とやかく言っているのではありません。たとえば、あなたの回りにも生息していますね。無私な義の実現のための共同作業の現場にしか立ち上がらない愛というものが要求する非情さや無情さを、相手には要求しても、自分には要求しない人間。クリスチャンと称する方で、実に立派な正論を語り説くのですが、実際のなさっている行為は自己保身だけという人物。こういうのは、単に頭が悪くて小心なだけなのだから、ほっておけばよろしい。日本のミッションスクールあたりで、頭の硬い女子学生に(心の中で)セクハラでもしていればよろしい。臭い口で賛美歌でも歌っていればよろしい(こういううっとうしい奴が、前の勤務先にいてさ、まいったよ。女房は忠告してやらないのか?)。

私が言いたいのは、要するに、こういう無理な思想=利他主義というものの危険性なのです。あなたが、世界の平和(今、この雑文書いてる最中にアフガニスタンはアメリカの空爆を受けています)を望むのは、あなたの人生のためでしょう。あなたの愛する人々の人生のためでしょう。いずれにしても、あなたが中心だ。これは、egoismではなくてegotismです。あなたが、幸福でなければしかたない。あなたが、幸福でいるためには、他人の幸福が必要だ、というのならばわかる。しかし、他人の幸福のために自分の幸福を諦めるわけにはいかないでしょう。まずは、あなたが幸福でなければならない。中には、他人の幸福のために、自分を捨てることを難無く、快感をもって実践できる人間もいるかもしれない。それは利他愛というものではないでしょう。自分の幸福がどういうものか、わからないし、その実践方法もわからないし、考えるのも億劫なので、他人の人生に殉じるという形式で、他人に寄生しているだけのことでしょう。こういう寄生が美談とされるのは、伝統的女性の存在様式に関してだけではありません。大義に殉じる人々の中には、こういう類いの「面倒くさがり屋」「思考力不足人」「高等寄生虫」「自発的奴隷」が、多いと、私は思います。大義に殉じる人々って、そうお目にかかることもありませんが、あまり陽気そうではないよね。明るいスッキリした顔してますか?マザー・テレサって言ったっけ、インドの聖女の修道女。何となく、意地が悪そうでしたね。かなわんわ、ああいうの。ユダもなあ、さっさとキリストから離れて、弟子集団から自立して、自分の脚で歩き出せば、歴史に残る「悪人」というレッテルを貼られることもなかったのになあ。