論文
ディズニー・アニメーションとフェミニズムの受容/専有
―『ムーラン』における女戦士の表象をめぐって―

はじめに

本論の目的は,ディズニー・アニメーション映画(以下ディズニー・アニメ)における1980年代以降のヒロイン造型におけるフェミニズムの影響と,その問題点を考察することにある。主流体制文化のイデオロギー維持と強化の装置である大衆通俗文化メディアのひとつである「お子さま向きマンガ映画」が,現行の性文化の支配的特徴である性別階層分化(=ジェンダー化)に特徴づけられていること自体には何の不思議もない。あからさまな性差別は正当に非難されるようになった2000年現在という文脈において,本論がすることは,単に性差別の諸相を指摘し批判することではなくて,明らかにフェミニズムが受容されたかに見える作品における逆説的危険性と,それでもなおかつ持ちうる可能性について論じることである。

大衆通俗文化メディアの代表のひとつディズニー・アニメでさえ,1937年の最初の長篇作『白雪姫』(Snow White and the Seven Dwarfs)から最近作まで概観すると,20世紀後半の世界に確実に浸透してきたフェミニズムに対応して,ヒロインの造形は変化してきた。ディズニー・アニメは大衆通俗文化のメディアだからこそ,社会の思想の変化に従わなければならない。かつては先端的であった思想が,時間の経過と一般社会へのある程度までの浸透により,大衆通俗文化のメディアに受容されていく。その受容により,その思想は一般社会に,より一層浸透していく。しかし,その受容のありようは,必ずしも,その思想そのものを真正面から受け入れるものとはならない。全くの白紙状態に書き込まれるのではなくて,新しい思想の受容とは,従来の伝統的思想の枠内から消化されるのであるから,受容される新しい思想が変質させられることは,ありえる。新しい思想を受け入れるはずが,古い思想にとって都合のいい点のみを取り入れて,リニューアルしたように見せかけることさえある。こうした古い思想による新しい思想の専有(appropriation)は,意識的にされることもあれば,無意識にされることもある。それぐらい,伝統的思想の枠組みの中に,私たちは捕らえられている。大衆通俗文化を支える従来の古いイデオロギーを真に乗り超えるために,こうした受容のあり方を分析するのは無駄な作業ではない。題材は,比較的最近作『ムーラン』(Mu Lan,1998)とする。フェミニズムの受容とそこに生まれる危険を示す適例だからである。

ウォルト・ディズニー(Walt Disney,1901-1966)という個人の大衆芸術家から派生した作品のひとつとしてではなく,スタジオで集団製作されたディズニー・アニメ作品を扱うので,天才アニメーターであり起業家であるウォルト・ディズニー(と,その兄)の作家性に関することが中心的な話題になるわけではないことを,ことわっておきたい。