雑文
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人類に愛はまだ早い、いや永遠に早い=利他主義なんてやめておけ論 「幸福な王子」は究極のハード・ボイルドだ!(5)


「幸福な王子」が、キリスト教的兄弟愛の童話であるということは、決して新しい見解ではありません。しかし、その「あたりまえ」の中身の苛酷さを、ほんとうに考えた読者は、多くはなかったのではないでしょうか。

前にお名前を上げた大橋洋一先生のことばを、もう一度思い出してみます。先生は、ツバメと王子の関係を「強固な意志をつらぬく年長者とそれを看取る若者」という同性愛関係の一種の変奏、もしくは「死を契機に絆を強くする師匠と弟子の物語」の童話とお書きになっておられましたね。オスカー・ワイルドが同性愛者であり、彼の同性愛的欲望がこの童話に反映されているとしても、その同性愛的欲望がなぜ師匠と弟子という関係で表象されたのでしょうか。ワイルドが男を愛する男だったとしても、その欲望が、童話の中で師匠と弟子という関係で表現された理由は、単に彼が同性愛者であったからということでは説明できません。

師匠と弟子の関係は、学問という、ふたりにとって意味ある何かを成就させる関係です。それ以外の目的のない関係です。学問という介在(もしくは学問という記号を持った、真理とか神という超越的なるもの)がなければ出会いもしないし、本来はその介在がなければ会話さえ成立しない関係です。師匠と弟子の関係は、いわばキリスト教的兄弟愛の世俗ミニチュア版です。ジャック・ラカンという精神分析学者は、間主観的三者関係と呼ぶかも知れませんが、私にはこういう難解なことは、わかりませんので無視します。わからないものを、わかったふりしても、しかたありませんので。

ともかくも、同性愛者は、異性愛者よりは、こうした仕組みを持った人と人の結びつきを憧憬しやすいでしょう。現行の文化においては、家族とか生殖とか、遺伝子の継承という大義(これは人間が生物である以上、大義でしょうねえ)が用意されている異性愛者とは違って、同性愛者にはそれを継続させる意義を、自前で調達せねばなりません。同性愛者には、非常に優れた芸術家や学者が多いことは知られておりますが、その理由は、彼らや彼女たちの自前の大義への傾倒、「殉教」の度合いの高さ、純粋さがあげられるでしょう。同性愛者であったからこそ、ワイルドは、「幸福な王子」における苛酷な愛という思想を、危険思想(と呼んでいいでしょう)を大胆にも描けたのかもしれません。

それはさておき、ともかくも、この童話が、読んで一時泣いて忘れるような感傷解放装置としてや、ガキの本棚用飾りとしては、ハード・ボイルドすぎると私が考えるわけは、こういうことなのです。ゆめゆめ、こんな話は、お子さまの枕元でなさいませんように。どのガキに、世界史の迷惑=キリスト(もしくはその弟子たち)の遺伝子が潜んでいるかわかりませんから。利他主義なんてやめておけ。愛は、まず自分から。その意味で、キリスト教的愛は、人類にまだ早いです。永遠に早い。そんなものは人間の愛ではないから。私たちは、人間ですからね、天使のふりしてもしかたないよ。


―――――― おわり。

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